藤原彰子 ふじわらのしょうし 永延二〜承保一(988-1074) 号:上東門院

藤原道長の娘。母は源雅信女、倫子。頼通の同母姉、頼宗長家の異母姉。
長保元年(999)、一条天皇に入内し、翌年中宮となる。彰子のもとには紫式部赤染衛門伊勢大輔和泉式部らが出仕した。寛弘五年(1008)、敦成親王(のちの後一条天皇)を、同六年に敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産。寛弘八年六月、一条天皇は譲位して間もなく崩御。万寿三年(1026)出家し、院号を賜わり、法名清浄覚を号す。長元五年(1032)、兄頼通の後見で菊合を催行した。承保元年(1074)十月三日、八十七歳で崩御。
後拾遺集初出。勅撰入集二十八首(金葉集は二度本で勘定)。『新時代不同歌合』歌仙。

一条院かくれ給ひにければ、その御事をのみ恋ひ歎き給ひて、夢にほのかに見え給ひければ

逢ふことも今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき(新古811)

【通釈】逢うことも今は現実にはあり得ず、泣き寝入りして見る夢で逢えるばかり――そんな夢ではなしに、いつかあなたに再会できるのでしょうか。

【補記】寛弘八年(1011)、夫の一条天皇が崩じ、夢にほのかに見えたので詠んだという歌。「なきね」は「無き」「泣き寝」の掛詞。一条天皇は寛弘八年(1011)六月二十二日崩御。

【他出】栄花物語、無名草子、定家八代抄、新時代不同歌合

【参考歌】中務「拾遺集」
忘られてしばしまどろむ程もがないつかは君を夢ならで見む

一条院うせ給ひてのち、なでしこの花の侍りけるを、後一条院幼くおはしまして、なに心もしらでとらせ給ひけれは、おぼしいづることやありけむ

見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子の花(後拾遺569)

【通釈】見るにつけ涙の露がこぼれるよ。あとに残されたことを理解もできずに、撫子の花を手に取った幼な子よ。

撫子の花 深大寺植物園撫子の花 東京都調布市 神代植物公園にて

【語釈】◇撫子(なでしこ) 花の名に「撫でし子」、すなわち撫育した愛児の意を掛ける。◇露 涙を暗喩。◇おくれにし心もしらぬ 親と生き別れたことを理解していない、ということ。

【補記】一条天皇崩後、幼い敦成親王(彰子が一条帝との間にもうけた子)が父に先立たれたことも知らずに撫子の花を手に取ったのを見て、思い出すことがあったものか、彰子が詠んだという歌。

【他出】栄花物語、今昔物語、今鏡、宝物集

【参考歌】恵子女王「新古今集」
よそへつつ見れど露だになぐさまずいかにかすべき撫子の花

上東門院にまゐりて侍りけるに、一条院御事など思し出でたる御気色なりけるあしたにたてまつりける   赤染衛門

つねよりもまた濡れそひし袂かな昔をかけておちし涙に

【通釈】常にもまして濡れまさった袂ですことよ。ご存命中の昔に思いをかけて溢れ落ちました涙に。

【語釈】◇昔をかけて 昔(一条院御在世の頃)を心にかけて。

御返事

うつつとも思ひわかれで過ぐるまに見しよの夢をなに語りけむ(千載567)

【通釈】昨夜あなたと夢うつつに昔話をして過ごす間に、見た夜の夢をどう語ったのだろう。

【補記】彰子のもとに参上し、亡き一条帝の思い出話に耽った赤染衛門から贈られた歌への返歌。

世をのがれて後、四月一日、上東門院太皇太后宮と申しける時、衣がへの御装束奉るとて   法成寺入道前摂政太政大臣

からころも花の袂にぬぎかへよ我こそ春の色はたちつれ

【通釈】私が贈った夏の美しい衣裳に着替えなさいよ。私の方といえば、花やかな春の色の服を着るのは、もうやめてしまったけれど。

【語釈】◇からころも 唐衣。美しい衣裳。ここでは「花の袂」の枕詞として用いる。◇たちつれ 絶ってしまった。「たち」には「裁ち」の意が掛かり、「衣」「袂」と縁語の関係を結ぶ。

