1815年6月18日午後
ラ=エイ=サント





銃眼が設けられた農場


 ラ=エイ=サントの陥落時刻について午後4時頃だったという説がかつて存在したことは「1815年6月18日午後 モン=サン=ジャン」で紹介した。今ではこの説を採用する人はほとんど存在せず(例外はある)、大半の歴史家がラ=エイ=サントの陥落時刻は午後6時過ぎだと見ている。
 午後6時説を裏付ける重要な根拠となっているのは、ラ=エイ=サントの守備に当たったKGL(王立ドイツ人部隊)第2軽大隊の指揮官であったバリング少佐が残した記録。この記録が事実であれば、午後4時から始まったフランス軍の騎兵突撃の時点でバリングはラ=エイ=サントにとどまっていたことになり、午後4時にラ=エイ=サントが陥落したという説は成立しなくなる。また、バリング以外にフランス側でネイ元帥の副官だったエイメ大佐も、ラ=エイ=サント陥落は午後6時より後だったと言明している(『1815年6月18日夕刻 ラ=エイ=サント』参照)。
 ただ、問題はある。一つにはバリングやエイメの記録が世に出た時期が遅かったこと。エイメの回想録が出版されたのはgallicaによれは1829年7月。バリングの談話がハノーヴァーの雑誌に掲載されたのは1831年(Gareth Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p250)であり、いずれもワーテルローからかなりの時間が経過している。人間の記憶が時の流れに対してどれほど当てにならないかは、「1815年6月15日 ブリュッセル」でツィーテンの自叙伝を例にあげて指摘した。
 もっともバリング自身は自らの談話について、1816年(ワーテルローの翌年)に友人からの求めに応じて記したものを第三者が勝手に雑誌に掲載したものだとしている。これが事実ならバリングの談話の信頼性も多少は上がることになるのだが、何しろ本人が言っているだけで裏付けがない。そこで、以下ではバリングの発言をもう少し詳細に分析してみよう。
 使用するテキストはGloverの"Letters from the Battle of Waterloo"に掲載されている英訳文を使う(原文はドイツ語)。バリングによればラ=エイ=サントへの攻撃は主に4回あったという。

 1回目の攻撃

「正午少し後、いくらかの散兵が攻撃を始めた」(p243)
「そして英国近衛竜騎兵がやって来て――胸甲騎兵を撃退し――歩兵に襲いかかり、既に多くの損害を受けていた彼らをほとんど壊滅させた」(p244)


 攻撃休止期間

「私の支援要請に対し、[KGL]第1軽大隊に所属するギルザ大尉とマルシャルク大尉の中隊が送られてきた」(p244)
「敵は我々におよそ半時間の休止を与えた」(p244)


 2回目の攻撃

「その間、4列の騎兵が農場の右前方に展開した」(p244)
「この騎兵が我々の方陣によってどのように迎えられ撃退されたかは非常によく知られているのでここで触れる必要はないだろう」(p245)
「騎兵が退却した時、歩兵もまた無駄な攻撃を諦め、我々の叫びと嘲りに伴われながら後退した」(p245)


 攻撃休止期間

「そうして約1時間が経過した時、私は敵の縦隊が再び農場へ前進してくるのを発見した」(p245)

 3回目の攻撃

「第5歩兵大隊の散兵と伴にフォン=ヴルム大尉が私を助けるため送られてきた」(p245)
「そしてさらに半時間の間断ない戦闘の後で、私はある士官に同じ[弾薬補給の]要請を持たせて送り出した。
 これは過去2回の要請と同様無駄に終わった。しかし、代わりに200人のナッサウ兵が送られてきた」(p245)
「この攻撃はおそらく1時間半ほど続き、そして成果のない努力に疲れたフランス軍は再び後退した」(p246)


 攻撃休止期間

「そして最後に現状ではこれ以上の攻撃から持ちこたえることはできないと私は特に報告した。それでも無駄であった! 今や私はどれほどの不安を抱えて敵の2個縦隊が我々に向かって行軍するのを見たことか!」(p246)

