額田王 ぬかたのおおきみ 生没年未詳

日本書紀には「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」とある。父は鏡王。天武天皇の妃となり、十市皇女を生む。鏡姫王(鎌足の嫡室)の妹かともいう。
斉明四年(658)十月、斉明天皇の紀温湯行幸に従駕し、歌を詠む(万葉集巻1-9)。斉明七年(661)、天皇の新羅征討の際、熟田津の石湯行宮で歌を詠む(巻1-8)。但しこれは左注所引の『類聚歌林』によれば、斉明天皇の作。天智六年(667)三月、近江大津宮遷都の際、「額田王、近江国に下る時の歌」(巻1-17・18)。これも『類聚歌林』は天智天皇(正式には当時まだ皇太子)の作とする。天智七年(668)五月、蒲生野遊猟に従駕し、大海人皇子と歌を贈答(巻1-20、大海人皇子の答歌1-21)。天智十年(671)の天智天皇崩御の後、大殯(おおあらき)の時に歌を詠む(巻2-151)。持統年間(持統七年=693年五月か)、吉野行幸の際、弓削皇子より歌を贈られ、これに和す(巻2-112)。
万葉集に長歌三首、短歌九首の計十二首を残す(重複する巻四の488番と巻八の1606番は一首と数える)。以下にその全首を掲げる。

皇極天皇代 額田王の歌 未詳

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処(みやこ)仮廬(かりほ)し思ほゆ(万1-7)

【通釈】秋の野に生える草を刈り、それで屋根を葺(ふ)いてお泊りになった、宇治の仮のお宿。あの宮どころが偲ばれます。

【語釈】◇未詳 作者について不審があり、未詳ということであろう。◇み草 原文は「美草」。元暦校本などは「をばな」と訓む。ススキや萱などの類。◇宇治の宮処 宇治は京都府宇治市。宮処は、宮のある土地。宮とは天皇・皇后・皇子などのお住みになる建物。ここでは草などで臨時に拵えた仮小屋のことを言っている。

【補記】万葉集の左注には山上憶良の『類聚歌林』からの引用があり、大化四年(648)、近江比良宮行幸の時の皇極上皇(斉明天皇)御製とする。

【鑑賞】「一首は、『思ほゆ』で結んだ回想の歌の最古の例である。眼前の景や事柄をとらえることは、視覚を重んずる古代人の得意とするところで、そういう歌は、記紀歌謡以来たくさんある。が、過去の思い出を歌材にして、『思ほゆ』と力強く据えた作は、この歌がはじめてである」(伊藤博『萬葉集釋注』)。

斉明天皇代 額田王の歌

熟田津(にきたつ)(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(万1-8)

【通釈】熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていますと、月が出たばかりでなく、潮も満ちてきて、船出に具合がよくなりました。さあ、今こそ漕ぎ出しましょう。

【語釈】◇熟田津 今の愛媛県松山市和気町・堀江町あたりとする説などがある。いずれにしても道後温泉のそばの港。ニギタヅあるいはニキタヅと濁って訓む本もある。

【補記】左注には憶良の『類聚歌林』からの引用があり、斉明天皇七年(661)正月、伊予国熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊った時の斉明天皇御製とする。百済からの援軍要請に応え、朝鮮半島へ出兵する途次、四国から九州へ向かって船出する際の作である。

【鑑賞】暗い海路に月の光が射し、潮が満ちてくる情景を前に、困難な航路へと旅立ってゆく人々を鼓舞し勇気づける、作者の凜々しい姿を想い浮かべずにはいられない。「あかねさす」の歌と共に、額田王の代表的名作であるばかりでなく、初期万葉のシンボル的な傑作。

【他出】五代集歌枕、袖中抄、歌枕名寄

【主な派生歌】
月影によもの島辺を見渡せば潮もかなひぬ舟出せよ君(藤原基俊)
月待ちて船乗りすべき夕庭のしづけき海に春雨ぞふる(中島広足)

紀温泉(きのゆ)(いでま)せる時、額田王の作る歌

三諸(みもろ)の山見つつゆけ我が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(万1-9)

