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2000.03.04 Up Date

合同研随想「第二の<在地>」                   飯泉健司

合同研究会で、物研側から大凡次のような主旨の発言があった。A「古代は、古橋さんが全てやってしまったから(何もやることがないから)」、B「(方法論的に行き詰まっており)古代は生き残りをかけている(のでこのような合同研究会を持ちかけてきた)」と。( )内は私の想像。Aについては、十数年前に「万葉集は折口先生が全てやってしまわれたから」と御弟子筋が発言したことを思い出した。ファッショもしくは狂信といった言葉が脳裡を過ぎった。次にB発言。研究者は「個人業主」(セミナー通信1999.12での大浦誠士氏の言)であり、方法論も各人で追究すべきものである。だから、「生き残り」はどの分野にも言えることであって、逆に特定(既成・他人)の方法論に安住している方がおかしい、と思う。もっともABの発言は、皮肉・揶揄を込めての言であるから、臥薪嘗胆の思いで聞き流すべきかも知れない。しかし、当日、全般的に古代文学会会員(私を含め)は大人しく、各人の方法・意見をもっと強く主張しても良かったように思った。物研との接点を見出すのではなく、むしろ相違点を明確にして闘うべきではなかったか。

 ところで、私が一番興味深く聞いたのは、風土記に関する発言であった。「風土記は解であり、朝廷の支配拡充、威光確認の報告書である」と。確かに風土記は解であり、国魂奉献の書としての一面を有する。某氏の言は、発表者への助言であり、風土記読解上、一度は持つべき見方である。しかし、今回のテーマ「ジャンルの生成」に則していえば、朝廷側からだけの一方的な風土記の捉え方は、旧来のものであり、新鮮さを欠く。新たな風土記読解の方法を模索するために、当日のこの発言を契機に議論を展開すべきではなかったか。そうならなかったのは残念であった。そこで、反省の意を込めて、風土記と「ジャンルの生成」について、以下、私の考えを述べさせてもらいたい。

 旧来からあった、朝廷主体の風土記の読みは、各国筆録者独自の表現内容・表現法(文学性)を見えなくしてまうばかりか、風土記独自の論理さえも見失う危険がある。例えば、出雲は記紀神話を意図的に拒絶する。その態度は、記紀で造反者とされるアメノホヒを功績者として語る出雲国造神賀詞にも通じる。つまり朝廷に反する姿勢を持つのが出雲国造、更に出雲国風土記なのだ。朝廷支配を確認する書ではない。地方の強固な主張があるのだ。同じことは播磨についても言える。応神天皇の狩猟失敗の記事(伊刀嶋条)が載る。万葉集では狩猟叙述は皇族の讃美表現として用いられる。狩猟は王権(の即位式、成年式)に関わる儀礼ともいう。だから獲物が捕れない場合は、卜占をしてまで狩りを成功させる(允恭紀)。中央伝承が、天皇の狩猟失敗を語ることはない。この記事には、天皇を讃美しない、播磨筆録者の主張があるとみるべきだろう。朝廷も地方のこの種の主張を受け入れる。反抗する地方(神)を威圧的に掌握しようとする表の理念とは反対に、裏では(実際には)地方神が祟るとすぐさま祀る、という二面性を八世紀の朝廷は有する。各国の持つ宗教力や経済力・軍事力等を楯に、地方官人は自覚的に己が主張を中央に提出したのであろう(責任を回避できる形を取りつつ)。ところが、地方官人は生の地方をそのままでは表現しない。常陸国風土記はその最たるもので、「風俗」「俗」を装いながら筆録者個人の意見を述べ、〈在地〉伝承の作為操作を施す。合同研で田中氏が発表で扱った古々邑条、イ「俗の説に猿の声を謂ひて古々と為す」という小書注記も、大書本文では地名由来とはなっていないことからすれば、ココ邑と猿声「ココ」とを結び付けたのは筆録者の解釈に基づこう。筆録者は、彼らの解釈を加えた〈在地〉や、文化人から見た〈在地〉を描く。地方を前面にして中央と対峙しつつも、内実は個人的、中央官人的に捉え返した地方を描くのである。地方の捉え返しというのは、八世紀初頭の地方歌舞整備の段にも為された。後世の歌枕(実際の〈在地〉とは別世界に描かれる)とも通底しよう。生の〈在地〉ではない。都人(文化人)が捉え返した〈在地〉(淫視した〈在地〉)である(無論本人は淫視ではなく、地方の本質を見出したとの自負を持っていよう)。地方の再解釈こそが、文化人の雅な行為(いちはやきみやび)であったと観じる文学観があったものと考える。如何に第二の〈在地〉を発見するか。風土記筆録者も同質の文学行為をなしたと考えられる箇所がある。前掲イを受けた、ロ「久慈河の濫觴は猿声より出る」(水源地を誤る)という記述だ。大河の水源地とすることによって当地を高める。一方でココ邑を「猿声」(猿の声が聞こえる地)と擬訓的に表記して、実際の邑とは異なる、異郷的な邑を描く。土地主体の志向の中にも、〈在地〉を再解釈する。「古々」では見出し得ない、新たなココ邑が「猿声」表記によって発見される。筆録者の捉え返した第二の〈在地〉である(詳細は別稿に譲る)。

 風土記は地方と中央との中間に位置する。中央中心の観点では理解しつくせない意図・主張がある。地方主体意識、地方有利の主張と中央文化との狭間に成り立つ。そこから第二の〈在地〉発見という文学行為も生まれる。地方と接することによって新たに発生した文学領域ともいえよう。都鄙を自覚した文学行為という観点(郊外論とは別に)から、風土記は捉えるべき書と考える。その点、朝廷主体の読みでは、もはや「ジャンルは生成」しない。風土記記述は、もっと積極的に文学の問題として読まねばなるまい。合同研は、私にとっては如上のことを考える機会になった。

