満蒙開拓団

殉難者拓魂 長野県 ・下伊那

 

泉竜院

長野県下伊那郡豊丘村

満州開拓観音

碑文

満州国東安省密山縣南五道崗 第六次開拓団 河野屯生存者一同

昭和四十九年五月建立

 

豊丘霊園

長野県下伊那郡豊丘村

海外犠牲者慰霊碑

碑文

昭和の中世 時の国策の悠久大義なるを信じ それに順応し祖国を離れて海外の新天地に活躍中 

太平洋戦争の悲惨なる終結に伴い 雄図空しく挫折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直

面し 幾多の同志は想を故郷に馳せつつ異郷に散華し 生あるものは辛うじて身をもって故山に帰

るの止むなきに至れり 今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して異郷に眠る同志の声なく帰郷を

希い 以て慰めんと欲す

想を馳すれば吾等の雄図は事志と違い悲惨なる結末を告げたりとはいえ 決して無為にあらず 必

ずや後世の歴史は平和に本建設の礎たりしことを証明するであろう この丘に立ちて眼科に天龍の

清流と栄ゆく母村の姿を見 仰いで青天に一片の白雲 悠々たる故山の姿を眺むる 遠き思新にし

て感無量なるを覚ゆ

御霊よ 安らかに 永眠されんことを

一九七四年八月一五日

 

大丸山公園

長野県下伊那郡高森町

高森町満蒙開拓殉難者慰霊碑

碑文

顧みれば昭和七年 時の政府によって始められた満州国の開拓事業は 満蒙の天地に比類なき民族協和の楽土

建設という日本民族の理想と 祖国防衛という使命達成のために推し進められた 重大な国策であった

高森町からもこの大事業に挺身した者 実に六百有余名の多きに及んだ

これら先駆者が 祖国の運命を健やかに想いながら営々として開拓に励み その理想もようやく達っせられん

とした昭和二十年夏 思わざる祖国の敗戦により血と汗の結晶は一瞬にしてついう去った

満蒙の地には頼みとした関東軍はすでになく 孤立無援の日本人慰留民は難民と化し 祖国の土を踏むことを

唯一の望みとして 時には零下三十度の極寒の中を同胞相携えて苦闘の行進を続けた その間 飢えと寒さ

迫害と病にたおれた人々は 町内で実に二百七十有余名に達している 然るに いまだ帰ることなき遺骨のあ

るなかで 戦後三十五年が空しく過ぎ去った

ここに 同志相図り 町内全戸及び町外関係者からの浄財により これら殉難者の御霊を合祀し 故郷の山河

に還りて安らかに瞑せられんことを念ずるとともに 再びこのような戦争の惨禍を繰り返さない誓いと 世界

平和実現の願いをこめて この碑を建立する

昭和五十六年四月  高森町満蒙関係殉難者慰霊碑建設委員長 林 小六  遺族及び生還者一同

 

阿島八幡神社

長野県下伊那郡喬木村

喬木村満蒙開拓殉難者慰霊碑

碑文

太平洋戦争後 祖国は今日 世界有数の発展をしている とはいえ 旧満蒙開拓関係者にとっては 無念の最後

を遂げた多くの同志や肉親の霊が 今なお異国にさまよっている現状を思い その霊を母国に迎え 供養しない

限り 戦後は決して終わりません

時の国策を信じ 遠く海外に新天地を求め 祖国を離れて 水曲柳 長野村 下伊那郷 千代 上久堅分村など

に入植した 或いは義勇軍 その他勤労奉仕隊など 多数の人々が異郷で終戦に直面し 大混乱の中 筆舌に尽

くしがたい悲惨な結末に憂き目に遭遇した

辛うじて故国に帰還した旧満蒙開拓関係者が相談し 村をはじめ 村内外の大方のご理解とご協力のもと ここ

八幡社の聖域に慰霊碑を建立し 永遠の平和を願い 異郷に殉難された同志の御霊をここに供養し奉るものなり

御霊よ 安らかに永眠されんことを

建立 昭和五十七年四月吉日  建設委員会

 

姫宮神社

長野県飯田市

旧上郷村 満蒙開拓之碑

碑文

(記載なし)

 

拓魂

 

大宮諏訪神社

長野県飯田市

わかい拓友之碑

碑文

満蒙開拓青少年義勇軍両角中隊は 当時十四才 十五才にして親の膝下を離れ 昭和十九年三月内原訓練所に

入所 同年五月勇躍渡満 鐵麗訓練所を経て十一月三江も半訓練所に入所せり 昭和二十年八月ソ連軍の進攻

によりハルピンに避難せしも 飢えと寒さのため夢も空しく異郷に散った拓友を永遠に偲び 幾多困難を越え

て帰還した生存者の心の支えとして この碑を建つ

昭和五十四年十一月二十五日  三江会生存者一同

 

