ワーテルロー
ウェリントンの手紙



 ウェリントンからバサースト卿への手紙

 ワーテルロー、1815年6月19日

 閣下

 今月10日から14日の間にフランス軍第1、2、3、4、6軍団と親衛隊、及びほぼ全騎兵をサンブル沿いの同河川とムーズ河の間に集めたブオナパルテは、15日に前進しサンブル沿いのテューアンとロープにあるプロイセン軍の前哨線を夜明けに攻撃しました。
 この件を私が耳にしたのは15日夕方になってからで、私はすぐに兵に行軍の準備をするよう命じました。そして後に敵のシャルルロワへの移動が主攻撃であることを立証する他の宿営地からの情報を得しだい、左翼への行軍を命じました。
 敵はその日、プロイセン軍の哨戒部隊をサンブルから追い払いました。シャルルロワにいた軍団を指揮するツィーテン将軍はフルーリュスへ後退し、元帥ブリュッヒャー公はプロイセン軍をソンブルフに集結させ、陣の前面にあるサン=タマンとリニーの村を確保しました。
 敵はシャルルロワからブリュッセルへ向かう街道の行軍を続け、同15日夕にはフラーヌにいたワイマール公麾下のオランダ軍旅団を攻撃し、その部隊を同じ街道上にあるル=キャトル=ブラと呼ばれる農場まで押し返しました。
 オラニエ公はすぐに同旅団をペルポンシェル将軍麾下にある同師団のもう一つの旅団で増援し、そして早朝には失った地歩の一部を奪い返してブリュッヒャー元帥の陣との間でニヴェールとブリュッセルへ通じる連絡線を確保しました。
 その間、私は全軍にル=キャトル=ブラへの行軍を命じ、午後2時半頃には中将トーマス・ピクトン卿麾下の第5師団が到着。さらにブラウンシュヴァイク公麾下の部隊、その後にはナッサウの分遣隊が続きました。
 この時、敵はル=キャトル=ブラにある我が軍を攻撃した第1、2軍団とケレルマン将軍麾下の騎兵軍団を除き、残る全軍でブリュッヒャー公に攻撃をしかけました。
 プロイセン軍はビューロー将軍麾下の第4軍団が合流していなかったために数的に極めて不利だったにも関わらずいつもの勇敢さと粘り強さで陣を維持しました。私自身が攻撃されていたうえ、特に長距離を行軍する必要があった騎兵を含めた兵たちがまだ到着していなかったため、私は望んでいたように彼らを支援することができませんでした。
 我々もまた陣を堅持し、それを奪おうとする敵のあらゆる試みを撃退し完全に打ち破りました。敵は数多く強力な奉幣に支援された歩兵と騎兵の大軍で何度も我々を攻撃しました。敵騎兵は何度も我が歩兵に突撃してきましたが、確固とした対応により全て撃退しました。
 この戦闘の中で、敵の攻撃に対して交戦したオラニエ公殿下、ブラウンシュヴァイク公、中将トーマス・ピクトン卿、少将ジェームズ・ケンプト卿、そしてデニス・パック卿が素晴らしい活躍をしたほか、同様に続々と到着した中将チャールズ・アルテン男爵、少将C・ハルケット卿、クック中将、メイトランド少将、バイング少将も活躍しました。第5師団とブラウンシュヴァイク部隊の兵たちは長期に渡って激しく交戦し、このうえなく勇敢な振る舞いを示しました。第28、42、79、92連隊とハノーヴァー人大隊についても特に言及しなければならないでしょう。
 閣下もいずれお分かりになると思いますが、我が方の損害は大きいものでした。特に兵の戦闘に立って勇敢に戦い、倒れたブラウンシュヴァイク公陛下については遺憾に思います。
 ソンブルフの陣は堅持したものの、ブリュッヒャー元帥は行われた厳しい戦闘で戦力が酷く弱められたことを知りました。第4軍団もまだ到着していなかったため彼は後退を決断し、軍をワーヴルに集結させることにしました。戦闘終了後、夜の間に彼らは行軍しました。
 元帥のこの移動は我が方のそれと一致させる必要がありました。そこで私は翌17日朝10時にキャトル=ブラの農場からジュナップへ、そしてそこからワーテルローへ後退しました。
