42.天草・島原・阿蘇・青島

近藤 純正

2005年4月17日から23日にかけて、宮崎県の青島、熊本県の天草と熊本城と 武蔵塚(宮本武蔵の墓所)と阿蘇山、長崎県の島原を訪ねてきた。 この旅行の目的は南九州の宮崎、鹿児島、熊本県内の気象台など観測所の 周辺環境の視察と気象資料を収集することであったが、最初の日(17日) と終わりの日(22日と23日)に余裕ができて観光したものである。

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  	  もくじ
		1.青島の「鬼の洗濯板」
		2.三角から天草へ
		  (1) 三角西港
		  (2) 天草五橋
		  (3) 本渡(ほんど)
		  (4) 鬼池港から口之津港へ
		3.雲仙普賢岳と島原
		    (1) 雲仙普賢岳(平成新山)
		  (2) 島原
		4.熊本城と武蔵塚
		5.阿蘇山
1.青島の「鬼の洗濯板」
4月17日午後1時頃、宮崎空港に到着。宿泊はJR宮崎駅近くに予約してあったの で、まず宮崎駅へ向かった。駅構内の観光案内所で尋ねると、青島とその 南方にある「道の駅・フェニックス」を推薦してくれた。海岸風景が珍しいと 聞き、「そうか、岩が縞状に形造られた鬼の洗濯板のことですね!」と思い 出した。

その案内によれば、JR青島駅で下車し、青島を見学したあと、バスで南方の 掘り切り峠を過ぎて「道の駅・フェニックス」で下車すればよい。バスの回数 は少ないので発車時刻を確かめてから青島と「道の駅」の下方に広がる海岸 風景を楽しんできてください。夕刻までに帰ることができます、と教えて くれた。

列車は宮崎空港近くを通り過ぎて、南へ向かった。車窓から県総合運動 公園内のJリーグキャンプ、プロ野球巨人軍キャンプが見えた。

青島
(左)青島の全景、左右に「鬼の洗濯板」が広がる。 (右)「鬼の洗濯板」の風景1。

青島への橋を渡ると、案内板があり次のように書かれていた。
特別天然記念物「青島亜熱帯性植物群落」は北半球最北の貴重な亜熱帯性 植物群落である。197種あり、その代表植物ビロウの成木は約4,300 本。また天然記念物「青島隆起海床と奇形波蝕痕」について、周辺の岩盤は 新第三紀(約3千万年から百万年前まで)海床に堆積した砂岩と、泥岩の 規則的互層が傾き(走行北30度東、傾斜20度東)海上に露出し、波浪 侵食を受け、堅さの違いにより凹凸を生じた。(宮崎市教育委員会)

青島神社
(左)青島神社。 (右)「鬼の洗濯板」の風景2。

もう一つの説明版には「青島・木花は海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦 (やまさちひこ)の遊び場だった」と書かれていた。そうだ、宮崎は日向の 国・神の国だったのだ、と古い民話を思い出した。

その説明板に書かれた民話の粗筋は次の通り:
兄・海幸彦は海のものをとり、弟・山幸彦は山のものをとり暮らしていたが、 弟・山幸彦は「たまには交代してみたい。どうか道具を貸してほしい」と 兄・海幸彦に頼んで、一日漁師になってみた。
ところがなれないせいで、兄が宝としていた釣り針を魚に取られて無くして しまう。兄が許してくれないので、弟はとうとう自分の剣(けん)をつぶして 針を作って持っていったが、兄はあの針でなくてはだめだという。
途方に暮れて海を見つめていたところへ、塩椎神(しおつちのかみ)がきた ので、弟は訳を話すと、「それなら海の神の宮へ行きなさい」と教えてくれる。 弟・山幸彦は言われるままに訪ねた宮で、海の神の娘・豊玉姫と結ばれて 三年の間、楽しく暮らす。
さて、海の神は青島沖にあったとされ、青島神社は山幸彦と豊玉姫をまつって いる。また、山幸彦が三年の後に帰ってきた時、村人が海に飛び込んで迎えた という故事にちなんで、今でも青島では「裸まいり」という祭りが行われて いる。