【通釈】今しばらく、懐かしい三輪の山を眺めつつお行きなさい。いとしいあの人がお立ちになっていた、あの山の麓の、神聖な樫の木のもとを。

【語釈】◇紀温泉 今の和歌山県白浜の湯崎温泉であろうという。斉明天皇は斉明四年(658)十月から翌年一月にかけて行幸した。◇三諸の山 奈良県桜井市の三輪山。神体山で、祭神を大物主神とする大神(おおみわ)神社がある。◇我が背子 兄弟、または夫や恋人など、親密な男性を呼ぶ時に用いられる語。◇い立たせりけむ お立ちになったであろう。「い立たしけむ」と訓む説もある。◇厳樫が本 神々しく厳(いか)めしい樫の木の根もと。

【補記】この歌の上二句は定訓がない。原文は「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」。上の訓みは『萬葉集古義』によった。

【主な派生歌】
白浪の寄する渚に大御輿御立たせりけむ古思ほゆ(大倉鷲夫)
妹が門かへり見すれば赤駒の足掻くを惜しといたたせり見ゆ(和田厳足)

天皇内大臣藤原朝臣(みことのり)して、春山の万花の艶、秋山の千葉の彩を競憐(あらそ)はしめたまふ時、額田王の歌を(もち)(ことは)れるその歌

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を()み ()りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみ)つをば 取りてぞ(しの)ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし(たの)し 秋山(われ)(万1-16)

【通釈】春がやって来ると、鳴かなかった鳥もやって来て鳴き始める。咲かなかった花も咲くけれど、山は木が繁るので、入って行って花を手に取ることもできない。草が深いので、折り取って見ることもできない。ところが秋はどうか。秋山の木の葉を見ては、色づいたのを手に取って賞(め)でる。まだ青い葉はそのままにし、紅葉するのを心待ちにして溜息をつく。そこが楽しい。やはり秋の山が良い、私は。

【語釈】◇冬こもり 春にかかる枕詞。「冬木が繁る」の意とする説などがある。◇そこし怜し 原文は「曽許之恨之」で、「そこしうらめし」と訓む本が多い。その場合、「置きてぞ嘆く」ところが恨めしいが、しかし…といった文脈になる。上の訓は『萬葉集古義』によった。

【補記】天智天皇内大臣藤原朝臣に「春山の花の艶と、秋山の紅葉の色、いずれが良いか競わせよ」と命じた時、額田王が答えとした歌。春の山は入り難くて花を取り見ることができないが、晩秋の山は草木もうら枯れ、たやすく山に入ることができるので、身近に紅葉を賞美できる。その点で秋山を取ると判定した。

【鑑賞】いわゆる「春秋争い」の歌。宴の華やかな情景、一句一句に反応し、喝采を浴びせたに違いない、一座の楽しげな雰囲気が髣髴とされる。「純粋に文学として見た場合、この歌はさほどいい歌、すぐれた作品と言うことはできない。何より観念的で実感に乏しいという欠点に目をおおうわけにはゆかない。しかし、いわばスポーツのように、春秋の優劣を題目として勝敗を争っている、その一座の興奮の中においては、これが十分効果を発揮したことが想像できる」(西村亨『王朝びとの四季』)。

【主な派生歌】
あかず見し千種の花もうつりゆきて紅葉になげく秋の暮かな(荷田蒼生子)
青きをばおきてなげかん陰もなしそむる千入(ちしほ)の岡のもみぢ葉(村田春海)
山見れば雪もけなくになかざりし鳥こそきなけ春来たるらし(本居宣長)
そめざらんものとはなしに秋山の青きをおきてなげくころかな(加納諸平)

額田王、近江の国に下る時に作る歌

味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の()に い隠るまで 道の(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見()けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや (万1-17)

反歌

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(万1-18)

【通釈】[長歌] 三輪の山は、奈良の山々の山間に隠れるまでも、道の曲り目が幾重にも重なるまでも、つくづくとよく見ながら行きたいのに。何度も眺めやりたい山なのに、無情にも、雲が隠すなんてことがあってよいものだろうか。
[反歌] 三輪山を、まあそんなふうに隠すものか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいだろうか。