 4回目の攻撃

「敵は考える時間を与えてくれなかった。それまでに経験した抵抗に苛立ち、彼らは改めて激しく攻撃してきた」(p246)
「陣地を放棄する決断は痛ましいものだったが、人間としての義務感が名誉を上回り、私は家を通り抜けて庭へ退却するよう命令を出した」(p247)


 注目すべきなのは以下の点だ。

(A)1回目の攻撃の際に、英国近衛竜騎兵連隊がフランス胸甲騎兵部隊などを撃退したこと。
(B)その後の休止期間に第1軽大隊から増援が送られてきたこと。
(C)2回目の攻撃の際に、フランス騎兵が連合軍方陣に突撃を行い、失敗したこと。
(D)フランス騎兵が退却したのと同時にラ=エイ=サントへの攻撃も止んだこと。
(E)2回目の攻撃終了から1時間後に3回目の攻撃が始まったこと。
(F)3回目の攻撃前か最中に第5歩兵大隊からの増援が送られてきたこと。
(G)3回目の攻撃最中にナッサウ兵も増援されたこと。
(H)3回目の攻撃は約1時間半続いたこと。
(I)4回目の攻撃は3回目からあまり時間を置かずに実施されたこと。

 それぞれについて確認してみよう。まず(A)だが、ここで言う英国近衛竜騎兵連隊とはソマーセットの第1騎兵旅団(Household Brigade)に所属した第1近衛竜騎兵連隊と見られる。そして、この話は通説と整合性が高い。例えばChandlerは以下のように述べている。

「斜面を利用し、ソマーセットの先導7個騎兵大隊――アクスブリッジ自身が率いた――はデュボワ将軍の騎兵旅団の隊列に圧倒的な勢いで突っ込んだ。両軍は農場の近くで激しく衝突した。フランス胸甲騎兵の剣は英国兵のサーベルより長かったものの、乗馬の質が劣っており、踵を返すとデルロン軍団左翼の歩兵の一部も伴いながらラ=エイ=サント周辺から逃走した」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p142


 ここから、ラ=エイ=サントへの1回目の攻撃はデルロン軍団の攻撃と同時に実施され、連合軍騎兵の突撃によって撃退されたことが分かる。Chandlerによればデルロンの攻撃開始は午後1時半、連合軍騎兵の突撃は午後2時頃。バリングの指摘する1回目の攻撃もほぼ同じ時間帯に行われたと見ていいだろう。

 次に(B)で指摘されている第1軽大隊からの増援だが、これについては増援に応じたギルザ大尉がWilliam Siborneに宛てた手紙の中で触れている。1840年12月に記されたその手紙によると、ギルザ大尉の中隊は「大街道の左翼側で行われた最初のフランス軍の攻撃」(Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p225)、つまりデルロン軍団の攻撃時にはまだラ=エイ=サントにいなかったことが分かる。彼らはラ=エイ=サント背後のどこかでフランス騎兵の攻撃を受けそうになったところで味方の騎兵によって助けられる。その後で彼は以下のように述べている。

「それから少し後、私は第5及び第6中隊と一緒にラ=エイ[=サント]農場へ行くよう命令を受けた」
Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p225


 ここでもバリングの談話はギルザの手紙と整合性が取れている。連合軍の騎兵が突撃した少し後、つまりラ=エイ=サントへの1回目の攻撃が終了したと思われるタイミングで、彼はラ=エイ=サントへ向かったのだ。

 次の(C)が、ラ=エイ=サント午後4時陥落説を否定する根拠となっているところ。通説は次のように記す。

「フランス騎兵師団が次々と、多くは命令のないまま、戦闘に身を投じた。ルフェーブル=ドヌーエットはミローの胸甲騎兵軍団に続き、そして午後4時には全部で5000騎のフランス騎兵――重騎兵と軽騎兵双方含む――が稜線へ、連合軍の中央右側へ猛攻撃を加えた」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p148