御返し

唐衣たちかはりぬる春の夜にいかでか花の色を見るべき(新古1484)

【通釈】春の衣を脱ぎ替えた三月晦日の夜に、どうして私が花やかな色の服を着ることなどできましょうか。

【語釈】◇たちかはりぬる 父道長が法衣に着替えた夜、の意を掛ける。「たち(裁ち)」は衣の縁語。

【補記】寛仁三年(1019)、父道長が落飾した直後の贈答。

【他出】定家八代抄、世継物語

小式部内侍、露おきたる萩おりたる唐きぬを着て侍りけるを、身まかりてのち、上東門院よりたづねさせ給ひける、奉るとて   和泉式部

置くと見し露もありけりはかなくて消えにし人をなににたとへむ

【通釈】萩の花の上に、やがて消えてしまいそうに置いていると見た露もまだ残っていました。露よりもはかなく消えてしまった人を、何に喩えたらよいのでしょう。

御返し

思ひきやはかなく置きし袖の上の露をかたみにかけむものとは(新古776)

【通釈】思いもしませんでした。はなかく置いた、唐衣の袖の上の露をあの人の形見として、お互いに涙をそそぎかけようとは。

【語釈】◇小式部内侍 和泉式部の娘。万寿二年(1025)十一月頃死去。◇袖のうへの露 小式部内侍の形見の唐衣に織られた模様。袖にそそぐ涙の意を掛ける。◇かたみ 「形見」「互いに」の両義を掛ける。

【補記】小式部内侍の着ていた、露の置いた萩の模様を縫った唐衣を、形見として彰子が和泉式部に尋ね、届けさせた。その際の贈答。

【他出】定家八代抄、新時代不同歌合

【主な派生歌】
草ふかみさしもあれたる宿なるを露をかたみに尋ねこしかな(源実朝)
浅茅生の露をかたみにのこしおきてよそにわかるる夕立の雲(飛鳥井雅有)

上東門院、出家の後、こがねの装束したる沈(ぢん)の数珠、銀(しろがね)の筥(はこ)に入れて、梅の枝につけて奉られける   枇杷皇太后宮

かはるらむ衣の色を思ひやる涙やうらの玉にまがはむ

【通釈】出家されて墨染にお変わりになるあなたの衣の色を思い遣り、私は涙をこぼします――その滴は、お贈りする数珠と入り乱れて、区別がおつきにならないでしょうか。

【語釈】◇枇杷皇太后宮 上東門院の妹、妍子。三条天皇の皇后。◇かはるらむ衣の色 出家して墨染に変わるだろう、あなたの衣の色。◇うらの玉 法華経の衣裏宝珠(日常にまぎれて気づかない、悟りを得る機縁の喩え)の故事に拠る。◇玉にまがはむ (私の涙が)贈る数珠と入り乱れて、区別がつかないだろうか。「衣裏宝珠と見間違うか」の意を含む。

返し

まがふらむ衣の玉にみだれつつなほまださめぬ心ちこそすれ(新古1715)

【通釈】宝珠と見まがうばかりの、衣の上に落ちる涙の玉に心乱れながら、やはりまだ迷いの夢から醒めない気持がします。

【補記】出家した彰子のもとへ、妹の妍子から沈香の数珠を贈って来た、その際の贈答。

【他出】栄花物語、定家八代抄

後一条院かくれさせ給うての年、時鳥の鳴きけるに詠ませ給うける

一こゑも君につげなむ時鳥この五月雨は闇にまどふと(千載555)

【通釈】一声だけでも、亡き我が君に告げてほしい。ほととぎすよ、私はこの五月雨(さみだれ)の夜、「子を思う闇」に惑っていると。

【補記】子の後一条天皇が崩御した長元九年(1036)の歌。時鳥は死出の山を越えると信じられたので、亡き子に言伝を頼んだのである。

【他出】大鏡、定家八代抄

【本歌】藤原兼輔「後撰集」
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな


更新日:平成17年03月21日
最終更新日:平成21年02月13日