 敵はブリュッヒャー元帥追撃のために何の努力もしませんでした。私が朝方、ソンブルフへ送り出した偵察隊は、付近が静まり返っているのに気付き、そして敵の哨兵は偵察隊が前進するのにあわせて後退しました。敵は日中に行われたにもかかわらず我が軍の後方への行軍も妨害しようとせず、右翼から持ってきた騎兵の大軍でアクスブリッジ伯麾下の我が方の騎兵に追随するだけでした。
 この際にアクスブリッジ卿は敵騎兵がジュナップ村から出てくるところへ第1近衛騎兵連隊で突撃をする機会を得、卿はこの連隊の行動に大いに満足したと宣言しました。
 ワーテルロー前面に私が敷いた陣はシャルルロワからニヴェールへの街道を横切り、その右翼をメルケ=ブレーヌの渓谷に置き、左翼をテール=ラ=エイの村落上にある丘まで伸ばしてその村落も確保していました。右翼中央の前方、ニヴェール街道の近くではウーグモンの家と庭を占拠し、この側面をカバーしました。右翼中央の前方ではラ=エイ=サントの農場を確保しました。我が軍の左方ではオーアンを通じてワーヴルの元帥ブリュッヒャー公と連絡を取り合っており、元帥は私に対して我々が攻撃を受ける際には必要に応じて1つかそれ以上の軍団で支援すると約束していました。
 敵はブリュッヒャー元帥を監視するため送り出された第3軍団を除き、17日夜と昨日の朝の間にその軍を我々の正面にある丘に集めました。そして午前10時頃、敵は恐ろしい攻撃をウーグモンにある我が哨戒線に仕掛けました。私はこの地点をバイング将軍の近衛旅団からの分遣隊に占拠させており、同旅団はその背後に位置していました。分遣隊は一時期はマクドナルド中佐の、後にはホーム大佐の指揮下にあり、そして喜ばしいことにそこを奪おうとした敵の大軍が何度も努力したにもかかわらず、この勇敢な兵たちのこのうえない勇ましさによってそこを終日保持することができました。
 この我が中央右側に対する攻撃は我が全戦線への激しい砲撃と同時に行われ、その砲撃はしばしば同時に、時には別々に繰り返し行われた騎兵と歩兵の攻撃を支援するためのものでした。一連の攻撃の中で敵はラ=エイ=サントの農場を奪取しました。そこを占拠していた軽歩兵大隊の分遣隊が弾薬を全て使い果たしたためで、敵はそこへの唯一の連絡路を彼らのものにしました。
 敵は繰り返し我が歩兵に対して騎兵で突撃しましたが、この攻撃は一様に不成功に終わりました。彼らは我が騎兵に突撃する機会を与えてくれ、そのうちある突撃では近衛騎兵、王室近衛騎兵、第1近衛竜騎兵連隊で構成されるE・ソマーセット卿の旅団が素晴らしい活躍をしました。またW・ポンソンビー少将の部隊も多くの捕虜と敵の軍旗を1旒手に入れました。
 これらの攻撃は午後7時まで繰り返され、そして敵は砲兵の砲撃に支援された騎兵と歩兵でラ=エイ=サント近くの我が左翼中央に対する死に物狂いの攻撃を行いましたが、激しい戦闘の末、撃ち破られました。そして、敵兵士たちが大混乱の中で退却するのを見て、またフリッシャーモンを経てプランスノワとラ=ベル=アリアンスに向けたビューロー将軍の軍団による行軍が効果を表し始めたのに伴い、さらに彼の大砲の砲煙を私自身が見て、元帥ブリュッヒャー公自身が彼の軍の1個軍団と伴にオーアンを経て我が軍左翼に合流したのを受け、私は敵に対する攻撃を決断し騎兵と砲兵の支援をつけて全戦線の歩兵をすぐに前進させました。攻撃はあらゆる場所で成功し、敵は陣を敷いた高地から追い払われ、私が知る限り150門もの大砲と弾薬を我々の手に残して極度の混乱状態で逃走しました。
 私は暗くなってからもかなり後まで追撃を続け、その後で12時間も交戦していた我が兵士たちの疲労を勘案し、さらに敵を夜通し追撃することを確約したブリュッヒャー元帥と同じ道を使っていることにも気付いて、追撃を停止しました。彼は今朝、ジュナップで帝国親衛隊に所属する60門の大砲と多くの車両、ブオナパルテの荷物などを奪ったと連絡してきました。
 私は作戦を停止することなくきょうの朝にニヴェールへと移動するつもりです。