 最後に、合同研当日について、各人が戦略的に「生成」させた「ジャンル」を、冒険的に発表して、闘いを求めるような場であってほしかった。

 

「合同シンポジウム」雑感               植田恭代

 

 すでにだいぶ時間がたち、いろいろな方々からの感想も寄せられていると思うので、詳細等はそちらに委ねたい。 初冬の一日を花粉の季節に思い起こし、心にうかぶことのみ記させていただく。

 『源氏物語』の権威化、『源氏物語』論の細分化のなかで、私自身、少し違う空気と自らの広がりをもとめていた頃、今回の企画の話しが持ち上がり、成り行きもあって関わるひとりとなった。十一年前の古代文学研究会も加わっての合同大会の時とは、発想もきっかけもたぶん違い、すでにそれぞれの会の参加者世代も替わっており、それだけに、創設世代の会員や前の大会で中心となられた方々には、必ずしも十分な配慮が行き届かなかった面も多々あったことと申し訳なく思う。一方でまた、歳月の流れあるいは世代差とは、そういうものかもしれないとも思う。

 「物語文学」をはじめとする「ジャンル」の問題はどこかで考えてみたいという気があったものの、実際にそれを話し合ってみると、その概念じたいの理解からして人それぞれ、さまざまな違いが出てくるばかり。困難に直面したり、逆にそこから気づくことがあったり、という繰り返しであった。でも、その過程そのものが有意義であったのかもしれない。公開の準備会を重ねてみて、参加してきた者は、おそらくなんらかの感触をようやくつかみ始めた、というところではないだろうか。いま、改めて思うのは、それを「伝える」ということがいかに難しいか、である。そして、ひとつの「シンポジウム」として提供するには、あらゆる工夫を十二分にする必要がある、ということである。さまざまな疑問をもっと素朴なかたちで提供する方法もあったろうし、準備会形式をいかすなら問題点をもっともっと徹底的に煮詰めるべきであったと思う。

 こうした試みが発展的に受け継がれるなら、今後も新たな企画をしていってよいであろうし、また異なる分野の団体と別なことを考えるというのなら、それはそれでよい。ただし、機械的に係を選出し惰性で続けるようになるのならば、いかなる企画もやる意味はあるまい。思い返せば反省点は尽きないけれども、互いに“特殊”な存在の「合同」であったかもしれないけれども、今回集まっていた人々に、「古代」や「物研」の枠をこえ、研究に携わるひとりとして感じること考えることは、それぞれあったのではなかろうか。内発的な動機による斬新な企画がさまざまなかたちで出され、今回の試みもそのひとつのきっかけになってゆけばよいのだと思う。

 

<ますらをぶり>と<たをやめぶり>の詩学   上原作和

 シンポジュームからほぼ一月が経過した。そして今、僕はあのシンポジュームの意味を問い直そうとしては見るものの、今だ明確なかたちでそれを表現することができないでいる。

 考えてみれば、お膳立てした委員が、シンポジュウムの感想を記すことすら、いささか的外れのような気もする。また、レポートについては事前に討議してあった内容だったので、感想の類はすべて他の皆さんのそれに譲りたい。

 ただし、大状況{古いですね}を語ることを許されるとするならば、創設の趣旨や会の運営形態も異なる二つの会が、沖縄大会から十年の年月を経て、再び合同シンポジュウムを持てたことにこそ、大きな意義があるように思われる。学会・研究会の中心的な荷い手の世代交替も急速に進み、会場を眺め渡したところ、顔ぶれも、古代に関してはベテラン勢が見えず、物研に関して言えば、若手の、特に男たちの顔の見えなかったことが、残念と言えば残念だったと言っておこう。

 僕なりに言いかえれば、今回の会のもくろみは、<ますらをぶり>をテクストとしながら、なぜか、労働者階級を想起させる<現場><技>などという、マニュファクチャー的なタームで我々を幻惑する、<たをやめぶり>の方法論=古代と、<たをやめぶり>をテクストとしながら、マッチョ的な方法論を駆使する{たんに声がでかく、口が悪いだけかもしれない}物研が、それぞれテクストと方法論を襷がけして、そこから何が立ちあがるのか、僕ら委員は、その妙をしかけ、演出することにあったといこうことになるだろう。

 具体的には、『うつほ物語』の王権生成の回路を、清原という氏の、史の再構築を志向した西本さん、おなじテクストで、琴の技芸の伝承という血脈の回路を、楽譜という書かれたモノから生成させようとした猪股さん、音声と書記言語と地名起源伝承の交錯・戯れを、オーラルな<ことば>からエクリチュールとしての<ことば>への転換点として、共時的にその世界解釈を志向した田中さん、というように僕は薄れゆく記憶のなかで当日の報告を理解している。

 そもそも、文学研究は流通させなければ意味がないモノである。今回は、世紀末の学界状況にあって、いささか自己満足的な到達観に陥り、排他的かつ自閉的な殻に閉じこもりつつあるように{僕には}思われた二つの会の、その中核メンバーが、それぞれ会という機関を通して自己の存在意義を問い直そうとする試みであったとも言えるのではなかろうか。であるから、兵藤裕己さんの発言のように、「生き残り」を賭けているのは、古代文学会のみではなく、国文学に携わるものすべてが等しなみに抱えている切実な課題であると言えよう。

 <ことば>は流通させなければならない。また<史>も共有しなければならないが、<史観>は個々の世界解釈として存在するものである。したがって、1999.12.05はすでに歴史の彼方におしやられ、参加者それぞれの胸にそれぞれの<史観>として生成されたことをねがうのみである。