バスで青島から南方へ向かう道路は渋滞していた。「いつもこんなに渋滞 するのですか?」と尋ねると、「昨日の土曜日、”道の駅”の建物がオープン したからでしょう」とのことである。堀切峠を過ぎると、眼下に 「鬼の洗濯板」がみごとに広がっていた。

道の駅2
道の駅1
「道の駅・フェニックス」の眼下に広がる「鬼の洗濯板」の風景。



2.三角から天草へ
4月21日の夕方までに気象資料の収集を終えたので、22日は天草へ 行くことにした。天草はキリスト教が伝来してキリシタン文化が繁栄し、 また1637年の天草・島原の乱(百姓一揆)のあったところである。

JR熊本駅構内の観光案内所は午後5時30分に閉鎖されていたので、観光案内 を教わることができなかった。 ホテルで快速バスの時刻表をコピーしてもらい、相談すると、「観光バスで行 くほうがよいですよ」とすすめられ、バス会社に予約乗車券を申し込む ために電話してもらったが、遅かったので通じなかった。

JR三角線で三角アメダスを再度見学したのち、名所・西三角港から快速 バスで天草の本渡(ほんど)へ行く計画とした。

7:26JR熊本駅発―(JR三角線)―8:18三角駅着、 タクシーで三角アメダス見学、三角西港へ
9:16三角西港発―(定期準急バスあまくさ号)―11:10本渡バス センター着
13:30本渡鬼池港発―(フェリー)―14:00塩原半島口之津港着

(2.1)三角西港
三角西港は宮城県の野蒜港(のびるこう)、福井県の三国港と並ぶ明治三大 築港の一つとして、国の殖産振興の政策に基づいて造られたたものである。 延長730mの埠頭は当時のままで残っている全国唯一であるという。 昔は西港が栄えていたが、JR線(元の国鉄)が現在の三角東港の近くに 開通して以後、衰退する。現在は岸壁や水路、歴史的な建物 が当時のままの姿として残されている。1887(明治20)年8月開港 後は、ヨーロッパ風の町並みとともに栄えたという。

参考:「研究の指針」の 「6.気象学夏の学校(2004年)」
および「写真の記録」の「29.貞山掘と野蒜築港跡」
で説明した宮城県野蒜の築港も明治三大築港の一つであった。

三角西港1
三角西港、左の写真中の遠方に見える橋は天草五橋の第一橋「天門橋」

三角西港2
(左)浦島屋、(右)天草行きバス停から見た浦島屋の周辺

三角西港は公園となっている。港から南方向に天草五橋の第一橋「天門橋」 が見える。振り返ると白い西洋式の建物がある。

案内板の説明は次の通り:
『浦島屋』 明治26(1893)年7月22日、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が長崎からの 帰途立ち寄り、「夏の日の夢」と題する紀行文の舞台とした旅館である。 1905年に解体され大連(中国)に運ばれたが、1992年度、設計図をもとに 復元された。

(2.2)天草五橋
定期準急バスに乗車。天草五橋を渡って本渡バスセンターへ向かう。 それぞれの橋を渡り、振り返ると、○番目の橋「○○橋」と書いた名称が 読み取れる。本渡(ほんど)の手前に架けられた「瀬戸大橋」を渡り、 本渡バスセンターで下車した。

