ワーテルロー
フランス軍公報



 軍公報

 1815年6月20日、ラオン

 フルーリュス下、リニーの戦い

 16日朝、軍は以下の場所に展開していた。
 元帥エルヒンゲン公麾下、第1及び第2歩兵軍団と第2騎兵軍団で構成される左翼は、フラーヌ地域を占めていた。
 グルーシー元帥が指揮し、第3及び第4歩兵軍団と第3騎兵軍団で構成される左翼は、フルーリュスの背後にある高地を占領していた。
 帝国司令部はシャルルロワにあり、親衛隊と第6軍団も同地にあった。
 左翼はキャトル=ブラへ、右翼はソンブルフへ行軍するよう命じられた。皇帝は予備と伴にフルーリュスへ向かった。
 グルーシー元帥の部隊はフルーリュスを通過したところで、ブリュッヒャー元帥率いる敵軍がソンブルフ村左方のビュシーの風車がある丘を占拠し、遥かナミュール街道まで騎兵部隊を展開しているているのを見た。敵の右翼はサン=タマンにあり、この大きな村を大軍で占拠し、その前面には谷間があった。
 皇帝は敵の戦力と陣地を偵察し、すぐに攻撃することを決断した。右翼がフルーリュスを回転軸として前進することで正面を変える必要があった。
 ヴァンダンム将軍がサン=タマンへ、ジェラール将軍がリニーへ、グルーシー元帥がソンブルフへ行軍し、ジラール将軍麾下の第2軍団第3師団はヴァンダンム軍団の背後に予備として前進した。親衛隊とミロー将軍の胸甲騎兵はフルーリュスの高地に布陣した。
 午後3時に配置は完了した。ヴァンダンム軍団の一部を構成するルフォル将軍の師団が最初にサン=タマンで交戦に入り、そこから敵を銃剣で追い出した。サン=タマンの鐘楼及び墓地は戦闘の間ずっと保持された。しかし、極めて広いこの村は夕方を通じて様々な戦闘が行われる舞台となった。ヴァンダンム将軍の全軍団はここに投入され、ここで交戦した敵の兵力もかなりの量に及んだ。
 ヴァンダンム軍団の予備となっていたジラール将軍は、村を右手に見ながら回り込み、いつもの勇敢さを発揮して戦った。それぞれの部隊は両方ともおよそ60門の大砲によって支援されていた。
 右翼ではジェラール将軍が第4軍団と伴にリニー村で交戦に入り、村は何度も取ったり取られたりした。
 最右翼にいたグルーシー元帥とパジョル将軍はソンブルフ村で戦った。敵はおよそ8万から9万人おり、数多くの大砲を保有していた。
 午後7時、我々は敵の陣地を守っていた谷間に存在する全ての村を手に入れた。しかし敵は未だに全軍をもってビュシーの風車がある丘を占拠していた。
 皇帝は親衛隊と伴にリニー村へ向かった。ジェラール将軍はペシュー将軍と残された予備を送り出し、ほぼ全兵力がこの村に投じられた。親衛隊の8個大隊が銃剣突撃し、その背後にはミロー将軍麾下のドゥロール将軍率いる胸甲騎兵と親衛擲弾騎兵から選ばれた4個騎兵大隊が続いた。老親衛隊はビュシーの丘にいる敵部隊に銃剣を構えて接近し、そして一瞬のうちに戦場を死者で覆った。皇帝警護の騎兵大隊は方陣を攻撃してこれを撃ち破り、胸甲騎兵は敵をあらゆる方角へ追い散らした。午後7時半、我々は40門の大砲と多くの車両、軍旗と捕虜を得ており、そして敵は安全を求めて慌しく退却した。午後10時には戦闘は終了し、我々は全戦場を支配した。
 リュッツォウ将軍は捕虜となった。捕虜たちはブリュッヒャー元帥が負傷したことを確言した。この戦闘でプロイセン軍の精華は破壊された。彼らの損失は1万5000人を下らなかった。我々の死傷者は3000人だった。
 左翼ではネイ元帥が1個師団をもってキャトル=ブラへ前進し、その地にいたイギリス軍1個師団に襲いかかった。しかし、オラニエ公率いる一部イギリス兵、一部はイギリスに雇われたハノーヴァー兵で構成される2万5000人の攻撃を受け、彼はフラーヌの陣地へと後退した。そこで彼はいくつもの戦闘に巻き込まれた。敵は我が軍を追い払おうと努めたが、無駄に終わった。エルヒンゲン公は第1軍団の到着を待ったが、その部隊がたどり着いたのは夜になってからだった。彼は陣地の確保に専念せざるを得なかった。第8胸甲騎兵連隊が方陣を攻撃した際に、イギリス第69歩兵連隊の軍旗が我々の手に落ちた。ブラウンシュヴァイク公は戦死し、オラニエ公は負傷した。敵の多くの将軍が戦死または負傷したことは確かである。イギリス軍の損失は4000人から5000人だった。一方、我々の損害も少なからぬものだった。死傷者は4200人を超えた。この戦闘は夕方には終わった。その後ウェリントン卿はキャトル=ブラを引き払いジュナップへ向かった。
 17日朝、皇帝はキャトル=ブラへ向かい、そこからイギリス軍を攻撃するため前進した。彼は左翼と予備と伴にソワーニュ森の入り口まで進んだ。右翼はブリュッヒャー元帥を追ってソンブルフまで進み、ブリュッヒャーはワーヴルへ移動しそこに陣地を定めたように見えた。
 夕方10時、イギリス軍は中央をモン=サン=ジャンに配置し、ソワーニュ森の前面に布陣した。敵を攻撃できるようになるには3時間が必要だっただろう。我々は翌日まで攻撃延期を強いられた。
 帝国司令部はプランスノワ近くのカイユ農場に置かれた。雨が激しく降っていた。かくして、16日には左翼、右翼及び予備のいずれもが約2リーグの距離内で戦闘に投じられたことになる。