 午後4時から始まった騎兵突撃をバリングはラ=エイ=サント農場で見ていた。このバリングの主張が正しいのであれば、午後4時時点でラ=エイ=サントが陥落していたはずはない、という結論になる。

 問題が生じるのは(D)からだ。騎兵突撃が終わった時間についてはChandlerが午後5時(Chandler "Campaigns" p1083)や午後5時半(Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p149)説を唱え、Jac Wellerは午後5時半過ぎに最後の突撃が行われた(Weller "Wellington at Waterloo" p114)としている。おそらく早く見積もって午後5時、実際にはもっと遅かった可能性も高い。
 だが、そうなるとおかしな話になる。(E)と(H)を見れば分かるのだが、2回目の攻撃終了から1時間後に3回目の攻撃が始まり、それは1時間半継続して終了した。つまり3回目の攻撃が終わったのは2回目の攻撃終了から2時間半後なのである。2回目の攻撃終了が午後5時だとすれば、3回目の攻撃終了は午後7時半。4回目の攻撃がいつ終わったかについては(I)などを見ても時間が明確にされていないため断言はできないが、少なくとも3回目の攻撃終了から30分以上は後だろう。つまり、バリングがラ=エイ=サントを放棄したのはどんなに早くても午後8時過ぎになってしまうのだ。
 現在の通説はあくまで午後6時過ぎをラ=エイ=サント陥落時刻と見ている。だが、バリングの談話を素直に読む限り彼がラ=エイ=サントを諦めたのはそれより2時間ほど後になる。もちろん、そんなことはあり得ないと考えた方がいい。何しろ通説では、午後7時過ぎにはフランス軍による最後の攻撃、壮年親衛隊の前進が始まっていたことになっている。その時間にまだバリングがラ=エイ=サントで抵抗していたのでは彼らが前進する余地がなくなってしまうのだ。
 通説側はこの矛盾にどう対応しているのか。Mark Adkinは1回目の攻撃を午後1時半から2時半、2回目を午後3時から午後5時としたうえで、3回目を午後5時から6時、4回目を午後6時から6時半と無理やり短時間に詰め込むことで解決を図ろうとしている(Adkin "The Waterloo Companion" p368-374)。ただし、この時間割はバリングの(E)と(H)とは明らかに齟齬をきたしており、うまい解決法とは言えない。バリングの談話を「午後6時過ぎ、ラ=エイ=サント陥落」の傍証に使うのは困難だと考えておいた方がいいだろう。

 さらに(F)についても問題がある。バリングは3回目の攻撃(バリングの時間を信じるのなら早くて午後6時から始まった)の前かその最中に第5大隊の増援があったと書いている。だが、第5大隊に所属する士官の証言は、このバリングの話と矛盾するのだ。第5大隊のフォン=リンシンゲン中佐が記した手紙(1835年頃に書かれたもの)によると、ラ=エイ=サントの付近に展開した第5大隊が敵胸甲騎兵の攻撃を受けた時、第7騎兵旅団のKGL第3ユサール連隊が救援に現れた。

「その間、ラ=エイ=サント近くに移動してきた敵歩兵が今や強力な攻撃を行い、それに対しフォン=ヴルム大尉麾下の第5大隊軽歩兵中隊が増援としてそこへ送られた」
Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p254


 リンシンゲンの手紙を読む限り、第5大隊がラ=エイ=サントへ増援を送ったのはKGL第3ユサール連隊がフランス軍を攻撃してからそれほど時間が経過していない時だと解釈できる。では、KGL第3ユサール連隊はいつ攻撃をしたのか。同連隊のフォン=ゲーベン大尉はSiborneへの手紙で以下のように述べている。

