満蒙開拓団

殉難者拓魂 長野県 ・東信

 

安楽寺

 長野県上田市

李下小県開拓団物故者慰霊碑

碑誌

昭和十六年当時日中戦争の最中 物資と食料に欠乏した日本政府はその活路を独立させた満州国に求め

食糧増産と日本防衛の為にと大々的に満州移民計画の促進をはかった

小県郡もこの国策により五族協和・第二の祖国建設の名のもとに送出を計画し 同年春我等は第十次李下

小県開拓団員として満州国浜江省延寿県李下屯に入植した 其の数八十八戸 人員凡そ三百八十余名 同

年十二月八日大東亜戦争勃発 戦争激化にともない拓地にもその波が押し寄 男子の殆どが動員され 老

人と婦女子の現地に残す

昭和二十年八月十五日敗戦 異国に於いてたのむ人と物とを同時に失った在満邦人の悲惨はその極に達し

行く宛もなく大陸をさまよい酷寒と飢えと病魔に斃れる者 又一部落全員自決により命を絶ちし者 或いは敗

戦に駆り立てられ其のまま帰らぬ者 その数二百余名 辛うじて帰国した者百五十名

この度生き残れる同志相計りて上田市及び小県郡町村会並に有志の方々の協力により 念願の慰霊碑を建

立し殉難者の霊を慰むると共に 再びかかる悲惨事を■■さざるよう後の世の人の為にしるす

昭和五十年三月二十二日  李下小県会長 柳沢辰雄

 

靖國霊社

小県郡長門町

大門村開拓団 靖國霊社

 

満州大門村開拓団 記念誌「羅圏河」発刊記念植樹 標木

 

上ノ城跡(招魂社)

 長野県佐久市

小古洞蓼科郷、三台子小諸郷 満州開拓団慰霊碑

碑文

(判読不能)

昭和三十三年十一月二十一日  北佐久郡町村会

 

薬師寺

 長野県佐久市

満州佐久郷開拓団物故者慰霊碑

碑文

昭和二十六年十月五日建立  選出関係町村

堅沢郷 田口村 切 原村               .

中込郷 大沢村 前山村               .

臼田郷 岸野村 櫻井村 平賀村 大山村 貴沼村

団員遺族一同

 

諏訪神社

 長野県南佐久郡北相木村

千曲郷開拓団戦争殉難者慰霊碑

あゝ開拓千曲郷の断末

千曲郷開拓団は旧満州国東安省密山県にあった第五次黒台信濃村の隣接地へ縁故団として入植する

ことを目的に 北相木村 を中心とした近在旧十一ヶ村のブロック分村として昭和十五年三月二十名の先

遣隊が渡り 続いて四月十七日には第一次本隊として二三八人 さらに二次三次と順調に入植し 昭和

十七年六月には一四九戸がほぼ計画どうり入植することができた

団員及びその家族は大きな希望と夢をいだきながら満足と感謝の気持ちをもって過し いよいよ開拓の

成果も実りつつあった昭和二十年八月 かねて予想されていたソ連軍の参戦と同時に生か死かをかけた

運命の彷徨がはじまったのである 敗戦の慟こくも束の間襲い来る物資掠奪の暴民また匪襲と度重なる

悲劇により多くの犠牲者を出し 幾多の自決家族も余儀なく続いた さらに飢餓と病魔は容赦なく追打ちを

かけ 倒れゆく肉親にも一滴の涙すら枯れ果て 酷寒零下四十度に着のみ着のままの姿となってさまよう

こと一年有半 ひたすら望郷の念をいだきながら実に三百有余名にのぼる拓友を彼の地に余儀なく葬っ

たのである

あれから三十年 奇跡的にも一生を得て祖国の土を踏むことができた同志相諮り ここに慰霊の碑を建立

したのである 異郷にありし拓友の霊よ安らかに眠り続けたまえ

我々はこの碑が恒久平和の礎石となってくれることを念じてやまぬ

昭和五十年六月二十九日  千曲郷同志会

 

大日向公民館

長野県北佐久郡軽井沢町

南佐久郡大日向村分村 開拓之礎

開拓遺歴

南佐久郡大日向村は経済更生計画を樹立し 昭和十二年 村長浅川武麿 組合長堀川清躬をして分村計画をたて

満州国吉林省舒蘭県四家房の地へ団長堀川清躬先達となり 日本最初の分村をなす 入植者 二百十六戸 六百

七十四名 水田一千町歩 畑千五百町歩 山林千五百町歩を保有す

同十六年 開拓は発展なすも 大東亜戦争は愈々烈々となり 同二十年八月十五日終戦の宣勅は下る 世相は一

変し敗戦の民となる 匪襲により活路なく 難民極寒悪病と闘い 新京にて団長堀川清躬 組合長小須田兵庫 校長

中沢勇三以下 三百七十四名の犠牲者を出す 堀川源雄指揮者となり難民生活の指導なす

昭和二十二年二月十一日 堀川源雄団長となり 現在地に六十五戸 百六十八名の入植をなす 国有地の開発は

進み 同二十二年十月七日 天皇陛下の御巡幸を賜り

浅間おろし つよき麓に かえりきて いそしむ田人 たふとくもいるか

の御製を賜る 入植十八年の歳月は流れ 同三十八年 横井今朝一組合長となり開拓は完成す

同三十九年九月一日 皇太子殿下御一家のご来啓を賜る

団員総意により入植以来十五名の霊を合せて 茲に謹んで慰霊碑の建立をなす

昭和三十九年十一月三日

 

泉洞寺

長野県北佐久郡軽井沢町

満州開拓 牡丹地蔵

碑文

昭和十六年六月満州開拓の国策に挺身すべく 佐久 上小 松本 東西筑摩出身の健児 茨城県内原訓練所を

経て満州国牡丹江省青年義勇隊富安訓練所に入所 成沢中隊として三ヶ年互二切磋琢磨 青春の情熱を傾けて

訓練に励んだ この間祖国は太平洋戦争に突入 時局は愈々急迫の度を加えた 同十九年中隊は栄ある訓練本

部長賞に輝き 六月訓練終了により牡丹江河畔寧安県海浪村に入植 第四次東海浪瑞原義勇隊開拓団として待

望の村造りに着手したが 戦局の悪化と共に大多数の団員が軍に召集されるに及び 翌二十年五月郷里より勤

労奉仕隊十五名を迎え入れた 八月九日ソ連参戦 十五日祖国の敗戦も知らず避難行動の途次 第一次義勇隊

海浪開拓団に休憩中 現地叛乱兵の襲撃をうけ河田幹部以下三十数名は壮烈なる最期をとげた また戦地にあっ

て散華した者 或は病没した者等多数に上った 幸にして生還し得た者団の悲報に慟哭したが 本年二十七回忌に

当り帰国後の物故者を含め八十三名に及ぶ亡き同志の冥福と 永遠の平和を祈願するため 有志一同相図り協力

して本地蔵尊を建立した 渡満人員二九六名 現在者二一三名

願わくば在天の英霊よ ここに来たりて安らかに眠ろれんことを

昭和四十六年九月二十六日  元満州東海浪瑞原義勇隊開拓団 瑞原会建立

 

北    信  東   信  中    信

諏    訪  上 伊 那  下 伊 那  木   曽

 

満蒙開拓団    拓魂・長野県

更新日:2011/11/03