 先日、三十年の年月を経て公開された三島由紀夫の「楯の会」会員への遺書にこのようにあったという。 

  「青春に於て得たものこそ、終生の宝である。決してこれを放棄してはならない」

 

「言説」への愛          岡部隆志

 

今回の古代文学会と物研との合同研究会についての個々の発表についての感想は、他の人が書いているだろうから、遠慮しておくことにする。私は私なりのかってな感想を書いておきたい。

 ソシュールが、恣意的な記号としての言葉を、意味内容から切り離して以来、たぶん、歴史や社会、あるいは、イデアといった意味内容から自立した、表記された言葉をめぐる「言説」が一人歩きし始めた。

 「言説」をめぐる「言説」が、その「言説」を解読するにふさわしい論理を生産し続ける。「言説」産業の到来である。ただし、「言説」の「言説化」は自己言及的で閉塞気味になるから、時々「外部」という、他者(歴史や社会もしくはイデオロギー)からの資本注入が必要となる。そうやって「言説」産業は元気になって、いまだに生きながらえている。が、さしもの「言説」産業も、どうやら高度成長が終わり、今では下降気味であると思われる。さて、この「言説」産業の中でほんの小さな自営業を営んでいる私にとっても、現状はあまりいい事態とは言えない。その意味で、今度の古代と物研との合同研究会は、若手の起業家による新しい「言説」事業であって、期待するところがあった。

 今回の事業の新しさとは何だったのか。それは、「言説」への「言説」がメタ的にならず、つまり自己言及的にならずに、「言説」の存在、とでも言うべきモノに、実感的に触れようとしたということにあったのではないかと思う。「言説」というモノ、それは、作品にあるわけではなく、ジャンルにあるわけでもなく、ただ「言説」と呼ぶもののなかにしかない。

 「言説」産業の大手企業にとって、「言説」は、モノではなく、論理によって姿を現す宝の山である。だから、論理の開発に莫大な資本投下をし、特許をとり、競争相手を退け同業者を傘下に入れてきた。大手企業にとって、今度の三人の起業家の論理は、奇妙に見えたのではなかったか。まず、利益を生み出す論理がよく見えない。というのも、今回の発表は、「言説」の「言説」としての論理よりも、「言説」の手触りを、手持ちの論理とアイデアで確かめようとするものだからであって、その「言説」を解読し、市場に出しても売れるような商品にしたてる論理がおろそかにされているように見えるからである。  が、私などにはむしろ、そのことがおもしろかった。商品化への論理がないように見えるのは、従来の商品を発表者が愛せなくなっているからだということがよくわかった。売れる売れないの基準が、論理の信憑性にあるとするなら、信憑性を追求したら商品は愛せなくなる、ということかも知れない。特に、古代の側の発表者には、この愛が強く感じられた。

 たぶん、このことは若手起業家のジレンマなのだろうとは思う。「言説」時代に生まれ、「言説」の海の中で「言説」を論じることは、自分の愛で「言説」を切り取ることでしかない。ジャンルを生成させるのは、新しい商品を生み出す商売人の論理なのではなく、自分の「愛」という感性なのだ。ここから出発するしかないということも確かなのだ。旧世代は論理に愛を抱くが、それは、論理が儲けさせてくれるからだ。むしろ、儲けに結びつかない今の「愛」のあり方を、私などは純粋なものに感じる。

 私が今回この合同の研究会にかかわって発見したことの一つは、古代の若手も、物研の若手も、この「愛」を共通して持っているということであった。私は、そのことを多少うらやましくさえ思った。

一委員のシンポジウム報告    津田博幸

 ふだん私たちは自分の専門とする「ジャンル」に閉じこもって研究をしている。私たちはそれぞれの分野のプロであるから、これは当然のことである。全知の神にはなれない以上、自分の専門領域を決めてそこで頑張るしかないということだ。だが一方で、私たちが自分の知の限界を超えようとするときには、むしろこの「ジャンル」という垣根の一時的な撤去が必要になる場合がある。これも自明の理屈である。言うまでもなく、今回の両学会協働のシンポジウムは、この「ジャンル」の一時的撤去を企てたものであった。

 シンポジウムのテーマは「ジャンルの生成」。副題が「同時代言説の海へ」。もろもろの言説が互いに種々の関係を取り結び合う中で「ジャンル」なるものは生成するのだろう、との当りをつけておいていろいろ考えてみよう、ということだ。もちろん、この試みによって、テキストの読みの更新や、「文学史」や「歴史」の書き換えがもたらされることを求めて、である。

シンポジウムで何がもたらされたか。当日の私の個人的聞き取りにより、各発表の提示した可能性を中心に述べておきたい。

 口火を切った西本発表を以下のように聞いた。『宇津保物語』の冒頭には官撰史書の歴史叙述へのリンク・ボタンがいろいろ埋め込まれている。読者は、それを一つ一つ押しながら物語の世界に入ってゆき、やがて、この物語の叙述がどこから始まっているのかを自ずと知ることになる。それは王権をめぐる争いの時代だ。そして、このことは物語叙述の書かれざる終着点が神秘の琴のもたらす聖代であることと呼応し合っている。

 いろいろと考えさせられた。たとえば、聖代の競合という問題。『宇津保』がリンクした六国史等の漢文世界では、聖代を描くというのはよくあることだ。たとえば神武、あるいは仁徳、天智、天武等々の過去の神話化された聖代。もう一つは史書等の序や上表文の定型で現在が聖代として表出される。当然、聖代もテキストによりけりで、いろいろある。それらに対して、『宇津保』の聖代は琴による聖代の到来を暗示したものだ。どこからこういう発想が出てきたのだろうか。両者をまったく無関係なものと切り捨てないで考えて初めてわかることがあるのではないか。