 大きな損害なくしてこのような死に物狂いの戦闘を戦い優位を得ることはできない点については、いずれ閣下もお気付きになるでしょう。残念ながら我々の損害は計り知れないものでした。軍務の中でしばしば勇名を馳せた士官たちの損失の中に、中将トーマス・ピクトン卿もいました。彼は敵が我が陣に対して行った最も深刻な攻撃を撃退する中で、銃剣突撃をする彼の師団を見事に率いて倒れました。この困難な日を成功の内に得ようとしていたアクスブリッジ伯は、ほとんど最後の砲撃によって負傷しており、しばらくの間陛下にお仕えすることができないのではないかと私は心配しています。
 その勇敢さと振る舞いで名をあげたオラニエ公殿下は肩にマスケット銃弾を受け、戦場を去ることを余儀なくされました。
 閣下に確言できることは私の大いなる満足とするところですが、いかなる場合でも軍がこれ以上良い振る舞いをすることは決してないでしょう。重傷を負ったクック中将とメイトランド少将、バイング少将麾下の近衛師団は全ての者の模範となる働きをしました。全ての士官、あらゆる兵士たちは素晴らしい行動を見せました。
 しかしながら、私は特に陛下の称賛に値する他の者たちに言及しなければなりません。中将H・クリントン卿、アダム少将、重傷を負った中将チャールズ・アルテン男爵、重傷を負った少将コリン・ハルケット卿、オムプテーダ大佐、第4師団の1個旅団を指揮したミッチェル大佐、少将ジェームズ・ケンプト卿と同デニス・パック卿、ランバート少将、少将E・ソマーセット卿、少将W・ポンソンビー卿、少将C・グラント卿、少将H・ヴィヴィアン卿、少将O・ヴァンドルール卿、少将ドルンベルク伯。
 さらに私は、かつていつでもそうであったように私を助けよき振る舞いを見せた将軍ヒル卿に特段の恩義を感じております。
 砲兵と工兵部門は大佐G・ウッド卿とスミス大佐の下で満足に値する行動をしました。また私は負傷したバーンズ少将と、戦闘の最中に砲撃で戦死した参謀長デランシー大佐の振る舞いに満足するあらゆる理由があります。デランシー大佐の損失は軍にとって深刻なもので、この瞬間の私にとってもそうです。
 同様に私は、重傷を負った中佐フィッツロイ=ソマーセット卿と、同じく酷い損失を蒙った私の個人的幕僚を構成する士官たちの助けに大いに恩恵を受けました。負傷のために死亡した中佐アレクサンダー・ゴードン卿閣下は最も素晴らしい士官であり、軍にとって大きな損失でした。
 ナッサウ軍のクルーゼ将軍は同様に満足いく働きを示しました。重騎兵旅団を指揮したトリップ将軍、オランダ王国軍歩兵旅団を指揮したヴァンホープ将軍も同様です。
 ポッツォ=ディ=ボルゴ将軍、将軍ヴィンセント男爵、ミュフリング将軍、アラヴァ将軍はいずれも戦闘の最中に戦場にあり、私にあらゆる支援を与えてくれました。ヴィンセント男爵は負傷しましたが、重傷でないものと思われます。ポッツォ=ディ=ボルゴ将軍は打撲傷を負いました。
 もしこの困難な日の成功について彼らから受けた心底からの時機を得た支援のおかげと思わなければ、私は私自身の感情と、そしてブリュッヒャー元帥とプロイセン軍に対して公正ではないことになってしまうでしょう。敵の側面に対するビューロー将軍の作戦行動は最も決定的なもので、もし私が最後の結果をもたらした攻撃を行う状況を見出さなくても、敵の攻撃が失敗していれば敵を退却に追い込んでいたでしょうし、不幸にも彼らが成功していた場合でもその優位に乗じることを妨げてくれたでしょう。
 ここまで書いたところで、私は少将ウィリアム・ポンソンビー卿が戦死したとの報告を受けました。この情報を閣下に伝えるにあたり、これまで華々しく重要な職務を果たし軍人の鑑であった士官の運命に哀悼の意を表します。
 この報告書と伴に兵たちが戦闘で奪った2旒の軍旗を送り、パーシー少佐がそれを陛下の足元に置く栄誉を担うことになるでしょう。閣下が彼をその役に推挙するようお願いします。

 敬具

 ウェリントン

 War Times Journal "Wellington's Dispatches"


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