【語釈】[長歌] ◇味酒 三輪にかかる枕詞。神酒をミワと言ったことから。◇隠さふべしや 何度も繰り返し隠すことがあってよいものか。「隠さふ」は動詞「隠す」に反復継続の接尾語フがついた語。「べしや」は「するべきであろうか」。このヤは雲に対する問いかけであると共に「そんなはずはない」という反語的な気持も含んでいる。

【補記】天智六年(667)の近江大津宮遷都に際し、古京飛鳥を去るに当たっての作。左注には『類聚歌林』からの引用として、「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌」とあり、天智天皇作とする。

【鑑賞】「強い語調は、古の人の山川自然に對する即身的なまでに絶大な親愛の感情に發する。古人はみな山河自然に對し、この感情をもつてゐたのである」(保田與重郎『萬葉集名歌選釋』)。

【主な派生歌】
三輪山をしかもかくすか春霞人に知られぬ花や咲くらむ(*紀貫之[古今])
春日山峰にも尾にも声はしてしかもかくすか秋の夕霧(澄覚法親王)
三輪山をしかもてらせる月影にかくさふべしや杉たてる門(荷田蒼生子)
そなたぞと見つつしのばん山の端をしかもかくすかあま雲の空(鵜殿余野子)

天皇蒲生野(かまふの)遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る(万1-20)

【通釈】紫草の生える野を、狩場の標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって――野の番人が見るではございませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを。

紫草 京都府立植物園にて

【語釈】◇蒲生野 近江八幡市東部・蒲生郡安土町・八日市市西部にわたる野。天智天皇の蒲生野行幸は天智七年(668)五月五日。大海人皇子・中臣鎌足ほか諸王群臣すべてを率いて薬狩りが催された。◇あかねさす 「紫」の枕詞。「紫もあかき気のにほふなればつづけたり」(賀茂真淵『冠辞考』)。◇紫野 貴重な染料であった紫草を栽培した野。◇標野 一般の者の立ち入りを禁じた野。禁野。標(しめ)とは、占有のしるし。縄を張ったり杭を打ったりした。◇野守 禁野の番人。暗に天智天皇を指すとする説がある。◇袖振る もとは「相手の霊魂をこちらへ招き寄せる呪術」であったが、「この歌などが示している袖に対する感覚は相当に近代的なもので、招魂の意義などはほとんど忘れ去られている」(西村亨『王朝恋詞の研究』)。単なる恋情の意思表示と考えてよいようである。

【補記】大海人皇子の応じた歌は、
 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
この二首が相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる(宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)。そのような見方に立つ一つの読み方として、池田彌三郎『萬葉百歌』から引用すれば、「これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、『にほへる妹』などと、しっぺい返しをしたのである」。

【主な派生歌】
蒲生野の標野の原のをみなへし野守に見すな妹が袖ふる(大江匡房)
いざや君袖ふりはへてすみれ草むらさきのゆきしめの雪みん(藤原家隆)
消えやらぬ紫野ゆき標野ゆきそれかとまがふ春の夕暮(藤原為家)
寝られずや妻を恋ふらん標野ゆき紫野ゆき鹿ぞ鳴くなる(後嵯峨院[続古今])
標野ゆき紫野ゆき秋萩の花にしほるる袖ぞ色こき(宗良親王)
袖ふりし昔もかくや標野ゆき紫の野の春のまどゐは(豊原統秋)
春がすみ真袖にわけてしめの行き紫野ゆき子日するかも(橘千蔭)

額田王、近江天皇(しの)ひて作る歌

君待つと()が恋ひ居れば()が宿の(すだれ)動かし秋の風吹く(万4-488、8-1606)

【通釈】あの方が早くおいでにならないかと、恋しくお待ちしていると、我が家の簾がそよそよと動き――あの方かと思ったけれど、お姿はなく、秋風が吹くばかり。

【語釈】◇簾動かし 「清風動帷簾」(『玉台新詠』巻二 →資料編)など、中国の六朝詩の影響下にあるとの指摘がある。

【補記】万葉集巻四・八いずれも、次いで鏡王女の歌を載せる。「風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ」。

