相坂・合坂などとも書く。山城・近江国境の峠道。畿内の北限とされ、関が設けられていた。ここを越えれば東国であった。「逢ふ」という語を含みながら、人との間を隔てる関であるというパラドックスが王朝人に好まれ、さかんに歌に詠まれた。
現在も幹線道路や鉄道が狭隘な谷間を並行して走る、交通の要衝である。
これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも相坂の関(蝉丸「後撰集」)
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ(清少納言「後拾遺集」)
現在の逢坂の関趾付近 |
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(紀貫之「拾遺集」)
逢坂の関の岩かどふみならし山たちいづる桐原の駒(藤原高遠「拾遺集」)
蝉丸神社 |
鴬の鳴けどもいまだ降る雪に杉の葉白き逢坂の山(後鳥羽院)
逢坂や梢の花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら(宮内卿「新古今集」)
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