天草五橋
車窓から撮影した風景。左から、1.天門橋(遠方中央は三角西港)、 2.大矢野橋、3.中の橋、4.前島橋からの眺め。

11時過ぎに本渡バスセンターで下車。帰途の本渡発熊本行きのバス時刻 を確認すると、12時30分、13時分、・・・がある。

三角~本渡までの途中、5番目の橋に気づかなかったので、バスの 切符売り場で尋ねると、「4番目の前島橋に連続して松島橋があります。 それが5番目の橋です」と教えられた。
そうして私が、「このバスで三角まで引き返し、三角東港からフェリーで 島原に渡り雲仙普賢岳と島原城を回り、島原外港からフェリーで熊本に帰る 予定です」と話すと、バス会社の女性は「三角から島原へ渡るよりは、 この本渡の北端・鬼池港から島原半島南端・口之津港へフェリーで渡り、 そこから JR かバスで島原外港へ行くほうが最短距離です。」と案内して くれたので、今後の行程はこの案内の通りとした。

(2.3)本渡
タクシー乗り場で、2時間で回れる観光コースと乗車運賃の交渉を おこなった。「天草・島原の戦いの激戦地と天草切支丹館の名は知って いますが、その他は知りませんので、運転手さんが推薦できる名所・旧跡 を回ってください。最後には、鬼池港発13時30分のフェリーに間に 合うように・・・・その運賃は?・・・・」。 6千円の料金で交渉成立。

時間があれば、ここ天草下島の西海岸まで行けば海もきれいだし、名所旧跡 も多いのですが・・・・、と紹介されたが、今回はかけあし観光である。

天草の公園
本渡市内の名所。左から、古戦場の祗園橋、殉教公園、天草切支丹館(前庭 の右手に天草四郎の像がある)。

祗園橋たもとの案内板の説明の概要:
この石橋は、1832年に架設されたもので、祗園橋(ぎおんばし)と呼ばれて いる。石造りの桁橋では日本最大、長さ28.6m幅3.3m、45脚の 砂岩の石柱により支えられている。この付近は、1637年11月、天草・塩原の 乱で、天草四郎の率いる宗徒軍と、唐津軍とが激突した場所。両軍の戦死者 により川は血に染まり、死屍は山を築いたと伝えられている。(熊本県)

殉教公園の案内板の説明の概要:
天草四郎の率いるキリシタン宗徒軍と唐津軍が激突し、両軍の犠牲者の霊 をここ城山の「殉教戦千人塚」にまつってある。この供養のため、毎年10月 宗派を越えて天草殉教祭が行われる。
また、天草切支丹館には、天草四郎陣中旗、南蛮文化、かくれ切支丹等 400有余年の天草切支丹資料を展示している。(熊本県)


本渡市立天草切支丹館のパンフレットには、天草キリシタン史の概要 が次のように書かれている。
今から約400年前、天草にはキリシタン文化がひらき、天草島の栄光の時代 を築いた。活字印刷機によるイソップ物語など、天草本12種の刊行。 また、志岐には画学舎が設置され、西洋画法や工芸の会得のため多数の生徒 が修業し、日本初のパイプオルガンを作製演奏したという。
このように香気に満ちたキリシタン文化も、豊臣秀吉の禁教令以来の弾圧や、 関ヶ原の戦いで小西幸長の死により、その庇護を失い、衰退しはじめた。 1637年に起こった天草・塩原の乱は、苛酷な重税と宗教弾圧に対する 島民の反発が、天草四郎の旗のもとに爆発したものである。この一揆軍 3万7千余人は、幕府軍12万余人の前に全滅したが、信者たちはかくれ キリシタンとして信仰を守ってきた。


(2.4)鬼池港から口之津港へ
タクシーに案内されて東向寺、鈴木神社、本渡市立歴史民俗資料館を見学、 島の北端・鬼池港まで送ってもらう。歴史民俗資料館のパンフレットには 2004年4月から入館無料と書かれていた。その前庭には、下浦石工青年会 寄贈の祗園橋1/8模型が設置展示されていた。

祇園橋模型と船上から
左から、本渡市立歴史民俗資料館前に作られた祗園橋の1/8模型、鬼池港の遠望、 口之津港手前の海上からの遠望(赤矢印は平成新山=雲仙普賢岳)

