byやませみ

5 温泉の化学

5-5 炭酸泉と炭酸水素塩泉

5-5-3 炭酸泉の特性

温泉分析表では遊離二酸化炭素(CO2)が1200mg/kgとか書いてあって期待したのに、浴槽のお湯はぜんぜんアワアワしてなくてがっかり。という経験をした方は多いでしょう。でもどうして? 分析表の数値は間違っていたのでしょうか?こうなってしまう理由は、遊離二酸化炭素が、ガス性物質(気体)で温泉に溶けているために、温度やお湯の扱いに非常に敏感なためです。

下の図には、DATAが入手できた108件の炭酸泉(含CO2泉)について、泉温とCO2含有量の関係をみたものです。いくつかの例外はありますが、泉温が高くなるにつれてCO2含有量が少なくなる傾向がみてとれると思います。図中には純水へのCO2溶解度(溶け込める量)もあわせて曲線で示してあります。

高濃度の塩類を含む水溶液でのCO2溶解度は、この曲線よりもさらに若干小さくなりますが、それでも大部分の温泉では、各温度でのCO2の溶解度よりも下に入っていることがわかります。40℃くらいの温泉では理論的にはCO2=1000mg/kgくらいが限界値で、源泉でそれ以上の数値が計量されていても、浴槽水にとどまることはできないのです。分析上は炭酸泉という泉質名がついていても、浴槽のお湯では定義上の炭酸泉は存在できないことになります。




図5-5-3-1 炭酸泉の泉温とCO2含有量の関係 (泉質別に色分け)
CO2が400mg/kg以上を対象とした

逆に、泉温32℃以下になると、炭酸泉の件数もCO2溶解度もぐんと増えてきます。しかし、この温度ではそのまま浴用にするには不向きです。浴槽で40℃くらいの温度になるように加熱して使用するのが一般に行われていますが、こうするとCO2の含有量は半分程度まで減ってしまいます。ボイラーの釜に接する部分では一時的にせよもっと高温になりますから、せっかくのCO2はほとんどお湯から抜け出してしまいます。これではまったくの台無しです。

炭酸泉の入浴では、血液が体表部に集中するので、通常では冷たい34℃程度の冷浴でもぽかぽかと暖かく感じることができます。泉温が32〜36℃くらいの温泉が浴用には最適だといえるでしょう。ところが残念なことに、この温度範囲の温泉はどいうわけかとても数が少ないのです。図中でもこの部分だけポイントが少なくなっているのがはっきりとわかると思います。

山形県の今神温泉は、念仏を唱えながらのぬる湯長時間浴で効能が豊かなことで知られていますが、CO2の含有量は低いものの上記の意味ではやはり貴重な存在であることがわかります。みなさんのお近くに、泉温が32〜36℃くらいで炭酸泉を加熱利用している施設がありましたら、是非源泉のまま使用することをお薦めしてあげて下さい。

また図をみると、CO2の溶解度曲線からはるかに離れたところに高濃度の炭酸泉がいくつか存在していることが歴然で、これはたいへん奇妙です。その理由はこうです。CO2に限らず、一般に気体の水への溶解度は圧力に比例して大きくなります。(註:塩化水素(HCl)のような溶解度の極端に大きなガスではあてはまりません)。温泉は地下深部(貯留層)では地上よりもはるかに大きな圧力がかかっています。湧き出す前の温泉にはたくさんのCO2が溶け込んでいられるのです。ところが、温泉を汲み出すと急に圧力が大気と同じ1気圧まで下がるので、溶け込んでいられなくなった過飽和のCO2は気泡となって分離し、ブクブクと泡立ちます。これの甚だしいときは沸騰しているように見えるので「泡沸泉(ほうふつせん)」とよびます。

自然湧出泉のなかには炭酸ガスの発泡で泡沸状態になり、温泉水を高く噴き上げる間欠泉がみられることがあります。山形県の広河原間欠泉、島根県の木部屋間欠泉などが有名です。動力ポンプを使って急激に揚湯すると、温泉水をかき回すことになるので気泡ができやすく、CO2の脱出が過剰に促進されます。これはビールや炭酸飲料の缶を振って空けたのと同じことで、いわゆる「気の抜けた」状態になってしまいます。温泉をそろそろと静かに汲み出すとCO2が温泉水に留まっている割合が高いようです。図中の溶解度曲線より一段高いところに一連の直線的集まりがありますが、これはそういうものを表しているのかもしれません。