 あるいは文体の選択という問題。漢文の史書とリンクしつつ仮名で世界を仮構すると言えば『竹取物語』という先例がある。リンクの方法も共通だ。しかし、『宇津保』は『竹取』的に「偽装の言説」であるわけではない。『宇津保』が仮名を選択して作ろうとした世界の質については、『竹取』とは別の説明が必要なはずだ。等々、多くの可能性を含んだ発表だった、と思う。

 次の田中発表は『常陸国風土記』を取り上げた。提起された問題は『竹取』などの仮名テキストにも関わって大きく広がってゆく可能性がある、と感じた。『常陸』は、四六駢儷文・より平易な記録体漢文・漢字で書かれた和文という三種の文体を駆使して編まれたテキストである。この不思議さをまずは見落とさないことだ。そのいわば包括言語テキストの中で、田中氏が着目したのは久慈郡の記事。この記事は、「猿声」という文字面に意味が複雑に重層してゆくよう叙述が仕組まれているのだという。

 田中氏は詳しくは触れなかったが、言葉をめぐるこのような知の働きは、漢字・仮名に関わらず、八〜十世紀の非常に多くのテキストに見て取れる。その中でも、『常陸』のそれはかなり複雑なものだ、ということになる。この記事への着目はその点で重要だ。今後求められるのは、第一にこの仕掛け自体を『常陸』というテキスト総体の中でさらに明確に解読することだ。そして、この種の知の働きをどうとらえるか、たとえばシニフィアンの戯れといったレッテルを貼っておけばすむことなのかどうか考え直す、という作業がその先にあるだろう(なにしろ『常陸』は解文なのだ。その中でこんな芸当をやってのけているのである)。こういう考察を重ねることで、今まで見えなかった「ジャンル」が発見されるかもしれない。その可能性が垣間見えたと思う。

 トリをつとめた猪股発表では再び『宇津保』が話題となった。『宇津保』と同時代言説との関係の計測という点で西本発表と関わり、音をめぐる言説を問題にしたという点では田中発表ともリンクしていた。

 猪股氏は、『宇津保』が成立する時代は実は「譜」作りの時代だったという。九〜十世紀にかけて、漢文で書かれた「譜」と呼ばれる文献が数多く残されているのである。当時の「譜」とは、いわゆる楽譜だけを指す用語ではない。聴覚上の認識類型をもつこと、音を書記言語化すること、調子や曲節の由来を知ること等々、音楽をめぐる知の総体を書き表した文献を指す。こうした「譜」は免許皆伝のしるしに師から弟子へと伝授されるもので、その伝授の系譜も当の「譜」に記載された。『宇津保』の俊蔭一族の物語はこうした「譜」の言説と複雑にリンクしており、それ自体が俊蔭一族の「譜」の出現を必然化してゆくテキストだった。

 全体としてすでに一定の完成をみた論で、指摘される一つ一つの発見が非常に興味深かった。同時に、西本発表と組み合わせることで、さらにおもしろかった。一方は史書、一方は「譜」と、取り合わせた言説フィールドは異なるが、それらに対する『宇津保』の位置取りはよく似ている。ここからもう一段先の考察が可能になるのではないか、と思う。

 以上、三人のパネラーはシンポジウム・テーマの可能性を十分に示してくれたと思う。感謝したい。一つ惜しまれるのは三者の仲が良すぎたこと。ただし、これは司会の責任でもある。

 コメンテーターと会場の加わった討論については紙幅の都合で詳述できない。一言で言えば、みんなで異種格闘技戦を華々しく展開するというところまでは至れず、思いが残った。

 

物語学・その閉塞の現状

助川幸逸郎

 

 私は今、岩波現代文庫から出た『座談会 明治・大正文壇史(2)』を読んでいる。そこに次のような一節があった。

  藤村は『若菜集』を出して、一部の世間では新進詩人として迎えられたのだけれども、       

 貧乏でなにも収入がない。仙台から東京に出て来た。春陽堂から多少原稿料をもらおう

 と思っても、春陽堂では新体詩はだめです、なんでもいいから小説のようなものを持っ

 てきなさいと言われた。当時は『新小説』のような商業的文芸雑誌では新体詩などは雑

 文欄のようなひどい場所に小さく組まれていたんです。(勝本清一郎の発言)

 島崎藤村が『若菜集』を出したのは明治30年。その当時の日本は、これほどまでに「小説中心主義」的であった。

 世界中どこででも、近代の到来とともに、文芸諸ジャンルの中で小説が覇権を握る。後進国ほど、近代化への焦りもあって、この傾向は顕著になりやすい。まして日本では、言文一致体に対応する詩の新形式が開発されなかった。日本の近代小説は、本来「詩」が荷なうべき役割の一部まで背負わされて出発したわけだ。

 こうした極端な「小説中心主義」と、ナショナリズムが結びつくとどうなるか? 自国の歴史の中に、「小説のさきがけ」を求めることになるだろう。ただし、江戸時代の戯作は、近代小説との差異化の対象だから肯定するわけにはゆかない。となると、平安時代の物語文学が召喚されることになるだろう。特に『源氏物語』は、中世以降、歌人の創作活動の源泉となっていた。「詩」の母胎となった「小説」。この場合に登場させるのに、これほどふさわしい存在はない。

 近代国文学アカデミズムの中で、『源氏物語』が卓越した地位を形成しえたのは、おそらく右のような事情に拠る。王朝物語の研究者が、他の領域の古典研究者に比べ、自分の専攻するテクストの「同時代言説」に関心が薄いこと、逆に、近代文学のテクストや近代文学研究の動向には敏感であること――これらも、「小説中心主義」とナショナリズムの連携によって生じた事態に他ならない。