「午後3時ごろ、連隊は歩兵が市松模様に方陣を組んでいる背後にある丘、ナッサウ大公部隊[クルーゼ旅団]の3個か4個大隊で構成される第二線の背後に到着したが、そこに到着するや否や、その時まで連隊の背後に待機していたオランダ重騎兵旅団が連隊の右翼にいる各大隊の前を前進したが慌てふためいて戻ってきたため、双方の騎兵大隊は陣を保持し一緒に後方へ流されてしまうのを避けるのにかなりの困難を味わった。その間、この荒々しい混乱に巻き込まれなかった連隊の左翼各大隊は、ほぼ1個大隊規模の敵胸甲騎兵を攻撃し、実際に彼らを駆逐するのに成功した」
Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p126


 KGL第3ユサール連隊がラ=エイ=サント近くに布陣していたクルーゼ旅団の背後に到着したのが午後3時頃。それからほとんど間を置くことなく、彼らはフランス軍の胸甲騎兵に対して攻撃を行ったのである。この攻撃によって危地を脱した第5大隊は、同じ頃フランス歩兵の接近を受けたラ=エイ=サントに増援を送り込んでいる。つまり、第5大隊の増援はどう考えても午後3時からそれほど時間が経過していない時期、即ちバリングの言う「2回目の攻撃」の最中になされたと考えた方が筋が通る。だが、バリングはこの増援を3回目の攻撃前または最中と指摘している。他の一次史料との間で矛盾が生じているのだ。
 他にバリングと一致しない証言をしているのが第5大隊のフォン=ブランディス大尉。1835年に書かれた手紙の中で彼は、「戦闘開始のすぐ後に第5大隊の軽中隊がラ=エイ=サントに陣を敷く第2軽大隊を増援するため送られた」(Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p256)と書いている。かなり早いタイミングで増援がなされたという主張だ。
 一次史料間に矛盾あること自体は別に珍しくはない。だが、同じ増援の話でも当事者の言い分が比較的一致している(B)のケースに比べ(F)の信頼性が乏しいことは否定できない。バリングの話は必ずしも通説の裏付けにはならないし、特に2回目の攻撃終了(午後5時)以降に関しては必ずしも信用度が高くないことも分かる。

 バリングの談話に問題があるとすると、通説であるラ=エイ=サント陥落午後6時過ぎ説を支持する材料がそれだけ減ることになる。確かにエイメは午後6時過ぎにラ=エイ=サントが落ちたと書いているが、会戦から14年も後に出版された回想録一つだけでは根拠として弱い。他に同様の史料がないかと探してみると、Siborneが集めた手紙の中にいくつかそれに近い話をしているものがある。例えば第1軽大隊の旗手ブーゼが1835年に書いたものがそうだ。

「後にラ=エイ=サントの第2軽大隊を支援するため左翼に送られた両中隊は、午後5時から6時の間に農場を離れ、その上で第1軽大隊は窪んだ道路に再び布陣した」
Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p240


 彼は守備隊がラ=エイ=サントを離れた時刻について午後5時から6時の間としている。通説の午後6時過ぎとは微妙に時間がずれているし、バリングの「午後8時過ぎ」説とは明らかに矛盾するが、それでも比較的通説に近い主張であることは確か。最大の問題は、この手紙も会戦から20年後と時間が経過しすぎている点にある。
 もっと会戦直後の時期に書かれた記録はないのだろうか。そう考えて史料を調べてみると、意外なことが判明する。