 モン=サン=ジャンの戦い

 午前9時、雨は少しずつ衰えていた。第1軍団は左翼をブリュッセル街道沿い、敵の戦線中央に存在するモン=サン=ジャン村と向かい合う場所において配置についた。第2軍団はその右翼をブリュッセル街道に、左翼をイギリス軍大砲の射程距離内にある小さな森に置いた。胸甲騎兵が予備として背後に布陣し、親衛隊は高地に控えた。ロボー伯麾下の第6軍団とドモン将軍の騎兵は伴に我が軍の右後方へ向かい、グルーシー元帥から逃げ延びて我が軍の右側面を襲う意図を持ったプロイセン軍部隊に対抗することになった。彼らの意図は我が方の報告と運搬中に奪い取ったプロイセンの将軍の手紙によって我々の知るところとなっていた。兵士たちの戦意は高かった。
 イギリス軍の兵力は約8万人と推計された。敵はおそらく夕方には配置につくであろうプロイセン軍1万5000人によって支援されるため、敵兵力全体は9万を超えると見られた。我が軍はそれより少なかった。
 正午には全ての準備が終わり、第2軍団の所属師団を指揮する皇弟ジェロームは最左翼を固めるべく敵がその一部を占拠していた森へと前進した。砲撃が始まり、敵は森を確保するために送り出した兵を30門の大砲で支援した。我が方も大砲の用意をした。午後1時、皇弟ジェロームは森全体を占領し、全イギリス軍はベールのように引き下がっていった。デルロン伯はモン=サン=ジャン村を攻撃し、80門の大砲がそれを支援した。彼は激しい砲撃を浴びせ、イギリス軍は大きな損害を受けた。あらゆる一撃は高地に振り向けられた。デルロン伯麾下の第1師団の1個旅団がモン=サン=ジャン村を奪った。第2旅団はイギリス騎兵部隊の突撃を受けて深刻な損害を与えられた。同時にイギリスの1個騎兵師団が、デルロン自身がその右翼にいた彼の砲兵部隊に突撃し、多くの部隊を混乱させた。しかしミロー将軍の胸甲騎兵がこの師団に突撃し、師団を構成する3個連隊は撃ち破られめった切りにされた。
 午後3時になっていた。皇帝は戦闘が始まる時点で第1軍団が布陣していた平地に親衛隊を前進させた。第1軍団は既に前方へ進んでいた。我々が既にその行動を目撃していたプロイセン師団がロボー伯の部隊と小競り合いを始め、その砲撃を我が軍の右側面全体に浴びせてきた。この攻撃がもたらす結果を待つ間、他の地域では何もしない方がよかった。そして、あらゆる予備部隊はロボー伯を助け前進してくるプロイセン軍を撃ち破ることができるよう準備を整えた。
 準備を終えた後で皇帝は、決定的な成功が期待できるモン=サン=ジャン村からの攻撃実行を考えた。しかし、その時我が軍にしばしば見られ、そして時に破滅的であった性急さが生じた。既に損害を蒙っていたイギリス軍が我が軍の砲撃を避けるために行った後方への移動を見た予備騎兵が、モン=サン=ジャンの丘に進み歩兵に突撃した。適切な時に実行し予備部隊の支援を受けていればこの日の戦闘を決定づけたであろうこの動きは、各個にしかも我が軍の右翼が窮地を脱する前に行われたために、破滅的なものとなった。呼び返す手段もないまま、敵が多くの歩兵と騎兵を集め胸甲騎兵2個師団を投じたのを見て、我が騎兵全軍は戦友を支援するため同時に走り出した。そして3時間の間、散弾と一斉射撃によって損失を出した我が騎兵は数的に不利だったにもかかわらず、多くの勇敢な突撃が行われていくつかの方陣を破り、イギリス歩兵の軍旗6つを手に入れた。プロイセン軍の側面攻撃を追い返すまで、予備歩兵を投入するのは不可能だった。この我が右側面に対し垂直になされた攻撃はいつまでも続き、皇帝はデュエーム将軍と青年親衛隊及び多くの予備砲兵を送り出した。敵は動きを止められ、押し返され、退いた。その兵力も使い果たしたため、我々はこれ以上そちらを恐れる必要はなくなった。この時こそ敵中央へ攻撃するべき時であった。