しかし、長湯、小屋原、大塩、みちのく(青森県)、吉川(兵庫県)といった日本一クラスの高濃度炭酸泉では、上記のような説明ではちょっと納得できかねますね。これらはいずれも溶存成分の多い塩化物泉や炭酸水素塩泉ですから、このような濃い水溶液では、単純な溶解度だけでは表せない、炭酸ガスを水中に留める化学的なメカニズムが働いているのかもしれません。



図5-5-3-2 源泉のまま使用の小屋原温泉(38.2℃)では身体に大量の泡がつく
写っているのは腕です (photo by えびら)

天然炭酸水の利用

日本の養老の滝伝説をはじめ、世界各地には酒の流れる川の伝説がたくさん残っています。奈良時代に各地で編纂された「風土記」の中にも、「醴泉(こさけのいずみ)」や「酒水」という記述があります。これは炭酸泉のことではないかと解釈したのは、日本の温泉化学の開祖でもある江戸時代後期の宇田川榕庵(うだがわ・ようあん)です。昔のお酒はいわゆる「どぶろく」や「泡盛」の類で、発酵後に加熱・濾過をしないために沸々と炭酸ガスの泡がたつものでした。自然に湧出する炭酸泉の様子はこれとたいへん良く似ています。また、炭酸泉を飲用すると、体表部の血流が良くなって顔が赤くなり、少し酒に酔ったと同じような状態になります。

昔の人は炭酸泉の療養効果について良く知っており、幅広く入浴・飲泉で利用していたようです。これについては、中村昭先生が「本邦における炭酸泉の歴史的概観」という詳しい著述を「人工炭酸泉研究会雑誌(1999)」にされていますので、興味のある方はお読みください。下記サイトからダウンロードできます。

人工炭酸泉研究会
http://www.CO2kur.com/index.htm

明治期になると、天然炭酸水の飲料が爆発的に流行しました。これは当時、世界的に流行したコレラの予防薬として広く信じられたためでもあるようです。最も古い発売は、京都の「山城炭酸水(1880年)」のようですが、有名なのは1888年に兵庫県川西市の平野鉱泉を用いて発売がはじめられた「三ツ矢平野水」で、これが後に「三ツ矢サイダー」となり現在に至っています。1889年には同じく兵庫県の生瀬炭酸泉を用いた「ウィルキンソン炭酸水」が発売になり、こちらも関西圏では今でもおなじみの商品です。しかし、どちらも現在では天然水ではありません。ほかにも、有馬炭酸泉、大塩炭酸泉(福島)などがあり、ヨーロッパを中心として海外に輸出されていました。

ヨーロッパではフランスの「ペリエ」をはじめとする天然炭酸水が広く普及していますが、日本では炭酸飲料の大部分は人工的に製造されたもののようです。人工炭酸水の製造のはじまりは比較的古く、英国人のジョセフ・プリストリーが、石灰石と硫酸との反応で得られた炭酸ガスを水に飽和させる方法を発見したのが最初といわれています。

人工の炭酸飲料は、今では簡単に手に入ります。相当な山奥に行っても無人の野山に忽然と自販機が置かれていて妙な気分になったりします。でも、身体に良いからと意識して飲んでいる人なんて誰もいないですね。どうやら天然の炭酸水と人工のものでは根本的に違うところがあるようです。最近、炭酸泉の酸化還元電位(ORP)を調べた研究で、天然と人工では明らかな相違があり、天然炭酸泉では還元性を示すことが特徴であることがわかってきています(大河内ほか(2000))。これがどういう意味をもつのかは未だはっきりとはしませんが、興味ある結果だと思います。また、これも最近、天然炭酸水の疲労回復効果が高いことがわかり、ペリエの販売量が飛躍的にのびたということもあったそうです。

バード・ナウハイムに代表されるドイツでは天然炭酸泉の飲用が広く普及していますが、日本では冷鉱泉が浴用にむかないこともあり、昔からある泉源も放置・埋没して今では所在さえ判然としないものが多くなっています。今一度、天然炭酸泉を見直しても良い時期になってきているのではないでしょうか?


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