 会戦の2日後に書かれた史料として、フランス北方軍の公報がある。まだ戦いの混乱が残っていた時期であり、またナポレオン自身が国民向けに敗戦の言い訳をするという目的もあった文章だけに、これをそのまま信用するのは拙い。例えば公報は連合軍の「戦線中央に存在するモン=サン=ジャン村」(フランス軍公報)と記しているが、モン=サン=ジャン村は連合軍のずっと背後にあった。おそらくこれはラ=エイ=サントの間違いであろう。
 公報のモン=サン=ジャンが実はラ=エイ=サントだとすると、奇妙なことが起きる。公報ではデルロンによる最初の攻撃の時に「デルロン伯麾下の第1師団の1個旅団がモン=サン=ジャン村[つまりラ=エイ=サント]を奪った」(フランス軍公報)と書いているのだ。これがバリングの言う1回目の攻撃であることは、その後に連合軍騎兵の突撃で砲兵隊が混乱したと書かれていることからもほぼ間違いない。公報を信じるのなら、ラ=エイ=サントは最初の攻撃で早々に陥落したことになっているのである。
 「公報のように嘘をつく」と言われる文献など当てにならない、との見方もあるだろう。それでは公報の1日前、ワーテルロー会戦の翌日に書かれたウェリントンの手紙はどうだろうか。彼はバサースト卿への手紙の中で以下のような文章を書いている。

「この我が中央右側に対する攻撃は我が全戦線への激しい砲撃と同時に行われ、その砲撃はしばしば同時に、時には別々に繰り返し行われた騎兵と歩兵の攻撃を支援するためのものでした。一連の攻撃の中で敵はラ=エイ=サントの農場を奪取しました。そこを占拠していた軽歩兵大隊の分遣隊が弾薬を全て使い果たしたためで、敵はそこへの唯一の連絡路を彼らのものにしました。
 敵は繰り返し我が歩兵に対して騎兵で突撃しましたが、この攻撃は一様に不成功に終わりました。彼らは我が騎兵に突撃する機会を与えてくれ、そのうちある突撃では近衛騎兵、王室近衛騎兵、第1近衛竜騎兵連隊で構成されるE・ソマーセット卿の旅団が素晴らしい活躍をしました。またW・ポンソンビー少将の部隊も多くの捕虜と敵の軍旗を1旒手に入れました」
ウェリントンからバサーストへの手紙


 注目すべきなのは、ラ=エイ=サント陥落の後にソマーセットとポンソンビーの突撃を記していること。この時間的配列は実は公報のものと同じだ。要するにウェリントンもまたフランス軍公報と同様に、デルロンの1回目の攻撃によってラ=エイ=サントが陥落し、その後で連合軍騎兵の突撃が行われたと述べているのである。
 さらに、ドルーオの発言もある。ワーテルロー会戦から4日後の6月22日に上院で行われたこの発言も、ラ=エイ=サントがかなり早いタイミングで陥落したことを窺わせる。

「第2軍団は正午に攻撃を始めた。皇弟ジェローム麾下の師団は敵右翼前面にある森を攻撃した。彼は最初前進し、押し戻され、何時間かの執拗な戦闘の後でようやく完全にそこを支配してとどまった。
 左翼を主要街道に置いていた第1軍団も同時にモン=サン=ジャンの家々を攻撃し、そこで地歩を固め、それから敵陣まで行った。2個軍団を率いたネイ元帥は自ら主要街道にあり、状況に応じてその移動を指揮していた」
www.1789-1815.com "Discours de Drouot"


 これまたデルロン軍団による最初の攻撃の時にラ=エイ=サント(彼もまたラ=エイ=サントとモン=サン=ジャン村を混同していた)が落ちたと解釈できる発言だ。
 彼らほど極端ではないが、ラ=エイ=サントがかなり早いタイミングで陥落したと記している本もある。その本はワーテルロー会戦と同じ年に出版されたものだ。

