中山忠定 なかやまたださだ 文治四〜康元元(1188-1256)

摂政師実の末。大納言兼宗の子。母は六条重家女。子には基雅ほか。孫の家親も勅撰歌人。
中宮権大夫・左中将などを経て、参議に至る。最終官位は正二位。康元元年十月に出家し、同月十八日に薨じた。
元久元年(1204)の春日社歌合に参加したのをはじめ、建保二年(1214)の「月卿雲客妬歌合」、同三年の名所百首、同五年(1217)の冬題歌合、承久元年(1219)の内裏百番歌合など、順徳天皇の内裏歌壇で活躍。のち、後嵯峨院歌壇でも、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)九月の影供歌合などに詠進した。建長八年には基家主催の百首歌合に出詠。新古今集初出。『続歌仙落書』で歌仙に選ばれている。

百首歌たてまつりけるに、暮春を

ながめこし山のすゑ野の夕霞その色となく惜しき春かな(続古今169)

【通釈】毎日のように眺めてきた、山の野末に立ちこめる夕霞――ぼんやりと、何とはなしに別れが惜しく思われる春であるよ。

【補記】宝治二年(1248)、後嵯峨院が続後撰集の撰歌資料とするために召した宝治百首。

水辺草

滝川や落ちてみだるる玉笹の葉わけすずしき水の色かな(内裏百番歌合)

【通釈】川の激流が落ちて、乱れる笹の葉――その葉を分けて飛び散る水の涼しげな色よ。

【補記】滝川のほとりに美しい笹の群落がある。落ち来る水しぶきは、時に葉叢を乱し、葉と葉の間を押し分けるように飛び散る。――そんな景趣に一抹の涼感を狙った歌。細かい観察をしているように見えるが、写実ではなく、想像によって凝った趣向を創出している。それが当時の歌の詠み方であった。承久元年(1219)、順徳天皇主催の歌合に出された作。『続歌仙落書』に作者の秀歌例として挙げられている。但し同書では初句「玉川や」、結句「水のおもかな」とする。

宝治百首歌たてまつりける時、落葉

枯れはつる落葉がうへの夕時雨そめし名残の色やわすれぬ(玉葉863)

【通釈】夕方、枯れ果てた落葉の上に降る時雨よ――みずから赤く染めた色がわずかに残っている、そのなごりの色を、おまえは今も忘れていないのか。

【語釈】◇そめし名残の色 木の葉はたびたび時雨に濡れることによって鮮やかに色づくものと考えられた。「名残の色」は、枯れ果てた落葉にわずかに残っている色。


公開日:平成14年07月25日