土佐和紙
「いの町紙の博物館」(土佐和紙伝統産業会館)に展示
されている資料と配布資料から学んだことを紹介します。
次の「土佐和紙」の項から、「人間国宝・浜田幸雄(はまださじお)」の項
までの抜粋文の掲載は「いの町紙の博物館」の許諾を受けたものである。
土佐和紙
和紙は、原料に使用される繊維が長く、さらに、手漉き(てすき)による紙の
製法により、極薄に作ることができ、しかも強いことが特徴である。
保存性がよく、千年以上も経た古文書を見ることができる。
楮(こうぞ)を原料とした和紙の繊維は長く、15~20mmもある。
典具帖紙、障子紙、表具用紙、書画用紙などがある。
ちなみに、洋紙に用いられるパルプの繊維は針葉樹を
原料としたものでも2~3mmほどである。
土佐和紙は、山内一豊に献上したことから、
徳川家への御用紙となり、幕府や藩によって独占的に買い上げられ
るようになり、全国に名声を広めた。
明治中頃には紙業王国土佐を誇っていたが、洋紙の普及により、
和紙生産は減少してきた。伝統的工芸品産業の振興に関する法律により、
昭和48(1973)年には土佐典具帖紙、昭和52(1977)年には土佐清帳紙
が国の無形文化財に指定された。
土佐典具帖紙(とさてんぐじょうし)
楮(こうぞ)和紙の一種で、極めて薄いうえ、強くて丈夫な特徴
を持つ。その薄さは「かげろうの羽」と言われるほど、繊維が均一に
絡み合って美しい。伊野町神谷地区が発祥の地。
ルーツは鎌倉・室町時代に美濃国(現在の岐阜県)で漉(す)かれていた
典具帖(天宮上、天狗状、天郡上などともいう)の技術で、明治初期に
吉井源太によって高知県に導入され発達した。以降、土佐典具帖紙は、
タイプライター原紙として大量に輸出されるようになる。
漉き方は、トロロアオイのネリを十分にきかせた流し漉きで、
渋引きの絹紗(けんしゃ)を張った竹簀(たけす)とヒノキ製
漆塗りの桁(けた)を使う。簀桁(すけた)を激しく揺り動かして
すばやく漉き、楮の繊維を薄く絡み合わせるのがポイント。
昭和30年代以降、機械抄(す)きの典具帖紙の普及に押され、手漉き
は激減し技術者も減った。そのため、伝統的な技術はちぎり絵などの
わずかなニーズに支えられながら、今日まで細々と伝承されてきた。
土佐和紙の歴史
中国前漢時代(BC202年-AD24年)の中国で紙が作られた。
610年 日本書記によると高句麗の僧が製紙法を伝える。
673年 一切経の書写を行う。
702年 日本最古の和紙が正倉院に戸籍簿の一部として残っている。
747年 檀紙(こうぞ紙)の名がはじめて記録される。
930年 紀貫之が土佐に着任。官用紙を漉かせる。
これが土佐紙のはじまりという説もあるが、それ以前から漉かれて
いたらしい。
1591年 安芸三郎左衛門家友が土佐七色紙を創製する。
1601年 土佐の御用紙制度がはじまる(成山村)。
1860年 伊野村の吉井源太が大型簀桁(すげた)を考案し、紙の生産量
が飛躍的に増大する。
1880年 神谷村ではじめて土佐典具帖紙・楮紙をすく。
1908年 紙輸送のために伊野・高知堀詰・桟橋間に電車が開通。
1941年 太平洋戦争始まる。紙生産の衰退がはじまる。
1944年 高知県でも風船爆弾用紙が漉かれる。
1945年 太平洋戦争の終結。
1976年 土佐和紙が国の伝統的工芸品に指定される。
1985年 土佐和紙伝統産業会館(いの町紙の博物館)が開設される。
吉井源太(1826~1908)
徳川将軍家への献上紙の御用紙漉方を命じられた家柄の、吉井太平の子
として文政9(1826)年、伊野に生まれる。源太は先見の明があり、
紙の消費が急増する時代に適応した紙の生産技術開発に尽力し、
大量生産体制をつくったり、原料の栽培、謄写版原紙用紙をはじめ
インク止紙、防寒紙、防水紙など品質の開発を行なう。
明治30(1897)年には「日本製紙論」を著し、製紙技術の指導に
全国を精力的に廻り尽力する。現在も「土佐紙業界中興の祖」として
称えられている。
人間国宝・浜田幸雄(はまださじお)
(1931~ )
昭和6(1931)年生まれ、伊野町神谷在住、伝統工芸士。
土佐典具帖紙一筋に製作を続け、昭和47(1972)年
土佐典具帖紙保存会会員になるとともに、第8回キワニス文化賞を受賞。
平成3(1991)年「現代の名工」として労働大臣表彰。平成13(2001)
年7月12日「土佐典具帖紙」の製作技術保持者として人間国宝として認定
される。
(注:「浜」は正式には常用漢字にない字体の「濵」)
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