「敵はウーグモンとラ=エイ=サント農場に向けて続けざまに部隊を送ったが、しばしば我々の騎兵によって撃退された。しかしこれらの村々は比べようもないほど精力的に圧力を受けながらいまだに持ちこたえていた。退却しない決意を固めているように見えた敵をウーグモンから追い払うことを望んで我々はそれに火をつけ、同時にラ=エイ=サントに対して増援を送って最も血腥い争いの末に奪取した。
(中略)
 英軍の両翼にある拠点を奪ったところで、我々は谷間を越え、殺到する砲弾と散弾の中を前進した。強力な縦隊がモン=サン=ジャンに接近した時、恐ろしい砲撃がそそぎかけられた。同時にフランス騎兵が平地にある大砲を奪うため突進したが、次の瞬間には待ち伏せしていた窪地から固まって出てきた敵騎兵に突撃され、殺戮は酷くなった。双方とも一歩も譲ろうとしなかった。新たな縦隊が彼らを増援し、突撃は繰り返された。フランス軍は3回、今にも敵陣を蹂躙しそうになりながら3回とも撃退された」
Napoleonic Literature "Waterloo Excerpts"


 この士官(Bernard Coppensは複数の高級将校が著者ではないかと想像している)が記しているフランス騎兵による3回の突撃がもしネイの騎兵攻撃を意味しているのであれば、ラ=エイ=サントの陥落はそれより前、つまり午後4時前に起きたことになる。バリングの談話で言えば2回目の攻撃の時点でラ=エイ=サントが落ちてしまう理屈だ。公報やウェリントンの手紙よりタイミングは遅いが、現在の通説よりは早い。

 これ以外の早い時期に出た史料のうち私の知るものに関して言えば、ラ=エイ=サントの陥落時間について推測できる記述はない。つまり、会戦から間もなく出版された史料の中にはラ=エイ=サント午後6時過ぎ陥落説を裏付けるものは見当たらないのだ(もちろん、私が発見し損ねているだけの可能性は十分ある)。逆に19世紀にあった午後4時陥落説を裏付けるものは1つ(無名士官の本)、それより早い1回目攻撃時の陥落を窺わせる史料は3つ(公報、ウェリントンの手紙、ドルーオの発言)ある。人間の記憶は当てにならないものだという前提に立つのなら、ラ=エイ=サント陥落時刻については現在の通説より昔の説(午後4時)あるいはもっと早い時間(おそらく午後2時)の方が妥当性が高い、という結論になる。
 では午後4時と午後2時のどちらが正しいのか。これは何とも判断しづらい。会戦から間もない時期に書かれた3つの史料(公報、ウェリントン、ドルーオ)が一致している午後2時説も魅力的だが、ここで思い出してほしいのはバリングの記述も2回目の攻撃終了より前の段階では他の史料と矛盾していなかったこと。ギルザは連合軍の騎兵突撃の後でラ=エイ=サントへ行くよう命じられたと書いているし、リンシンゲンもラ=エイ=サントへの増援は午後3時より後だと窺わせるような手紙を残している。彼らの記録は会戦から20年以上も後の記述であり、その意味で信頼性には乏しいのだが、複数の参加者がそう主張している点は無視できない。
 それに、バリング同様にラ=エイ=サント防衛に当たっていたグレーム中尉の記録もある。1842年にSiborne宛てに書かれた手紙の中で、彼はフランス軍の最初の攻撃について以下のように書いている。

「[敵が]近づいてきた時、我々は農場に入り、門を閉じて、通過していく敵縦隊に継続的な射撃を浴びせた。敵は英軍の陣がある稜線までのぼったが、そこで英軍戦線によって撃退され撃ち破られて、我々の前を羊の群れのように再度通り過ぎ、いくつかのフランス胸甲騎兵(私が思うに彼らは我が農場の右側あるいは後方にいた連隊から引き離されたのであろう)を追って窪んだ道や砂坑からやって来た近衛騎兵に追撃された。我が部隊の一部は反撃に飛び出し、ベル=アリアンスに向けかなりの距離を群がりながら追撃した」
Herbert Taylor Siborne "Waterloo Letters" p406


