マニラ海軍防衛隊

 

南西方面艦隊(第三南遣艦隊)

陸海軍の協定により海軍は中部・南部フィリピンの防衛担当となったため、ルソン島は陸軍に任せて規模を

縮小している。しかし昭和19年夏より、フィリピン奪還に備えて再びルソン島の増強を図っている。そのため

南西方面艦隊司令部はフィリピンに移り、第三南遣艦隊司令部を兼任した。

 

                    編制(新編時の編制)

                    直卒-球磨、八重山

                    第31特別根拠地隊(ルソン島防衛、司令部はマニラ)

                    第32特別根拠地隊(ミンダナオ島防衛、司令部はダバオ)

 

マニラ海軍防衛隊

                    配備   マニラ(主力)、コレヒドール島(一部)

                    基幹   海軍第31特別根拠地隊

                    司令官  岩淵 三次海軍少将(兵43)

                    副長     板垣  昂海軍大佐(兵47、兼高級参謀)

                    先任参謀 今川 福一海軍中佐

                    作戦参謀 萱嶋 浩一海軍少佐

                    機関参謀 古川太久美海軍少佐

                    副官    上野 有造海軍大尉

                    ※    野口 勝三陸軍大佐(士30)※陸軍マニラ支隊小林兵団より配属

 

昭和19年10月、日本はレイテ沖海戦で敗北し連合軍のルソン島への上陸は時間の問題となった。陸軍第

14 方面軍司令官・山下奉文大将はマニラの「無防備都市宣言」により司令部をバギオに移動し長期持久を

図ろうとしたが、海軍は港湾施設の戦略的価値・物資の山岳地帯への搬出が未了、海軍将兵は野戦訓練に

不安があっ た事などを理由にマニラ放棄に反対し、マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍

少将)を基幹にレイテ沖海戦の沈没艦乗員などを集め、海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊(マ海防)を編成した。

マニラ海軍防衛隊は当初は約26,000人の海軍軍人・軍属を有していたが、兵器の大幅な不足から戦力化

できなかった約10,000人、兵器製造などを行っていた軍属6,000人(非武装)を脱出させたため、戦闘時

の兵力は約10,000人であった。

 

マニラに残った海軍将兵は陸戦隊7個大隊に再編成されたが、本格的な陸戦訓練を受けていたのは第31特

別根拠地隊の陸上警備科一個中隊のみであった。また、マニラ海軍防衛隊指揮下には陸軍個大隊が配属

され たが、これも在留邦人からの現地召集が大半であった。

南西方面艦隊司令部はマニラ海軍防衛隊の撤退に努力し2月9日に司令部をマッキンレーに移したが、市内

からの脱出が困難な状況から11日に司令部を市内に戻した。

 

マニラ市街戦

連合軍の戦力を過小評価した振武集団本隊は、撤退支援と士気高揚のため歩兵第31連隊主力などの6個大

隊をもって総攻撃に出たが18日までに撃退され、19日にはマッキンレーも陥落しマニラ市内の日本軍は完全

に孤立した。

2月24日、岩淵海軍少将は拠点を死守する旨の決別電を発したが、岩淵少将も26日に部下を脱出させた後

に司令部で自決。3月3日にアメリカ軍は戦闘終結を宣言した。

日本軍の戦死者は約12,000人、マニラ海軍防衛隊の残存兵力は振武集団の指揮下で再編成された。

 

※岩淵三次海軍少将の訣別電

勇士相次いで弊れ 残るは軍属及弱者のみにして 今次大戦に再起奉公の望みなき者 尤も

有為の士相当あるも これ無ければ戦は出来ず 此処に最後の御奉公然るべきなり 単なる

玉砕は小官も持らざる所なるも一つでも多く敵の首を取らしてやり度く 小官此処にて一同

の最期を見届け度 御蔭にて得難き数々の体験を得感謝に堪えず

 

マニラ東方への転進

マニラ海軍防衛隊の生存者や周辺の海軍部隊は、マニラ市街戦以降、陸軍の振武集団とともにマニラ東方

山岳方面に後退し、米軍の追撃を避けるためアンチポロ、ボソボソ、ラグナ湖からアゴス川沿いに分散した。

地獄のジャングルの逃避行だったらしい。

 

振武集団(マニラ海軍防衛隊)の転進ルート …牧野弘道様「戦跡に祈る」産経新聞社より転載

 

※陸軍・振武集団

当初は第14方面軍指揮下の第8師団を基幹とした集成集団であったが、昭和20年3月19日に第41

軍に昇格し、第14方面軍の戦闘序列に組み込まれた。

振武集団の作戦地域はルソン島のマニラを含む中南部一帯とされ、米軍との決戦を避け主力をもって

マニラ東方の山中に複郭陣地を形成して篭城しつつ米軍を消耗させる長期持久策を採用することとな

っていた。

最終的には基幹戦力の第8師団および第105師団を中核に、マニラ周辺の後方部隊・航空部隊などの

兵員を加え、マニラ東方山中に3兵団、南部バタンガス州に1兵団を編成して防衛することとなった。

マニラ海軍防衛隊(海軍第31特別根拠地隊基幹)を含めて、その数陸海軍約10万5千人といわれる。

 

岡山縣護國神社

岡山県岡山市

  

比島海軍戦没者招魂碑

碑文

十九四四年一〇月二〇日 約二十万の米軍が比島フィリピンのレイテ島に上陸しここに苛烈な比島攻防

の火蓋が切られました 我が連合艦隊が全軍突撃を以って決戦を挑んだ比島沖海戦も艦艇航空機多数

を喪失し惨敗を喫しました

爾後 米軍は比島各島嶼に次々上陸 所在の海軍部隊は陸軍と協同して善戦力闘しましたが圧倒的な

火力の相違と無限とも言える彼等の武器弾薬の補給に対し  当方のそれは無に等しく各部隊とも止む

無く山中に立て籠って遊激戦に転じました

撃つに弾丸無く生命の糧の塩も尽き 草根木皮を食みながら歯を食いしばって頑張った将兵は 米軍の

急追と風土病や栄養失調で次々と弊れ 万斛の涙を飲んで異境の土と化したのであります

此の碑は 遺族戦友相計り 比島海軍関係全ての戦没者(外国人も含む)約十万の御霊を永遠にお祀り

するため建立されました

比島海軍招魂会

 

ここに比島の砂を亡き戦友の御霊として永遠に御祭祀します 太平洋戦争にて散華した比島海軍部隊の

戦没者及び海軍と運命を共にした日本人 韓国人 中国人 比島人戦没者の御霊よ やすらかに眠り給え

一九八〇年八月建立

 

比島観音

愛知県幡豆郡幡豆町 三ヶ根山

  

     振武集団 鎮魂                                    比島方面海軍戦没者之碑

比島観音

この比島観音は 遥か南西三〇〇〇キロ 比国の島々を凝視され 比島方面戦没者五〇余萬柱の

御霊を慰めておられます。

 

比島決戦

更新日:2009/05/05