神之峯

長野県飯田市

満州開拓碑

上久堅開拓団略史

上久堅村は昭和十三年七月村内と郷土から三百戸を目標に 三江省通河県新立屯へ公村移民の送出を

決定した 団員は第二の祖国建設中に大戦勃発 青壮年男子は大方召集され現地には老幼婦女子のみ

残された 昭和二十年国は原住民の暴徒に襲われ 更に敗戦により数百の尊い命は病と飢に苦しみつ

つ異郷に散った

拓友の霊に捧ぐ

北満の大地に眠る皆さん 敗戦によって開拓の夢は破れ幾多の苦難の中に斃れた皆さんに 私共は謹

んで哀悼の意を表し遺された開拓精神を永遠に記念すべく此処に碑を建てました 今や日中友好漸く

緒につき希望の光が輝いてきました 私共は皆さんの遺志を継承して此の大業の実現に向かって邁進

する覚悟であります どうぞ皆さん安らかにお眠り下さい

開拓のその身曠野に果つるとも 御霊は還れ神之峯山

昭和四十八年九月二十三日  上久堅村開拓団拓友一同

 

下久堅地区

長野県飯田市

水曲柳開拓団殉難犠牲者異例之碑

碑文

水曲柳開拓団は 松島親浩(吉林省日本領事朝鮮課長)の指導により 一九三七年から飯田・下伊那郡の

農民並びに北海道実験農家等 千余名が旧満州吉林省舒蘭県に入植した自由移民団である 私達は満州に

理想の天地を拓こうと今村清団長のもとに 希望にもえて入植したが 一九四五年八月十五日敗戦により

その夢は無残にも崩れ去った 敗戦直後の混乱の中で自決の止むなきに至った者 各地の収容所で病にか

かり飢えと寒さで斃れた者など 三百余名の尊い人命を失った 九月九日 七道河子の六十余名をはじめ

とする小綆屯 孟家屯等 数ヶ所での集団自決がおこり 水曲柳は修羅場と化した 第一次入植者牧内忠

氏は七道河子の悲惨な結末を見届けると 無念の思いを込めて「残りの者は是非日本へ辿りつき平和国家

の再建に励むように」と遺言し この世を去った 私達は日中戦争下に展開された「満州移民」への農民

自らの反省を通して 日中両民族の共存を培っていく事が残された者の使命と考える この地に水曲柳か

ら持ち帰った土と遺骨を埋め殉難の碑を建立し 戦時・戦後の物故者の御霊のご冥福を祈ると共に 日中

友好と世界平和の実現を誓う水曲柳開拓団の証とするものである

一九九四年三月二八日  水曲柳開拓団団員一同

 

廣旗八幡神社

長野県飯田市

千代地区 満州開拓慰霊魂

碑文

当地区満州開拓の先駆は 昭和十二年大東亜建設の一翼をになって壮途につき三江省湯原県等に入植 勇躍

開拓の斧を奮った 然れども天運利あらず業なかばにして敗戦の憂き目に遭い幾多の苦難のなか数多の同志

が廣野に散華した

思えば爾来星霜既に三十余年 時運変わると雖も猶悲運■ 開拓の往時が追想され感慨無量 返す返すも浩

嘆洩らさざるを得ない

今 茲に在りし日の犠牲者各位の面影を偲び 静かなる母村の高台に その遺された開拓精神を永遠にすべ

く 併せて平和への願いをこめて この慰霊碑を建立する

犠牲者の皆さん 安らかに永眠されんことを

昭和五十一年十月十一日  千代地区満州開拓慰霊碑建立委員会

 

川路神社

長野県飯田市

惟拓魂

碑文

事変熾烈下 農村更正と民族移動の国策に挺身し五色旗の楽土成らむとして 急転直下の悲運に

遭遇せり 茲に老石房川路村の清水団長と団員 その家族老幼並各団各班に於いて 満州開拓に

従いたる悉くの英雄をい 挙村慰霊碑を建立して後世に伝え 永く民族の協和と平和永遠を

冀う

 

黒龍江省木蘭県控堀二六一人之霊 昭和四十八年十月十六日建立

 

満州開拓川路分村の殉難者 慰霊平和殿

碑文

昭和二十七年創建  川路村

 

大鹿村役場

長野県下伊那郡大鹿村

慰霊碑(満州開拓殉難者を合祀)

 

松川中央小学校

長野県下伊那郡松川町

引揚記念碑

碑文

私達は日本の海外発展の国策に沿って勇躍外地に渉り 文字通り地と汗の努力を重ね 逐次成果を

あげつつあった所 昭和二十年八月太平洋戦争の終結と共に本土への強制帰還 在外日本人の私有

財産没収措置等の為に 我々の努力も水泡に帰するの思いを深くしたが 同時にこれが日本再建に

寄与したことを思えば 我々も以て誇りとする所である 戦後二十四年 今や日本の発展めざまし

き秋 引揚者等特別交付金法が成立した 私達は思いを新たにし日本の発展に寄与すると同時に 

終戦の混乱期に筆舌し難い惨状により 異国の土と化した松川町二百有余名の悲魂に対し謹んでそ

の冥福を祈り 勇躍海外に挺身したことを記念して 茲にその誇りを以てこの碑を建立す

昭和四十四年十一月吉日  松川町外地引揚者三百三十余名一同

 