 グレームもまた1回目の攻撃を撃退したと主張しており、これはギルザやリンシンゲン、そしてバリングの発言と整合性がある。ただし、彼の手紙を見る限り2回目以降の攻撃については明確な時間関係が描かれていないため、その点についてバリングの記録と照合するのは困難。残念ながらバリングの談話の中段以降を裏付ける史料とはなりにくい。
 もう一つ、Waterloo Lettersから取り上げるべきなのは第95連隊のリーチ大尉が1840年に記した手紙だろう。彼はフランス軍による「我が師団への2度目の大規模な攻撃」(H.T. Siborne "Waterloo Letters" p365)でラ=エイ=サントが落ちたと書いている。リーチ大尉がいたのは、ラ=エイ=サントから道路一つ挟んだだけの至近距離に存在していた砂坑付近。ラ=エイ=サントとほぼ同じタイミングで攻撃を受けていたと見られる場所だ。つまり、リーチの手紙は2回目の攻撃でラ=エイ=サントが陥落したことを窺わせる根拠になるのである。
 リーチとほぼ同じことを書いているのが、同じ第95連隊に所属していたジョン・キンケイド。1830年に出版された"Adventures in the Rifle Brigade in the Peninsula, France and the Netherlands"の中で、彼は以下のように述べている。

「[午後]3時から4時の間に再び我々の正面に強襲が行われた。小山にいた我々の3個中隊はすぐ猛烈な射撃に巻き込まれた。ラ=エイ=サントを占拠していたドイツ兵は弾薬を全て使い果たし、その拠点から逃げ出した。フランス兵がそこを奪い、そしてそこは我々の小山の側面に位置していたため、我々もまた小山を放棄することを余儀なくされ、再び垣根の背後まで下がった」
"Adventures in the Rifle Brigade in the Peninsula, France and the Netherlands" p338-339


 こちらでは明白に攻撃時間が「3時から4時の間」と書かれ、その攻撃によってラ=エイ=サントが陥落したことに言及している。これも午後4時陥落説の一環となるだろう。
 フランス軍側では、ナポレオンが1818年に出版された"La campagne de 1815"の中で午後4時陥落説を窺わせるような主張をしている。フランス側の最初の攻撃の後、連合軍騎兵の反撃でフランス軍は混乱したが「皇帝はすぐ秩序を回復した。砲撃は激しさを維持し、そしてラ=エイ=サントに対する新たな攻撃は我々をこの重要な拠点の主にした」(p78)。新たな攻撃というのが2回目の攻撃を意味するのなら、リーチやキンケイドの証言とも一致する。
 さらにナポレオンは「半時間後の[午後]5時頃、彼ら[プロイセン軍]が極めて活発に我々を攻撃している時、英国軍はラ=エイ=サントの奪回を試みた」(p82)とも発言。午後5時時点では既にラ=エイ=サントがフランス軍の手に落ちていたことを明言している。公報の記述とは矛盾しているような気もするが、もしこの本に書かれている話の方が正しいなら、これは午後4時説を支持する材料となる。
 ただし、"Waterloo Letters"の中にはもしかしたら午後2時陥落説の傍証になるかもしれないと思える証言もある。第2近衛騎兵連隊のウェイマス少佐が1837年に記した手紙がそれで、彼はその中で第1騎兵旅団の突撃の際に街道の東側にあった屋根をはがされたあばら家を占領していた部隊の中に「[KGL第2軽]大隊の士官(名前はグレーム)が座っているのを見た」(H.T. Siborne "Waterloo Letters" p45)と主張している。KGLの関係者たちはこの証言を否定しているが、もしこれが正しいとしたらウェイマスは午後2時までに陥落したラ=エイ=サントから逃げ出したグレームの姿を目撃したのかもしれない。