 物語学は、天皇制と直結した「和歌的なもの」に、本性的に雑多な「物語的なもの」を対置してきた。しかし、このような形での「権力批判」は、実を結ぶどころか、むしろ「小説中心主義」を助長させてきた惧れすらある。かといって、「小説中心主義」を相対化するため、和歌や漢詩文を称揚することは、反動以外の何物でもない。そして、物語と和歌と漢詩文、いずれを拠り所とすることも危険だとすれば、一切の研究が不可能になるか、危険を論議することそのものが無効化するか――すべてが危険ということは、何をやっても同じということになりかねない――に到り着く。

 私は、物語研究会と古代文学会との合同シンポジウムが、物語学をこうした「八方塞がり」から脱却させるきっかけになればと期待していた。古代文学会の人々が依拠している「方法」が、王朝物語研究に有効そうに見えたからではない。彼らの魅惑的な「方法」は、おそらくは「詩的なもの」の称揚に帰着する(「大和歌の極意は、神が耳元でささやく言葉を書きとめることだ」と折口は言った。この言葉を、現場論の人々はどのように受けとめているのだろう?)。強烈な吸引力と危険性を持つこうした「方法」を、正当に批判できるか――この課題を抱え込むことで、物語学の真価を問い直せればと私は考えていた。

 昨年末に行われた合同シンポジウムに私は出席できなかった。参加した人々の感想を聞く限り、期待した展開にはならなかったようだ。古代文学会の人々と対峙することの意義を、準備委員のアピール不足もあって、物研会員に認識してもらえなかったことが原因らしい。委員の一人として、非常に無念な思いがする。

 昨年末のシンポジウムが「大成功」とまではいかなかったにせよ、古代文学会と「格闘」することには依然として大きな意義がある。第二ラウンドが行われ、より根源的な交通が行われることを期待する。

 

  物語研究会と古代文学会に対話は成立していたか?・・・・合同大会感想にかえて・・・・橋本ゆかり

 

 私は次第に苛立ちと摩訶不思議な恐怖に似た感情を募らせていった。「コダイブンガクカイハコワイトコロナノ? 」古代文学会・モノケン合同大会準備会の報告書は、毎月毎月送られてくる物語研究会例会通知に連載されていた。そしてその報告書が、私の中に確かな苛立ちと恐怖を刻んでいった。そもそも、私はそれまで古代文学会に対して、特定のイメージをなんら持っていなかった。強いていえば、漠然と自分から遠いところにあるものであった。古代の個々の研究者の仕事は読んで知っていた。しかし、団体に対するイメージはなかった。だから、報告書の中の古代文学会が古代文学会を改めて意識化するはじまりだった。シンポの感想以前に、私がシンポ聞くにあたってどのようなコンテクストをもっていたかを、まずここに示したい。それは、私がどのように聞いたかを示すことにつながると思うからである。

 モノケンの側からの報告書には、古代文学会に対する違和感が繰り返し語られていた。しかし、その違和感がどのような性質のものなのか、私には伝わらなかった。

「分かってもらえないんだよね。なんか違うんだよね。」という驚きと諦めに似た呟きばかりが大きく伝わってきた。なんだか愛しあえない恋人たちが、別れるきっかけもなくて、でも、せっかくの出会いを失いたくなくて、「もう少ししたら、あの人が分かるのかもしれない。分かってもらえるのかもしれない」という、切ない期待を抱いて付き合いつづけているという印象であった。

一体、何が違うのか? 一体なぜ、ことばが通じなかったのか? それをどうしようと考えてつきあい続けていたのか? 報告書の読者である私にはずっとこうした苛立ちがあった。

 まず、小森さんも植田さんも、古代の側が使う用語に違和を感じていたようである。分析用語はジャンルを形づくる。まさに、古代側の用語への違和感は、古代側がジャンルを生成している思考の枠組みそのものへの違和感といってよいであろう。

 小森さんは違和感のある用語として「語り手の宗教性」「宗教実践者としての語り」「シャーマニックな語り」「語りのシャーマニズム」「反歴史」を挙げていた。どのような文脈で使われた用語なのかわからないが、用語だけをながめてみても、私も違和を感ぜざるを得ない。「反歴史」以外の用語はすべて、「語り」に宗教的、祭祀的なものをみており、語り手と語る言葉とに距離を感じさせるような用語である。語り手と語りの主体の二重性(声の二重性)を感じさせる用語と言い換えてもよい。多分こういったことが、後でモノケン側の助川さんの「転移とシャーマニズム・・浮舟をめぐって」というレポートに繋がっていったのであろうと、想像される。助川さんのレポートを猪股さんの報告書から引用すれば「「転移」という元来は精神分析の用語を使用した物語分析を「『古代性を帯びた語り』(一種の憑依状態)の問題であると共に、『自由間接言説』の射程を見極める作業となしうる」とある。助川さんは、恐らく古代側の用語とモノケン側の用語を交通させようと苦心したのではなかったか。語る言葉をどう認識してどう分析していくのかという議論へもっていこうとしていたのではないか、と勝手に私は想像する。具体的に助川さんのレポートがどのようなものであったかわからないので、勝手に想像するしかないのだが。

