1815年6月18日午後
モン=サン=ジャン





「騎兵突撃に備えよ!」


 ワーテルローの戦いで昔から論議を呼んでいるのが、午後4時過ぎに行われたネイの騎兵突撃だ。ほぼ1万騎が参加した挙げ句に失敗に終わったこの突撃を主導したのが誰だったかという点がもっとも関心を集めているが、そのきっかけを作ったのはネイであるとの見方が多い(Mark Adkin "The Waterloo Companion" p359)。ただし、ここでは突撃の主導者ではなく、別の点を問題にする。
 昼過ぎからフランス軍右翼で実施された第1軍団による攻撃が失敗した後、ナポレオンはネイに対してイギリス連合軍戦線中央部にあるラ=エイ=サント農場の奪取を命じた。ネイが行ったこの攻撃は失敗したが、その攻撃の最中にネイはイギリス連合軍が後退していく光景を目撃した。フランス軍の攻撃でイギリス連合軍の戦線が崩れたと判断した彼は追撃に移るために騎兵を集めて突撃をさせた、というのがよくある説明だ。
 しかし、実際にはイギリス連合軍の戦線は崩れていなかった。フランス軍の騎兵が突撃準備を整えているのを確認したウェリントンは、歩兵部隊に対して方陣を組むように命じ、モン=サン=ジャンの丘で抵抗を続けた。他の部隊による支援を得られなかったフランス騎兵は、単独で突撃を繰り返した挙げ句、損害だけ増やして何の成果も上げられなかった。
 それにしてもネイはどうしてイギリス連合軍の戦線が崩壊していると思ったのだろうか。映画ワーテルローには以下のようなシーンがある。

「シーン41(中略)
ウェリントン:全軍に命令。百歩後退しろ。
デランシー:全軍、百歩後退。第27連隊! 後方へ移動しろ」
映画ワーテルロー:スクリーンプレイ
 NAPOLEON! (JAPAN)

 フランス軍の砲撃を受けたウェリントンは、その砲撃を避けるために部隊を後退させ、斜面の背後に隠そうとした。ところが、その動きを見たネイは、イギリス連合軍が退却を始めたものと誤解。ミロー麾下の第4騎兵軍団に突撃を命じた。

「シーン42(中略)
ネイ:ウェリントンが退却を始めたぞ。ミロー、俺について来い」
映画ワーテルロー:スクリーンプレイ
 NAPOLEON! (JAPAN)

 映画ではウェリントンが出した「百歩後退」命令がネイの誤解の元になっている。だが、これは本当なのだろうか。ネイが突撃を始める前に、ウェリントンが斜面の背後へ下がるよう麾下の部隊に命令を出したことは、一次史料の裏付けがある間違いのない事実なのか。実はどうもあやしい。様々な研究書を見ても、ウェリントンが「百歩後退」を命じたと指摘している本はほとんどないのが実情だ。まず、いつもの通りChandlerとEsposito & Eltingを見てみよう。

「[ラ=エイ=サントへの]襲撃は失敗した。しかし、尾根から退却する前に、ネイはウェリントンの戦線中央後方から連合軍の兵がブリュッセルへ向かって後退していくのに気づいた。実際にはこの騒ぎは、パニックを起こした連合軍騎兵の1部隊や負傷者用車両、空の弾薬車の移動、そしてのろのろと後方へ下がる連合軍負傷者の長い列などによって引き起こされたものだったが、興奮状態にあったネイにはウェリントンが退却を始めているかのように見えた」
Chandler "Campaigns" p1080

「この時、いつものように最前線にいたネイは、連合軍戦線の中央部に弱点を見出したと思い込んだ。おそらく彼が見たのは、戦闘の合間に斜面の背後に戻ろうとしたイギリス軍大隊の動きや、負傷者と一緒に後方へ移動するフランス軍の捕虜と弾薬車などであろう。しかし彼はウェリントンがブリュッセルへの退却を始めようとしているのを見たと思った」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p148

「この砲撃を受け、ウェリントンのすり減らされた戦列は高地の尾根の背後へ後退した。連合軍の右翼からランバート[旅団]、ブラウンシュヴァイク軍、及びシャッセ[師団]の一部が弱体化した中央を建て直すために呼ばれ、最左翼からもヴィンク[旅団]が引き抜かれた。
 砲煙越しにこの後退を一瞬だけ見たネイは、興奮してウェリントンが退却しようとしていると結論づけた」
Esposito & Elting "Atlas" map116