 以上をまとめると、現在の通説である「午後6時過ぎにラ=エイ=サントが陥落した」という話は案外論拠に乏しいことが分かる。最大の根拠と思えるバリングの談話が、最初の方はともかく途中から描写の信頼性が低くなっていることが問題だ。他にエイメの記録もあるが、これは会戦から14年後に出たもので時間が経過し過ぎている。
 逆に会戦直後の史料は多くがより早い段階でのラ=エイ=サント陥落を記している。特に多いのはデルロン軍団による最初の攻撃で早々にラ=エイ=サントが落ちたという話だ。しかし、この点についてはバリング以外に複数の連合軍側参加者が否定的な見解を示している。彼らの証言時期が会戦から20年以上も後である点が気になるが、これだけの人間の発言が一致していると無視しづらい。
 残されたのは午後4時陥落説。会戦と同年に出た本がまさにこの説を採用しているし、この説ならばバリングを除いて連合軍側でラ=エイ=サントに関係した将校たちの大半の発言と矛盾しない。それどころかリーチ大尉の手紙とも整合する。よし、ならばこの説を採用しよう、と19世紀の歴史家が考えたのかどうかは分からないが、改めて検討してみるとこの古い説も案外捨てたものではないことが分かる。むしろ問題なのは、なぜこの説が捨てられて午後6時過ぎが通説になっていったのか、という点だ。

 古いものでは早くも1840年代にSiborneがその著書の中でラ=エイ=サント陥落をフランス軍の騎兵突撃より後だと記している。彼がバリングの談話を参照しているのは「家を通り抜けて庭へ退却するよう命令を出した」(Siborne "History of the Waterloo Campaign" p307)とバリングが書いた通りの文章を引用していることからも分かる(SiborneはKGL第3ユサール連隊の突撃を午後3時過ぎではなくフランス軍の騎兵突撃終了後としている、Siborne "History of the Waterloo Campaign" p297)。
 1865年に出版されたJames Shaw Kennedyの本でもラ=エイ=サントの陥落は午後6時となっている(Shaw Kennedy "Notes on the Battle of Waterloo" p122)。彼は第5大隊の増援を午後4時頃とする一方で、フランス軍の騎兵突撃が終わったのは午後6時頃と書いている。実はこれもバリングの(D)(F)と矛盾する話なのだが、そう判断した根拠についてShaw Kennedyはどこにも記していない。
 19世紀末にワーテルロー本を書いたHenry Houssayeも、もちろん午後6時過ぎ陥落説だ。そして、彼は幸いにもその根拠を脚注で長々と説明してくれている(Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p425-426)。彼によれば午後6時過ぎ説を支持する戦闘参加者はバリング、ケネディ、プランゾー、エイメの4人プラスSiborneのWaterloo Lettersに掲載されている手紙の書き手ということになる。このうちプランゾーがどのような記録を残しているのかは不明だが、他の記録については既に上に指摘している通り。バリングの談話には矛盾が残るし、エイメの記録とケネディの書物は出版時期がかなり遅い。Waterloo Lettersの書き手たちが全員午後4時説を否定している訳ではないことも、これまで指摘してきた。
 Houssayeの脚注で面白いのは、ウェリントンがラ=エイ=サントの陥落時期について、より具体的に述べた手紙が存在しているのが分かる点だろう。

「1815年8月17日の手紙(Despatches, xii, 619)でウェリントンは、指揮官の怠慢のためにラ=エイ=サントは2時に奪われたと言っている」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p426


 Houssayeはこれに対して「これは酷い間違いであり、不公正な非難だ。バリング少佐はそこを英雄のように守った」と反論しているが、ウェリントンが会戦翌日だけでなく、その後も午後2時にラ=エイ=サントが陥落したと考えていた事実は否定できない。

 Siborne、Shaw Kennedy、Houssayeといった錚々たるワーテルロー戦史家たちが軒並み採用した午後6時過ぎ陥落説は、CharrasやJohn Codman Ropesらの午後4時説を最終的に押しのけて通説となった。20世紀の歴史家たちは、通説をそのまま採用することが多い。だが、実際に午後6時説を支持する史料を詳しく調べてみると、この通説が見かけほど磐石ではないことが分かる。今からでも古い説を取り上げ、検討してみるのは悪くないかもしれない。

――大陸軍 その虚像と実像――