 この助川さんのレポートをどううけとめたかという報告書は、猪股さんが書いていた。私にとってこの報告書は、他の報告書に抜きんでて違和感をのあるものであった。その場に同席していたモノケンの方々は、後にこの報告書を読んで、どう考えたであろうか。ぜひ知りたい。私は「わからない」と絶叫した。猪股さんは助川さんのレポートにとても刺激されたようであったが、それによって、「エクソシストとの対話」というルポを読むところに行ってしまう。「転移」や「自由間接言説」という語から、「エクソシストとの対話」へどうしてトリップしてしまえるのか? 何故、宗教性を帯びた言説へ思考が向かうのか。「『自由間接言説』はトランスしている状態の言説にたとえて説明できますよ」ということと「『自由間接言説』はトランス状態の言説である」ということとは全然別である。助川さんのレポートが具体的にどのようなものであったのかがわからないが、想像するに、助川さんは前者の立場で仰ったのではないかと思う。助川さんが一種の憑依状態のことをいうのに、「宗教性を帯びた語り」という語を用いず「古代性を帯びた語り」とういう語を選んだのは、古代側が宗教、祭祀、儀礼の文脈に常にモノケンの言葉を持っていってしまうことへの抵抗、あるいは予防線だったのではないかと、私は深読みさえする。古代側はモノケンの側との間にある違和感のある用語を乗り越えて、結局そうやって常に自分たちのフィールドにモノケンの側が提示したものを回収していってしまうのか? ジャンルなどなどの越境といいながら、結局じぶんたちは同じ場所いて、垣根をとりはらったところのものを、自分たちと同質のものとして回収・還元してしまうのか? なんだか、近づくといつのまにかとりこまれてうまう不安と耐えがたさを思う。モノケンの側の発表者の提示した言葉をモノケンの側の発表者の文脈で理解せずに、すべて自分たちの側に回収・還元して済ませていくということはなかったか。私はモノケンの会報に載っている報告書を読んでいるだけなので、そのように想像するしかなかった。それは私の妄想か?

だから、私はモノケンと古代文学会との間で、どのような対話がなされるのか、シンポジウムへ行って確かめたかった。そのためだけに、私は犬山からはるばる行った。しかし、結論からいえば、それは確かめることができなかった。シンポジウムは準備会の方々が発表を互いにすでにチェックしあっていて、とても仲良しであった。多分、このシンポジウムを実りあるものにしようという熱意と努力で、発表者の発表やコメントがすでに準備会において練られて、準備されてしまっていたのであろう。その熱意と努力に、私は圧倒された。それと同時に、シンポジウムではモノケンの会報に示されていた、違和感がどこにあるのか、わからなかった。そして、あの違和感がどのように乗り越えられたのかもわからなかった。私が一番知りたかったのは、そこであったのに。突然にその場で疎外感を感じてしまった。私は楽しい祭りをやっているから見に来てね、という声を聞きつけて、のぞきに行ったけど、そこになじめない余所者であった。

 言葉が通じない、あるいは、違和感を感じるとしたら、そのそれぞれの言葉を支えるコンテクストの違いがまず明確にされるべきだろうと思う。それは、どのように確認されたのであったか? 私はそこが知りたい。違和感が両者にとりはられていたのならば、それは互いのコンテクストをどのように認識しあったからなのか? 知りたかった。

 私は民俗学、社会学、文学、などの人々が集まった<口承>研究会の人々とこれまで一緒に勉強したことがある。また今は「近代文学」の人たちとも一緒に勉強している。その時には、私は、それぞれの人々がどのようなコンテクストで、その言葉を語っているのかを理解するように努力しながら聞いている。コンテクストぬきにして、言葉が通じるわけがないし、機能しない。そして、私は自分とは異なる分野の人々と対話する時にまず学ぶものは、その人の語った「私にとっての」「おいしいところ」ではない。その人が語る言葉のコンテクストであると思っている。もちろん、「おいしいところ」も有り難く頂戴したいが、まずは、その言葉のコンテクストを学び、その相違を確かめつつ対話している。

こちらのコンテクストの中にあった言葉を、いきなり、別のコンテクストの中におかれたら、違和感が生じるのは当然である。(注、違和感は決して悪いものではない。違和感こそが「他者さん」と理解し合い対話する重要なきっかけだからである。)たとえば、猪股さんが、助川さんのレポートを聞いて、エクソシストに行くのは、猪股さんにとっては、楽しかったであろう。でも、何が楽しかったのか。猪股さんにはどのようなコンテクストがっあて、どうしてトリップしていけたのか(猪股さんにとっては、トリップではなく連続であったのかも知れないが)。たとえば、自由間接言説については、三谷邦明さんが、書承に特徴的に発見できるが、口承にはない、と述べているという研究史がある。それに対して、高木史人は<口承>にも発見できることを述べている。そして、口承=文学において自由間接言説に注目して論じることが有効であるとして、実際に若松若太夫の語りを実際に分析している。猪股さんの楽しさは、書かれた源氏物語でいえることが、口承の場にも発見できるという楽しさだったのか? もし、そうであれば、その楽しさは単なる勉強不足が解消された楽しさでしかない。それとも、「憑依状態」の言説を認識するのに、新しい言葉を手にいれることができた楽しさだったのか? 語りとは「憑依」の言葉だと日頃から思っているのか。

私はそういったことを一つ一つ知りたかった。私が合同大会に行って確かめたかったのは、違和感の質であった。コンテクストの違いについてであった。

でも、大会では、何らそのことがあきらかにはされなかった。ジャンル生成の海へ、というならば、まさしく、そこが問われねばならなかったのではないか。それとも、もう、準備委員会の間では解消されたことで、初めて参加する人人には示す必要のないことだったのか? あまりにも基本的なことすぎるのか?