 胸甲騎兵が散弾で損害を受けている間、我々は胸甲騎兵を守り、陣地を支援し、そして可能なら交戦状態を解いて我々の騎兵が動けるよう壮年親衛隊4個大隊を送り出した。さらに師団の最左翼に2個大隊を送って我が軍の側面に機動する敵を牽制し、この方面の不安を取り除いた。残りは予備として活用できるように控えており、一部はモン=サン=ジャン背後の十字路を占領し、一部は退却路を確保するため戦場背後にある高地に展開した。
 この状況において我々は戦いに勝利していた。戦闘が始まる時点において敵が占拠していた場所は全て我々のものとなっていた。我が騎兵は余りに早くかつ酷い使われ方をしたため、これ以上の決定的な成功は期待できなかった。しかし、プロイセン軍の動きを知っていたグルーシー元帥が、敵の背後に向かっていたならば、翌日には素晴らしい成功が確実だっただろう。8時間に及ぶ砲撃と歩兵及び騎兵の突撃を経て、全軍は戦いに勝利し戦場を我が手にしたことを満足しながら見ていた。
 午後8時半、胸甲騎兵を支援するためモン=サン=ジャンの背後にある高地へ送り込まれた壮年親衛隊4個大隊が、敵の散弾に邪魔されながら敵砲兵隊を追い払うべく銃剣をもって前進した時、終局がやって来た。多くのイギリス軍騎兵大隊による彼らの側面への突撃が彼らを混乱に陥れた。逃亡兵が谷間を通り抜けた。親衛隊に所属する兵たちの暴走の中で後退に巻き込まれた隣接する諸連隊は、それが老親衛隊だと信じ、衝撃を受けた。我々は敗れた! 親衛隊が退却している! という叫び声が広がった。いくつかの場所で悪意のある逃げろ! という叫びを聞いたと主張した兵さえいた。いずれにせよ、パニックと恐怖が同時に戦場のあらゆる場所に広がった。それは連絡線にも大きな混乱を突然生じさせた。兵士たち、砲兵たち、弾薬車がそこへ到着しようと殺到した。予備となっていた老親衛隊も困惑し、自身この流れに巻き込まれた。
 一瞬にして軍はただの混乱した集団と化した。全兵科が混乱に陥り、1部隊を再編することすら不可能となった。この驚くべき混沌に気づいた敵は騎兵部隊を送り出した。混乱は一段と高まった。夜のために兵たちが部隊に戻ることも彼らの失敗を目の当たりにすることもできなかった。かくして終わった筈の戦い、成し遂げた一日の仕事、埋め合わせた失敗、確実だった翌日の偉大な成功が、全て一瞬のパニックと恐怖のために失われた。皇帝の傍に配置されていた警護の騎兵大隊ですら崩壊しこの騒然とした流れの中で混乱し、そして激流に押し流されるより他にできることはなかった。貯蔵品、サンブル河を渡って引き返せなかった装備品、そして戦場にあった全てのものは敵の手に落ちた。我々の右翼部隊を待つ手段すら残されていなかった。たった一つの蹉跌で、戦いにやって来た世界で最も勇敢な軍はもはや存在しなくなった。
 皇帝は19日午前5時にシャルルロワでサンブル河を渡った。フィリップヴィユとアヴーヌが部隊の集結地点となった。皇弟ジェローム、モラン将軍、そして既に軍に最合流していた将軍たちがそこに集まり、グルーシー元帥と右翼部隊はサンブル河下流へと向かった。
 敵から奪った軍旗及び敵が見せた後方への動きから判断する限り、敵の損害はかなり多かったと身られる。我が軍の損害は兵の再編が終わらない限り推計できない。混乱が急激に広がる以前の段階で、我々は既にかなりの損失を受けており、特に致命的かつ勇敢な交戦を行った我が騎兵がそうだった。損失にもかかわらず、この勇敢な騎兵はイギリス軍から奪った地域を絶えず確保し続け、戦場の騒動と混乱に強いられるまで退こうとしなかった。真夜中と道路上にいっぱいになった障害物のために、騎兵は組織だった動きを保つことができなかった。
 砲兵部隊はいつものように栄光に包まれた。
 司令部の輸送車はいつもの場所にとどまり、後方への移動が必要だと考えられることはなかった。その日のうちに、それは敵の手に落ちた。以上がモン=サン=ジャンの戦いの結果である。フランス軍にとって栄誉に満ち、そして破滅的なものだった。

 [1815年6月21日付モニトゥール紙より抜粋]

 War Times Journal "Napoleon's Correspondence"


――関連史料に戻る――