有間皇子
ありまのみこ
- 生没年 640(舒明12)〜658(斉明4)
- 系譜など 孝徳天皇の皇子。母は阿倍倉梯麻呂の女、小足媛。日本書紀を見る限り、兄弟姉妹があった形跡はない。
- 略伝 645(大化1)年、6歳のとき父が即位(孝徳天皇)。649(大化5)年3月、外祖父である左大臣阿倍倉梯麻呂が薨じ、有力な後ろ盾を失う。父帝が654(白雉5)年10月難波宮で崩御したとき、15歳。当時の皇太子は中大兄皇子であったが、孝徳の同母姉宝皇女(もと舒明天皇の皇后で中大兄らの母)が飛鳥板蓋宮に再祚した(斉明天皇)。657(斉明3)年9月、精神病を装い、療養と称して牟婁の湯(和歌山県白浜の湯崎温泉という)に行き、帰ってその土地を讃め病の完治を報告した。天皇はこれを聞いて喜び、紀伊国への行幸を欲した。翌658(斉明4)年10月、天皇は紀の湯(牟漏の湯と同地か)に行幸し、有間皇子は留守官蘇我赤兄らと共に飛鳥に留まった。11月3日、赤兄は皇子に天皇の失政を指摘し、皇子は赤兄の態度に喜んで「吾が年(19歳)始めて兵を用いるべき時なり」と言ったという。5日、皇子は赤兄の家に行き、樓閣に登って謀議したが、その時夾膝(おしまき。脇息のことかという)が自然に折れ、これを不吉な前兆として謀反の中止を誓い合った。皇子は市経(いちぶ。奈良県生駒郡生駒町)の自宅に帰ったが、夜半になって赤兄は人夫を率い、皇子の家を囲ませ、駅使を天皇のもとに派遣した。9日、皇子は守君大石・坂合部連薬らと共に捉えられ、紀の湯に連行された。皇太子中大兄は皇子に対し謀反をはかった理由を訊問し、皇子は「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず」と答えた。11日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられた。
書紀には異説として次のような記事を伝える。(1)皇子は赤兄・大石・薬らと短籍を取って謀反を占った。(2)皇子は「宮室を焼き、牟婁津を兵で囲み、船軍で淡路国を遮って包囲すれば、謀反は容易く成功するだろう」と言い、「或る人」はこれを諌めて「計画はよくとも、徳がない。皇子はまだ19歳で成人にも至らない。成人に至って徳を得るべきだ」と言った。他日、皇子は或る判事と謀反を図ったが、案机の脚が故無くして折れた。皇子はそれでも謀をやめず、遂に誅戮された。
万葉は巻二挽歌の冒頭に有間皇子の歌を据えている。
有間皇子、自ら傷みて松が枝を結べる歌二首
磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(02/0141)
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(02/0142)
この「結び松」はある種の名所として後世に伝わり、長意吉麻呂の「結び松を見て哀しび咽ぶ歌」(02/0143・0144)、これに追和した山上憶良の歌(02/0145)、701(大宝1)年の紀伊国行幸の際の「結び松を見る歌」(02/0146 柿本人麿歌集中出)などに歌い継がれている。
関連サイト:天皇行幸と有間皇子(白浜温泉の歴史)
有間皇子の墓(熊野古道)
表紙へ