 津田さんはこれまで日本紀講に関する論文を書いている。合同準備委員会の報告書を読むと、そうした仕事を通した津田さんからの問いかけが示されている。「日本紀の局」をどう見ますか? という問いかけである。モノケン側と古代側のズレと、この問いかけは響き合わされて互いに検討されたのか? 報告書に示されてきた違和感とは、神話を扱う側と、物語を扱う側との違いからくるのか、神話として扱う側と物語として扱う側との違いからくるものだったのか? 私の中では謎のままである。

 少なくとも、モノケン側は津田さんへの回答を出したのでしょうか? シンポジュウムを自分のこととしてこなかった私が、以上のように発言するのは、モノケン側、古代側の両方の反発を買うことなるのかもしれないが、思ったことを書いて下さい、といわれたので、書きました。妄言多謝。

物研の若手はどこに行った?              原 豊二

 

 古代文学会・物語研究会の合同シンポジウムに参加するため、寝台特急サンライズ出雲に乗って、上京した。サンライズ出雲という名称自体、古代世界のイメージを背負ったものに違いない。そして、そのイメージが拡大していけば、観光に力を入れている山陰地方にとっては非常によろこばしい、ということになるらしい。私もホンダシティの助手席に出雲国風土記を置いて、よく観光をする。特に神社関係は面白い。だから、あの古代文学会といっしょに、我が物研がシンポジウムを開くと聞いて、ちょっとした興奮を覚えた。さて、今回、このシンポジウムに参加して率直に思ったことは、「これは大変だ。とても混沌としている。概念が違う。」といったこと。共通点と言えば、どちらの団体も、いくらか現状の「国文学」と距離を保っていることぐらいであろうか。そう言えば、S氏から、6月ぐらいに初めて古代文学会についての情報が入ってきたけれど、「違う」ということ、それだけが強く印象として残っている。準備会にも行ってみた。当日、疲れと予習なしの状態で参加したので、ほとんど何も掴めず、後にわけのわからぬ感想文を出すはめになった。結局のところ、古代文学会と関われば関わるほど、相手が何者だかわからないという不思議な自己嫌悪に陥ってしまう。それは、いくら話しても事の本質の伝わらない同僚、だけどとても憎める相手じゃない、いや実は単純な近親憎悪に似ている、近くて遠い曖昧な感覚、それぞれの比喩が収まったかと思えば、ズレていく。だけど、私は提案したいと思う。今後とも二つの団体は関わり続けるべきであるということ。近くて遠いという欲求不満を解消したい欲求だけはある。そこに残るのが悲惨な闘争と決別だとしても・・・。ところで、物研の20代、30代は当日どこに消えたのだろう。古代の若者は多数いたのだが。無理に、参加しろというのはとても野暮な話。だけど、ちょっぴり寂しい気もしたのである。みんなどうしたのだろうか。ともあれ、学問の状況は絶え間なく進行していく。そして、いろいろな人に会ってみたいと思う。シンポジウムはその絶好の機会だった。だから、とりあえず今は、古代文学会の人々との熱い再会を待ち焦がれているのである。

 

「同時代言説の海」へ漕ぎ出すことの難しさ            松田 浩

 

 既存のジャンルを越えること、そして更にそこから新たなジャンルを生成してゆくこと、その難しさをあらためて感じさせられたのは、パネラーに対して向けられた三谷氏の質問であった。しかし、難しいというだけで終わるのでは、このシンポジウムが目指そうとしたことを今後どう進展させるのか、どういう可能性があるのかについて言及できない。求められるのは、如何にこれに答え、この先を見いだせるかということであろう。

 西本香子氏の提出された問題は、『うつほ物語』という〈物語〉の冒頭部分を、歴史を語る言説としての〈史書〉の王と内親王の婚姻を手がかりとしながら、これとすりあわせ、『うつほ物語』の俊蔭から書き起こす冒頭部分が、物語前史としての王朝混乱期を予想させるものではなかったか、との指摘であったと理解している。そしてそれは、『うつほ物語』を新たに〈理想的な王朝─聖代─を目指す言説〉という枠組の諸言説の中で捉えようという作業でもあった。

 対する三谷氏の質問は、物語に歴史的事実を持ち込むことが、これまでの実証と何が異なるのか、というものであった。

それに対する答えが、確かに、実証的な部分もあったかも知れないとの譲歩があった点である。しかし、西本氏がなそうとした問題提起は、今までの実証として道具であった「歴史」をそれが内包する〈物語〉性の中でとらえ、いはば、事実としての歴史ではなく、書かれたものとしての〈歴史〉と見、これらを同じ海の中で捉えようとする試みであったはずである。であれば、この質問に正面から答え、実証を如何に乗り越えようとしているのかを、パネラーもコメンテーターも、そしてこの趣旨に賛同しようとする参加者も語るべきであった。そうしてこそ、このシンポジウムの可能性が見えて来るはずではなかろうか。

 思えば問題を提起する側にも、〈歴史〉を歴史的事実を事実ではなく史書の言説としての〈歴史〉と見なすことに関して、最後の一線で聊かの躊躇があったのかもしれない。というのは、西本氏が〈歴史〉における王と内親王の婚姻の記事の例の中から、長屋王の例を除外したことに見える。その理由は長屋王は親王扱いであったことによるという。しかし、この理由の付け方は歴史的な事実からの言及に他ならない。史書において「長屋王」と記されることと、歴史歴事実の上で「長屋親王」と称されたこととは位相を異にする。続日本紀には「長屋王」と一貫して記されているのであって、「長屋親王」との表記はない、それこそが重要なはずである。そういう意味では、歴史的事実を語る前に、言説の上にある長屋王を如何に捉えるかが問われるべきである。例から除外せずに語ることはできなかったのか、との思いが残った。