 どこを見てもウェリントンが「百歩後退」を命じたとの記述はない。確かにイギリス軍大隊が「斜面の背後に戻ろうとした」動きは見られたが、それがウェリントンによる命令を受けて一斉に行われたものか、それとも各部隊が個別の判断で実施したものであるかは不明だ。加えて、Chandlerが記しているように、ネイが勘違いしたのは斜面の背後へ隠れる動きだけでなく、負傷者や弾薬車の移動もその一因になっているとの見方もある。他の研究者を見ても、基本的には彼らと同じ考えの持ち主ばかりだ。

「歩兵が尾根の向こう側に退いたのは、フランス砲兵隊の射撃による無用の損失を避けるための一時的な措置であり、退却する砲車や弾薬車は、いずれも負傷者や捕虜を後送するためのものであった」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その25」(タクテクス第39号)p79

「雨あられと降ってくる銃弾と砲弾を前に、いくつかの[連合軍]大隊はより掩蔽された場所へと後退し、さらに負傷者と逃亡兵の群れは比較的安全なソワーニュの森へと下がった」
Peter Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p108

「谷底から砲煙を通して見たところ、尾根からは再び兵たちが退却しているように見えた。彼[ネイ]の偵察兵たちは、もし明白な視界を得られたのなら、落伍兵や捕虜と負傷者及び彼らを引率する者の群れなどが全て森へ向かって退却しているのを見たであろう」
David Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p91

「それは彼[ネイ]自身が後退しようとしているときに始まった。イギリス軍戦線の後方にある道路が負傷者と車両の長い列でいっぱいになり、さらにいくつかの最前線の兵士たちがフランス軍砲兵の射程外に出るために後退し、それと一緒に多くの空の弾薬車と逃亡した数百のオランダ=ベルギー騎兵が下がっていくのに気づいたネイは、ウェリントンの全軍が逃げ出しているとの間違った結論に飛びついた」
Alan Schom "One Hundred Days" p284

「[ラ=エイ=サントへの]攻撃は数分のうちに撃退されたが、最前線にいる間にネイはいくつかのイギリス軍大隊が斜面の背後へ戻ろうとしているのと、さらに負傷者の『隊列』がモン=サン=ジャンへ向けて後退していくのを見た。これを退却中の兵と見なした彼はすぐにミローの胸甲騎兵に対してこの退却を壊走にするべく攻撃を命じた」
Geoffrey Wooten "Waterloo 1815" p64

「すぐに丘の上に後方への動きが見られた。大隊は鉄の嵐から身を隠そうと後退した。落伍兵は少しずつ下がり、負傷者を抱えた一行は最前線を去ろうとした」
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p201

「ウェリントンの戦線が尾根の背後に隠れるべく限定的な後退を行ったのを退却の兆候だと勘違いしたネイが、この攻撃[ネイの騎兵突撃]を主導したようだ。多くのフランス軍士官の記録によると、地形の起伏や戦闘で生じた濃い砲煙のために、フランス軍の戦線からは連合軍の正確な状況を知ることが極めて難しかったという」
Philip J. Haythornthwaite "Waterloo Men" p65

「再びフランス軍は追い返された。しかしネイはウェリントンの中央部にいる兵たちが退却する兆候を見たと思った。(彼は実際にそれを見た。ある騎兵大隊はパニックに陥った。さらに負傷者が後方へと移動していた)」
Raymond Horricks "Military Politics" p235


 中には、「百歩後退」という明確なものではないが、ウェリントンが後退を命じたと書いている研究者もいる。

「フランス軍の[ラ=エイ=サント攻略を目的とした]接近を見てウェリントンは彼の戦線中央にいる部隊に方陣を組ませ、いくつかの大隊は斜面の背後に後退させた。そしてシャッセ師団とピクトンの側面から追加の部隊を送り込むよう命じた。その間、いくつかの兵たちは弾薬車に乗り込んだ多くの負傷者と一緒に捕虜の集団を後方へ護送した。同時に、戦線の背後に配置されていたある騎兵連隊が砲撃を避けるために後方へ下がった」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p215

