土屋 幸次

海軍大尉

 

奉職履歴

大正14年 9月 1日   熊本県熊本市出身

昭和16年12月 8日   ハワイ真珠湾攻撃

昭和19年 3月22日   海軍兵学校卒業(73期)

昭和19年 3月22日   第十戦隊司令部付

昭和19年 5月 1日   第61駆逐隊司令の命を承り服務

昭和19年 9月 1日   駆逐艦「若月」乗組

昭和19年10月25日   捷一号作戦、レイテ沖で沈没した「瑞鶴」乗組員を救助

昭和19年11月11日   駆逐艦「若月」、オルモック湾にて米軍機の爆撃により沈没

.                 レイテ島に泳ぎ着き陸軍部隊により救助

.                 約二十日後にようやくマニラへ辿り着く

昭和20年 1月 5日   南西方面艦隊司令部付(海軍辞令広報)

昭和20年 2月  日   マニラ市街戦(3月3日、米軍が終結宣言)

.                 連合通信隊 モンタルバン派遣隊 振武司令部付 部下二十四名

昭和20年 8月 4日   戦死(享年20歳)

 

海軍兵学校

昭和19年 3月 4日 海軍兵学校第七十三期908分隊 宮島巡航

土屋幸次生徒(左から二人目)             峯眞佐雄生徒(右から二人目)

 

品覚寺

広島県安芸郡江田島町

津久茂帖 巻十五  …第七十三期 土屋幸次

没我

 

防空駆逐艦「若月」

昭和19年10月25日  レイテ沖で戦闘中の若月(手前)と瑞鶴

 

昭和19年11月11日  オルモック湾にて米軍機の爆撃により沈没寸前の若月

 

「若月」沈没以後

「若月」の沈没後、レイテ島に泳ぎ着き陸軍部隊に救助され、機帆船を一隻雇って夜間島伝いに航海を

続け、約二十日後にようやくマニラへ辿り着いた。

沈没船乗員の大半は、浮遊中に敵機の機銃掃射などによって倒れ、レイテ島の米軍占領地帯に泳ぎ着

いた者は行方不明となり、反対方向のカモテス島に泳ぎ着いた者は土民に殺されたとも云われ、マニラ

に無事生還した者は二十数名に過ぎなかったという。

 

内地への帰投命令を受けた海兵同期生から相談を受けた土屋少尉は、同期生を次のように励ました。

「我々海軍軍人は、本来海で戦 うべきであって、陸戦は本務ではない。丁度良い機会だから、特根指令

部の発令前に飛行機が出発するなら、内地へ帰るべきだ。船に乗ってまたやって来い」

 

マニラ海軍防衛隊での足跡

@海軍辞令広報

 発令 昭和二十年一月五日「若月」少尉 土屋幸次(六七一八) 補南西方面艦隊司令部付

 

Aマニラ方面生還者一覧表

 第三十一特別根拠地隊・萱嶋浩一海軍中佐(作戦参謀/兵61)のメモ

 少尉 土屋幸次 連合通信隊 モンタルバン派遣隊 振武司令部付 部下二十四名

 

Bマニラ海軍防衛隊編成一覧表

 第三十一特別根拠地隊・萱嶋浩一海軍中佐(作戦参謀/兵61)のメモ

 少尉 土屋幸次 「若月」(海兵)所属 連合通信隊 第十一 アゴス川 戦死(被弾)

振武司令部 部下二十四名

 

※アゴス川

マニラ東方の河川。

マニラ海軍防衛隊の生存者や周辺の海軍部隊は、マニラ市街戦以降、陸軍・振武集団とともにマニラ東方

山岳方面に後退し、米軍の追撃を避けるためアンチポロ・ボソボソ・ラグナ湖からアゴス川沿いに分散した。

地獄のジャングルの逃避行だったらしい。

 

振武集団(マニラ海軍防衛隊)の転進ルート …牧野弘道様「戦跡に祈る」産経新聞社より転載

 

ご母堂の思い

戦後、ご母堂は長い病床にあり「幸ちゃんのところへ行きたい」と口癖のように申されていたと云う。

 

海兵七十三期同期生・峯 眞佐雄の回想

              海ゆかば/矢野 清、土屋幸次

              親友の服で命ひろう

              故土屋幸次君の墓参

 

平成16年 土屋家之墓に墓参した峯眞佐雄  山口県山口市 龍福寺

 

岡山縣護國神社

岡山県岡山市

  

比島海軍戦没者招魂碑

碑文

十九四四年一〇月二〇日 約二十万の米軍が比島フィリピンのレイテ島に上陸しここに苛烈な比島攻防

の火蓋が切られました 我が連合艦隊が全軍突撃を以って決戦を挑んだ比島沖海戦も艦艇航空機多数

を喪失し惨敗を喫しました

爾後 米軍は比島各島嶼に次々上陸 所在の海軍部隊は陸軍と協同して善戦力闘しましたが圧倒的な

火力の相違と無限とも言える彼等の武器弾薬の補給に対し  当方のそれは無に等しく各部隊とも止む

無く山中に立て籠って遊激戦に転じました

撃つに弾丸無く生命の糧の塩も尽き 草根木皮を食みながら歯を食いしばって頑張った将兵は 米軍の

急追と風土病や栄養失調で次々と弊れ 万斛の涙を飲んで異境の土と化したのであります

此の碑は 遺族戦友相計り 比島海軍関係全ての戦没者(外国人も含む)約十万の御霊を永遠にお祀り

するため建立されました

比島海軍招魂会

 

ここに比島の砂を亡き戦友の御霊として永遠に御祭祀します 太平洋戦争にて散華した比島海軍部隊の

戦没者及び海軍と運命を共にした日本人 韓国人 中国人 比島人戦没者の御霊よ やすらかに眠り給え

一九八〇年八月建立

 

海兵73期    英霊銘録

更新日:2010/08/08