 いはば、三谷氏の質問は、パネラーに対し、既存のジャンル意識というものを正面から突きつけ、それをどう乗り越えようとしているのかを問うたものであったと思う。これにどう答えるのかということこそがこのシンポジウムの主眼であったはずである。それでこそ、同時代言説の海への第一歩となるのであろう。その意味で、西本氏が『うつほ物語』の物語前史としての王朝混乱期を想定した方法、歴史を単なる実証と捉えることを越えて、言説としての〈歴史〉と〈物語〉との結節点を見出そうとする試みは、もっとこの質問に積極的に答えることができるものであったと思われるのである。

 また、田中俊江氏に対する三谷氏の質問もまた「解文」としての風土記という問題を投げかけたものであった。しかし、田中氏が問題としようとした音声と記述の問題─河内里の名を昔は古々(ここ)と記し、注によって猿の声を俗人が古々というと記し、さらに本文に戻って、河内里であって川の源でもないこの里について、「久慈河の濫觴は猿声(ここ)より出づ」としてしまうあり方─は、単に土地のことを記しそれを献上することで済むはずの風土記の性質を抜け出た、あるいは不要の部分であったはずである。音声・漢語・俗語・和語といったものが複雑に絡み合って生成された音声の世界は、風土記本来の目的を越えて、文字と音声とその解釈を表記者がどう捉えるかというあらたな表現世界の枠組みを用意しうるものであるかもしれない。書かなくてもよいものを書いてしまう、そこに風土記本来のあり方を越えた面白さを見出そうとした発表だったと、私自身は理解している。然るに、この記事を常陸国風土記の総記に見える常世思想へと還元してしまうような解釈を盛り込んでしまったところに、今回の試みの不徹底さがあったのではなかろうか。記した者の「猿声」への拘りが、従来の地名起源の記し方を越えてしまう、あるいはそこからズレを生じてしまうことを主眼としての発表であったものが、いつの間にか、総記を機軸とした常陸国風土記を透徹する記録者の意識へと位置づけられてしまっているように聞こえてしまったのである。一つのテキストの求めようとする方向から外れてしまうような意識、それが音声を如何に文字化するという点で現れているということこそジャンルを離れて、さらに他のジャンルの中に現れる「音声を文字化するというあり方」との間に新たなジャンルを生成しうるのではないか、ということが問題の中心となったはずなのではないだろうか。

 二つの発表に対して向けられた三谷氏の質問、これに対し、いかに自らがそのジャンルを抜け出ようとしているのか、あるいは抜け出ているのか、それを如何に語りうるか。また、今後このような問題意識を如何に進展しうるか。そこに今回のシンポジウムの真価が問われるものだと感じた次第である。

 

シンポジウムは終わったけれど         三品 泰子

 

 一昨年、古代文学会の現場論セミナーが終わって以来、一つのテーマをみんなで考えていくというスタイルの研究会が他になかったので、この一年間、月一回の古代・物語研究会合同の準備会には、貴重な機会だと思って、委員の方々の間に混ぜて頂いていた。

 私にとって面白かったのは、テーマに関係ありそうな本を探してきて、みんなでその本を読んで議論したことである。著者ご本人が飛び入り参加して下さるという、楽しいハプニングも何回かあった。二つの学会が出会うという、境界的な研究会だったからこそ、文学とは異なる研究領域の方も、飛び入り参加してみようという、ひょんな気まぐれを起こされたのだろう。

 ジャンルの壁を取り払って、みんな同じ「言説」だという、等価の地平で見渡してみるというコンセプトは、『宇津保物語』と、楽譜の序文・奥書といった文学テキストとは言えないような素材とを、同じ土俵の上に並べてみた、猪股さんの発表で、明快にあらわれていたと思う。物語と楽譜の序文・奥書とを並べてみることで、序文・奥書という一種の記録文みたいなものが、漢文の典拠や比喩的表現と相まって、物語を展開しているように読めてきて、とても新鮮な感じがした。

 たぶん、安易に「物語性」「物語みたい」と言ってしまうのは、とても危険なことなのだろう。例えば、天皇であることの正当性を主張するのにも物語性が介在する、などと言うときの「物語性」とは、比喩的な使い方である。「物語性」という言葉が比喩的に使われるのは、確かに危険だと思う。けれど、具体的に物語の力が求められている場合もある。孝謙天皇の漢文の詔勅には、仏典の持っている物語の力を活用しているものがある。また阿部泰郎さんや山本ひろ子さんの論文を読むと、仏教の教義が師から弟子に伝授される時、ただ抽象的な思弁で説かれるだけではなく、慈童説話とか竜女説話などの物語によって、教えの精髄部に弟子をいっきに引っぱり込む様子が論じられている。ある思想が語られる時、どうして物語の力が求められるのだろうか。そんなとりとめもないことを、テーマの傍らで、ふと考えてしまった。

 ところで、サブテーマ「同時代言説」の「言説」というタームは、様々な研究領域でそれぞれ固有の意味を持たされている、厄介な言葉だそうだ。私は、新川登亀男さんの本を通して考えているので、「言説」としての歴史とか、関係性のなかで作り出される「言説」、という文脈の中で、この問題をイメージしている。と言って、べつに新川さんは「言説」というタームを実際に使って論じているわけではないのだが、新川さんの本を読んでいると、「言説」というタームが、私の頭の中で生き生きと動きだすのだ。今、堀越孝一さんの『中世の精神』という、ホイジンガ関係の論文集を読んでいるところ。この本の中でも、特に意識して「言説」というタームが使われているわけではないのだが、「精神のくせ」を炙り出す手つきに、「言説」としての歴史というものを、強く感じさせられる。

 先月で合同シンポジウムは終わったが、歩みののろい私は、今回のテーマに向けて、まだまだ勉強中である。

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