「彼[ネイ]がつかの間、不明瞭に見たのは、ウェリントンがいくつかの部隊をより掩蔽された斜面の背後に引き上げさせたのと、負傷者と車両の後方への移動、そして多くの捕虜が護衛に付き添われて戦線から去る場面だった。ネイにはこれらの兵が後退する理由は分からず、彼はただかなりの数の兵が尾根を離れるのを見ただけだった。彼はこの後方への動きを戦線が崩壊を始めたのだと誤って認識した」
Adkin "The Waterloo Companion" p356


 あるいは、誰の命令かは不明だが「百メートル」(百歩ではない)の後退があったとしている研究者もいる。

「彼[ネイ]は尾根上に展開したウェリントンの最前列にいる歩兵が、恐ろしいフランス砲兵の弾幕の下で後退しているのに気づいた。実際には、ウェリントンの部隊は斜面の背後に隠れるためわずか百メートル前後下がっただけだった。しかし、気性の激しいネイにはそれが全面退却の始まりに見えた」
Andrew Uffindell & Michael Corum "On the Fields of Glory" pp86


 だが、いずれの研究者もウェリントンが具体的に命令を出したことを裏付ける一次史料は示していない。ウェリントンの命令が実在したことを裏付けるには不十分だ。
 加えて、イギリス連合軍側に焦点を絞った研究者の中には、フランス軍による騎兵突撃が極めて唐突だったと指摘する人もいる。ウェリントンを中心にワーテルローの戦いについて記したJac Wellerは以下のように述べている。

「フランス軍の全大砲が砲撃を始めると同時に、ウェリントンはウーグモンとラ=エイ=サントの間に向けてフランス騎兵の大軍が前進を始めるのを見た。彼は自分の眼が信じられなかった。この地域に展開する彼の兵は確かに質の高い部隊ばかりではなかったが、多くの兵はまだ戦闘に参加せず元気な状態にあった。多くの大隊では、軽歩兵中隊が射撃戦に加わっただけだった。フランス砲兵は彼らに素早く深刻な損害を与えるにはあまりにも遠くにいた」
Weller "Wellington at Waterloo" p108


 Wellerの本のどこを見ても、ウェリントンが「百歩後退」を命じたという話はない。イギリス連合軍首脳部は味方の動きに対応してフランス軍が動いたとは思わず、むしろフランス側がいきなり騎兵を持ち出したと認識していたようだ。実際に戦闘に参加したイギリス連合軍側の人間も同じ感想を記している。

「驚いたことに、それ[砲撃]が大規模な騎兵攻撃の前兆であったことがすぐ判明した。我々はそうした攻撃がいずれはあるだろうと完全に予測していた(中略)が、我々の戦線が整然と戦闘序列を保ち、歩兵による事前攻撃で動揺する以前の段階に行われるとは全く思わなかった」
James Shaw Kennedy "Notes on the Battle of Waterloo" p114


 ウェリントンの命令が存在しなかったことを窺わせるもう一つの材料は、映画で指摘されている「第27連隊」の参加者が残した手紙だ。

「第95連隊 E・W・ドリュー少佐[ワーテルロー戦時は第27連隊中尉]
(中略)
 第4、第27、第40連隊で構成されたランバート旅団は、午後4時近くまで最前線に到着しなかった。戦闘の開始時点、つまり午前11時15分から午後3時までは予備として後方に待機しており、それから最前線へ向かうよう命じられ、農家の背後を通って前進した」
Herbert Taylor Siborne "Waterloo Letters" p397


 これによると第27連隊は騎兵突撃が始まる直前に初めて最前線に展開したことになっている。そして、彼らが「百歩後退」を命じられたという記述は、この手紙の中にはどこにも見当たらない。複数のイギリス側参加者の記録を見ても、ウェリントンが「百歩後退」を命じたという話は存在しないのだ。
 単に私が一次史料を発見し損ねているだけかもしれない。それに、証拠の不在は不在の証明にはならない。誰も記録を残していないだけで、本当はウェリントンが「全軍、百歩後退」を命じた可能性だってある。だが、歴史として記すのであれば明白な証拠の存在しない話を書くのは不誠実だろう。映画ワーテルローがあのような場面を描くことができたのも、それが映画つまりフィクションだからだ。フィクションならいくら嘘を描いても構わない。逆に歴史書としてワーテルローの戦いを紹介する場合、明確な形で「百歩後退」を記すのは無理があるのではなかろうか。