筑紫神社

長野県下伊那郡泰阜村

満州大八浪開拓団慰霊碑

碑文

今を去る二十有余年前 国策に従い 数多くの人々勇躍満州に渡り 三江省大八浪に泰阜分村を建設したり

しかるに 第二次大戦は日本の無条件降伏といふ悲運に終結し 理想郷建設も中道にして挫折し 開拓民は

異郷の昿野をさすらひ 内地帰還の望みも空しく 大陸に恨みをのんで不帰の客となる 誠に痛恨の極みな

る されど諸氏の雄魂は燦として青史に消ゆるなし 今ここに碑を建て 永き世の平和を祈り 誅詞を勒し

て拓魂を万世に伝ふ

大八浪に雄図は空し拓友の 御霊よ還れ ふるさとの丘

昭和五十二年三月  泰阜村民 並 生存者一同

 

長岳寺

長野県下伊那郡阿智村

満州開拓団の被害者を祀った地蔵尊

説明版

死んだ筈の子供たちが哈濱で再会したのは有名な話です。当山住職慈照法印は、中国残留孤児の肉親探し運動を推進し、

其の后十五年目にして政府を動かし、孤児は次々と祖国を訪れている。

 

満州開拓団の被害者を祀った地蔵尊

 

満州開拓哈達河供養地蔵尊

碑文

抑々昭和二十年八月、ソ連参戦に依り貝沼団長率いる元満州第四次哈達河開拓団、第一次東哈達河、

北海道実験農場、第十三次南郷分村、哈達河地方人を含む総数千二百余名は一都一道二九県に及ぶ。

麻山にて自決す。その数五五五名。引揚途中戦死、戦死、病死、入植以来の死没者、実に七五五名。

うち四六〇名の子供等は合意の自決乃至病死とは云い乍ら、後に残りし人々をして、麻山の夕日に心あ

らばと落涙絶唱せしむ。

茲に水子地蔵尊を建立して彼の地に眠る我が同胞の御霊安かれと祈りて建立。

当山慈照謹んで録して書示す。

 

日本と中国の友好の碑

説明版

昭和三十九年 当山慈照法印と中国周恩来総理と約束して 日本最初の友好の碑である

 

中国残留孤児の帰国に率先して活動した山本慈照住職の像

 

望郷の鐘

由来

望郷の鐘は中国旧満州で死没した四万数千人の供養のため鋳したもので 中国紅十字会倪斐君女史の書と

本山貫主の望郷の詩に刻まれている

 

刻銘

大東亜戦病没者 旧満蒙開拓犠牲者 追善菩提

 

従進友好快復邦慶

紅十字会訪日代表 倪斐君

日中両国人民的要■代々友好

 

望郷の鐘

想い出はかくも悲しきものか 祈りをこめて 精いっぱいつけ

大陸に命をかけた同胞に この鐘の音を 返る疾く瞑せよ

日中友好手をつなぎ 共に誓って悔を踏まじ 大陸に命をかけた同胞に 夢美しく 望郷の鐘

日中友好手をつなぐ会長 山本慈照

 

昭和五十乙卯 秋彼岸造立

 

堯翁院

長野県下伊那郡浪合村

慰霊塔

碑文

軍人軍属満州開拓犠牲者之碑

昭和三十年四月十五日建立  浪合村

 

下清内路諏訪神社

長野県下伊那郡清内路村

満州開拓殉難之碑

碑誌

本村の満州開拓の歴史は 昭和八年より昭和二十年までに数十戸が分郷し 又義勇軍勤報隊として

民族協和楽土建設を理想に送出され 刻苦精励し着々とその成果をあげた

昭和二十年八月九日 突如ソ連軍が侵入し全満は戦禍の巷と化し男子は召集され 開拓団は老幼

婦女子のみとなり 一片の庇護もなく飢えと病いに侵され 酷寒の山野を彷徨して悲惨の極に達し

開拓の夢空しく百数十名は異国の広野に散り 未だ帰らざるもの十数名に及ぶ 又応召の男子は

ソ連に連行され累年の苦役に多数の生命を失った

非業に散った開拓者の御霊を慰めんと広く各位の浄財を仰ぎ 全村民哀悼のもとに謹んで冥福を祈り

人類永遠の平和を祈念して之を建つ

昭和五十年五月三十日  清内路村

 

北    信  東   信  中    信

諏    訪  上 伊 那  下 伊 那  木   曽

 

満蒙開拓団    拓魂・長野県

更新日:2012/04/01