【主な派生歌】
夕涼みあだ寝の床の明け方にすだれうごかし秋は来にけり(殷富門院大輔)
たそかれに物思ひをれば我が宿の荻の葉そよぎ秋風ぞ吹く(*源実朝[玉葉])
軒は荒れて簾うごかし吹く風に閨のおくまで月ぞいざよふ(後崇光院)

天智天皇の大殯(おおあらき)の時の歌

かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)()てし泊に標結(しめゆ)はましを(万2-151)

【通釈】こんなことになると、以前から知っていましたなら、陛下が船遊びをなされたあの時、お船が停泊した港に、標縄を張り巡らしておきましたものを。

【語釈】◇大殯 殯(あらき)の尊敬語。埋葬までの間、天皇の遺体を柩におさめて安置しておくこと。◇標結はましを 標縄を張ることで、大君の魂をそこに留めておけばよかった、ということか。または、悪霊などの侵入をふせぐことを言うか。

【補記】歌の脚注として作者名「額田王」が記されている。

山科(やましな)御陵(みはか)より退(まか)(あら)くる時に、額田王の作る歌

やすみしし 我ご大君の (かしこ)きや 御陵(みはか)(つか)ふる 山科(やましな)の (かがみ)の山に (よる)はも ()のことごと  (ひる)はも ()のことごと ()のみを 泣きつつありてや  百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)は 行き別れなむ (万2-155)

【通釈】我らが大君の、畏れ多い御陵にお仕え申し上げる、山科の鏡山で、夜は夜通し、昼はひねもす、声をあげて泣いてばかり――こんなままで、宮廷にお仕えする人はみな、散り散りに別れてゆくのだろうか。

【語釈】◇やすみしし 「我ご大君」に掛かる枕詞。「平らかにお治めになる」の意であろうという。◇鏡の山 京都府山科区の天智天皇御陵のある山。

【補記】天智天皇臨終の際の歌では倭姫王にすぐれた挽歌がある。

吉野の宮に(いでま)せる時、弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首

(いにしへ)に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)御井(みゐ)の上より鳴き渡りゆく

額田王の(こた)へ奉る歌一首 倭京より進入(たてまつ)る

古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし我が思へるごと(万2-112)

【通釈】遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。もしかすると、鳴いたかもしれませんね。私がこうして昔を偲んでおりますように。

【語釈】◇吉野の宮に幸せる時 持統天皇の吉野行幸。持統四年(690)から同八年頃。当時、弓削皇子は二十代、額田王はすでに六十代の老齢であった。◇倭京 飛鳥京。◇霍公鳥 過去を偲んで悲しげに鳴く鳥と考えられた。一度帝位を退いたのち復位を望んだ蜀の望帝が、その志を果たせず、死してほととぎすと化し往時を偲んで昼夜分かたず鳴いた、との中国の故事に由ると言う。

【校異】結句、西本願寺本などは原文「吾戀流碁騰」とあり、「あがこふるごと」と訓む説もあるが、ここでは金沢本・元暦校本などに従った。

【補記】「古に恋ふる鳥かも」(昔を懐かしがる鳥なのでしょうね)と暗に額田王を鳥に喩えて詠んだ弓削皇子の歌に対し、中国の故事を踏まえて婉曲に「その通りです」と答えた歌。

【主な派生歌】
古に恋ふらむ鳥の声待ちて花橘は花咲きにけり(加納諸平)

吉野より(こけ)()せる松が()折取()りて(おく)りたまへる時、額田王の奉入(たてまつ)る歌一首

み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通はく(万2-113)

【通釈】[詞書] 弓削皇子が吉野から苔のむした松の枝を贈って来た時、献上した歌。
[歌] 吉野の美しい松の枝は、なんて慕わしく思えるのでしょう。あなたのお言葉を持って飛鳥の都まで通って来るとは。

【語釈】◇玉松が枝 この「玉」は、「魂(たま)」と同根で、霊力を持つものであることを示す。常緑・長寿の樹である松は、生命を守る精霊の憑代(よりしろ)と考えられた。弓削皇子は額田王の長寿を願って松の枝を贈ったのである。

【主な派生歌】
鶯も言の葉そへてみ吉野の玉松が枝のはしき春かな(千種有功)


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更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年09月24日