 さらに、ネイが本当に連合軍は退却を始めたと信じたのかどうかについても、実は私が調べた限りでは明白な証拠が見当たらない。上に紹介した著者の中でネイについて触れた一次史料を紹介しているのはChandlerくらいで、それによるとGaspard Gourgaudの"La Campagne de 1815"には「[連合軍の退却を見たと思ったネイが]過度の興奮に我を忘れて」(Chandler "Campaigns" p1080)騎兵に前進を命じたと記されているそうだ。だが、これはあくまでセント=ヘレナでナポレオンが口述したのを記しただけの史料のようである(参照)。ネイ自身が本当に「我を忘れて」いたかどうかをはっきり裏付ける史料とは言い切れない。
 実際に会戦直後の6月20日に出された公報には、「我が軍の砲兵隊によって既に損害を蒙っていたイギリス軍が後方へ下がる動きを見た予備騎兵は、モン=サン=ジャンの丘に群がり歩兵に対して突撃した」(The War Times Journal)とだけ記されており、ネイの名は出てこない。さらに、ネイの幕僚だったエイメ大佐の残した記録によると、ネイが騎兵を前進させた本来の目的は敵の後退によって空いた地域を占拠することにあったという。もしエイメ大佐の指摘が正しいなら、「百歩後退」だけでなくネイの「勘違い」すらなかったことになるのだ。

 いずれにせよ、ネイの騎兵突撃に関してはまだ謎が多いことは間違いない。それでも、ウェリントンによる「百歩後退」の裏付けが乏しいのは事実。映画のあの場面は、基本的にフィクションだと思っておいた方がよさそうだ。



 蛇足:ラ=エイ=サント農場

 ワーテルローの戦いで、ネイは騎兵突撃の前に連合軍戦線中央のラ=エイ=サントに攻撃を行っている。Chandlerによると、この攻撃は以下のように推移した。

「午後3時半、ネイ元帥は損害にかかわらずラ=エイ=サントを奪取せよとの絶対的命令を受けた(中略)。襲撃は失敗した」
Chandler "Campaigns" p1079-1080


 その後、ネイの騎兵突撃が午後4時から始まる。突撃が失敗に終わった後、ネイは再びラ=エイ=サントへの攻撃を命じられた。

「午後6時少し過ぎ、“勇者の中の勇者”は再びドンズロー師団の一部といくつかの騎兵部隊及び大砲を率いて攻撃を行った。(中略)彼の新たな努力は完全に成功した」
Chandler "Campaigns" p1085


 Chandlerによると、最初のラ=エイ=サント攻撃は失敗に終わり、その後騎兵突撃を挟んで夕方に行われた二度目のラ=エイ=サント攻撃によってフランス軍はこの農場を奪うのに成功したことになる。彼以外の大半の研究者も同じことを記している。だが、かつてはこれに対する異論が存在していたらしい。その一例が、ヴィクトル・ユゴーの記したレ・ミゼラブルの中にある次のような文章だ。

「午後4時にかけ、イギリス軍の状況は深刻になっていた。(中略)ウーグモンは持ちこたえていたが炎に包まれており、ラ=エイ=サントは奪われた。そこを守っていたドイツ人大隊のうち、生き残ったのはたった42人だった。士官は5人を除いて戦死したか捕虜になった」
Victor Hugo
"Les Miserables" Volume II, Book First, VI

 驚いたことにユゴーはラ=エイ=サントが午後4時には陥落していたと記している。ネイの騎兵突撃が行われる前、一回目の攻撃だけでラ=エイ=サントは落ちたことになる。そして、ユゴーのような小説家でなく歴史家で同じ主張をしている者もいるのだ。John Codman Ropesがそうである。

