藤原長家 ふじわらのながいえ 寛弘二〜康平七(1005-1064)

関白道長の六男。母は源高明の娘高松殿明子(養父は盛明親王)。源雅信の娘倫子の養子となる。頼通頼宗彰子の弟。道家・忠家・祐家の父。御子左家の祖で、俊忠の祖父、俊成の曾祖父にあたる。
寛仁元年(1017)、元服し従五位上に叙される。侍従・右少将・右中将などを経て、治安二年(1022)、従三位。同三年、正三位権中納言。同四年、正二位。長元元年(1028)、権大納言。寛徳元年(1044)、民部卿を兼ねる。康平七年(1064)十月、病により出家し、同年十一月九日薨ず。六十歳。
長元八年(1035)、「関白左大臣頼通歌合」に出詠。自邸で歌合を主催するなど、歌壇の庇護者的存在であった。家集があったらしいが現存しない。後拾遺集初出。勅撰入集四十四首。

祐子内親王家にて、人々、花の歌よみ侍りけるに

花の色にあまぎる霞たちまよひ空さへにほふ山桜かな(新古103)

【通釈】ぼうっと花の色にけぶる霞があたり一面に漂い、空までも美しい色に映えて見える山桜であるよ。

【語釈】◇あまぎる 雲・霧・霞などが空一面を曇らせる。

【補記】永承五年(1050)六月、祐子内親王(後朱雀天皇第三皇女)主催の歌合。題は《桜》。『定家八代抄』に採られている。

【主な派生歌】
花ざかり春の山べをみわたせば空さへにほふ心ちこそすれ(藤原師通[千載集])
梅の花梢をなべて吹く風に空さへにほふ春の曙(藤原定家)

祐子内親王家歌合の後、鹿の歌よみ侍りけるに

すぎてゆく秋のかたみにさを鹿のおのがなく音もをしくやあるらむ(新古452)

【通釈】秋も過ぎ去ろうとしている――この頃はめっきり鹿の音も聞かれなくなったが、秋との別れに贈る形見の品にしようと、男鹿が自分の鳴き声を惜しんでいるのだろうか。

【語釈】◇かたみ 形見。思い出のよすがとなるもの。この場合、鹿が自分の鳴き声を秋に形見の品として贈る、ということ。

斉信民部卿のむすめに住みわたり侍りけるに、かの(をんな)みまかりにければ、法住寺といふ所に籠り居て侍りけるに、月を見て

もろともにながめし人も我もなき宿には月やひとりすむらん(後拾遺855)

【通釈】あの家には、一緒に月を眺めた人もいなくなり、私ももう通い住むことはなくなって――今やただ月が独り澄んだ光を留めているのだろうか。

【語釈】◇斉信民部卿のむすめ 権大納言兼民部卿藤原斉信(967-1035)の娘。長家の妻。死産ののち万寿二年(1025)八月二十九日、没。◇法住寺 京都市東山区、三十三間堂付近にあった大寺。斉信女が葬られた寺。◇すむらん 「住む」「澄む」を掛ける。

上東門院に花橘たてまつるとて

はぐくみし昔の袖の恋しさに花橘の香をしたひつつ(続後撰1050)

【通釈】今は亡き、慈しんでくれたあの人の袖が恋しくて、橘の花の香りを嗅いでは懐かしんでいます。

【語釈】◇上東門院 藤原彰子。作者の姉。◇はぐくみし昔の袖 自分たちを愛しみ育ててくれた昔の人の袖。「昔の人」は作者と彰子の母源倫子(長家にとっては養母、彰子にとっては実母)、または乳母などであろう。

【補記】上東門院の返歌は「橘のにほひばかりもかよひこば今も昔のかげは見てまし」。


更新日:平成17年04月26日
最終更新日:平成22年06月24日