「その場所[ラ=エイ=サント]は午後4時少し前に奪取された」
Ropes "The Campaign of Waterloo" p307


 彼は何の論拠もなしにこのような話を書いているのではない。Ropesが記した脚注では、同じ主張をしている書物としてCharrasの"Histoire de la Campagne de 1815: Waterloo"とGeorge Hooperの"Waterloo: The Downfall of the First Napoleon"、さらにWilliam O'Conner Morrisの"Great Commanders of Modern Times, and the Campaign of 1815"が紹介されている。また、Ropesは慎重を期すべく「ネイの幕僚だったエイメ大佐はその時間を午後6時から7時の間としている」(Ropes "The Campaign of Waterloo" p308)と、自分とは異なる説も紹介している。
 要するにラ=エイ=サントの陥落時間については二つの説があったのだ。一つはChandlerに代表されるように現在では通説となっている「午後6時過ぎ」。もう一つはユゴーが小説で採用し、Ropesも使った「午後4時頃」。このうち、後者の説が広く唱えられていたのは19世紀から20世紀初頭にかけてだ。
 ユゴーの小説が19世紀に記されたのはよく知られている。Ropesの本は出版が1910年。彼が紹介した同じ説を記している著者たちの本のうちCharrasは発行年不明だが19世紀であることはほぼ間違いない。そしてHooperは1862年、O'Conner Morrisは1891年だ。この説は「昔は有名だった異説」ということになる。

 おそらくこの説の淵源は、戦闘の2日後に記された「公報」にあるのだろう。奇妙なことにフランス軍の公式記録ともプロパガンダとも言うべきこの「公報」では、連合軍の中央にあったのはラ=エイ=サント農場ではなくモン=サン=ジャン村だったと記されている。そして、このモン=サン=ジャン村は午後1時半から始まったデルロン第1軍団の攻撃時に陥落したことになっているのだ。

「デルロン伯麾下第1師団の1個旅団がモン=サン=ジャン村を奪った」
Bulletin de l'Armée
The War Times Journal

 しかし、20世紀になると公報以来唱えられてきたこの異説は廃れていった。おそらくこの説が受け入れられなくなっていった最大の理由は、ラ=エイ=サントで戦っていたドイツ人部隊の残した記録がこの説に反するものだったからだろう。例えば守備隊の隊長だったバリング少佐は、午後4時過ぎに行われたネイの突撃について次のように記している。

「その間、4列の騎兵が[ラ=エイ=サント]農場の右前方に展開した。(中略)彼らが農場を過ぎて我々の主戦線へ向かう際に、私はできる限り多くの兵に騎兵を狙撃させ、彼らやその乗馬の多くを殺した」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p108


 第一次攻撃の後に行われたネイの騎兵突撃に対し、農場にいた連合軍の部隊が側面から射撃を浴びせているのである。ラ=エイ=サントにいた当人がこうした記録(一次史料)を残している以上、ネイの騎兵突撃が行われた時点でまだラ=エイ=サントは陥落していなかったと見るのが妥当だろう。おそらくそういった理由から、古い異説は消えていったのだと見られる。
 ただ、完全に消滅しきってはいないようで、時折新しい本の中にもこの説が姿を現すことがある。Ronald Frederic Delderfieldが1962年に記した本の中に、その痕跡が見られる。

「午後遅い時間になってラ=エイ=サントの建物はフランス軍の手に落ち、守備隊は最後の一人まで倒された。しかし農場の背後では依然としてイギリス軍の戦線が持ちこたえていたし、ウーグモンの門周辺は地獄のような有様だった。そしてこの時、戦役中に見られた数多い両軍の戦術的失敗の中でも最悪の失敗をネイが犯した。彼は重騎兵に命じ、その先頭に立って高地の縁の背後にいるイギリス軍の無傷の方陣に対して突撃したのである」
Delderfield "Napoleon's Marshals" p211


 もちろん、Delderfieldが記したのは間違いだ。ラ=エイ=サントはネイの騎兵突撃が始まる前に陥落してはいない。ネイが「最悪の失敗」を犯した時点では、まだラ=エイ=サントの守備隊は抵抗を続けていたのである。

 [追記]

 上に記した文章を書いた時にはバリングの談話について十分な分析ができていなかった。よく調べてみると、実は必ずしも古い説が間違いだとも言い切れないことが判明。詳細は「1815年6月18日午後 ラ=エイ=サント」を参照していただきたい。

――大陸軍 その虚像と実像――