鬼池港から約30分で島原半島南端の口之津港に着いた。空は弱い黄砂で かすんでいたが、10余年前のテレビニュースで見覚えのある雲仙普賢岳が 遠望できた。のちほど、その近くまで行くことになる。

3.雲仙普賢岳と島原
引き続き、忙しい観光である。塩原半島南端の口之津港からバスで塩原外港 に着いたのは、15時を過ぎていた。塩原港ターミナルの案内所で地図をもらい、 夕刻までに普賢岳と塩原城をタクシーで回りたい。どのコースを通ればよい のか、教えてもらう。その予備知識を得て、タクシー乗り場で運転手に、 「17時50分発の熊本港行きフェリーに間に合うように案内して欲しい」と 交渉。タクシー運転手は「8千円で回りましょう。水無川の南方にできた 雲仙岳災害記念館は入館料1,000円ですが、それもご覧になられるがよい ですよ」と勧めてくれる。 私が「そうすると合計9,000円も掛かりますね!」と応答すると、「1,000円 でも見る価値は十分にありますよ!」というので、案内してもらうことに した。

(3.1)雲仙普賢岳(平成新山)
最初に海岸の秩父浦公園へ案内してくれた。そこには小さな島があり、 「この島は約200年前の噴火で溶岩が飛んできてできた?」という。

秩父浦公園
(左)1486mの普賢岳と819mの眉山(まゆやま)の遠望、 (右)秩父浦公園

雲仙岳災害記念館
(左)雲仙岳災害記念館、(右)記念館内で上演される動く大型模型 の芝居「島原大変シアター」の舞台幕。

雲仙岳災害記念館には観光客多数が来ていた。模擬に作った火砕流の道、 火砕流で焼き尽くされたジープの模擬走行シュミレーションなどがある。 平成噴火シアターでは、雲仙普賢岳噴火に伴なう火砕流、土石流を直径 14mのドーム型スクリーンで再現し、映像と連動して床が動き、熱風も 吹き出てきて、かなりリアルに疑似体験できた。観客が高速で前進・後退の できる飛翔体に乗って火砕流や土石流の近くを飛行する感じである。 上映中の観客は握り棒にしっかりつかまるようになっている。 上映時間は7分間だが、これを見てタクシー運転手の言った1,000円の価値 はあると思った。観光地なので、タクシーの運転手は無料の制度となって いるのか、私に付き添って記念館内も案内してくれた。

島原大変シアターでは、1792年の噴火を歌舞伎の手法を取り入れ、人形や 小道具を使って昔話風に表現している。当時の島原は大騒ぎで大変、対岸の 肥後の国には津浪が押し寄せたことから、「島原大変、肥後迷惑」の言い伝え が生まれた。

埋まった家
(左)土石流被災家屋の保存、(右)噴火時に避難するシェルター。

旧大野木場小学校
(左)1991年9月15日の火砕流で焼失した旧大野木場小学校。
(右)1991年6月3日の火砕流と1993年6月23日の火砕流で亡くなった 消防団員、警察官、外国人火山研究者、報道関係者など44柱に哀悼の誠を 奉げるとともに、自然の営みと史実を伝えるための追討碑。

ネイチャーセンターからの眺め
(左)普賢岳(平成新山)の近くに設置された平成新山ネイチャーセンター から眺めた平成新山(平成の噴火によって元の普賢岳が140m高く伸びた という)。
(右)平成新山の頂上付近の望遠写真、数か所から白い水蒸気噴出が見える。

雲仙普賢岳の噴火災害の要約
1990年11月17日:噴火の始まり
1991年5月15日:水無川で初の土石流発生
同年 6月3日:火砕流で死者行方不明者43名
同年 9月15日:火砕流で大野木場小学校焼失
1996年5月20日:溶岩ドームを「平成新山」と命名
1998年4月1日:島原鉄道が4年ぶりに全線開通
2002年7月1日:雲仙岳災害記念館開館
2003年2月5日:平成新山ネイチャーセンター開館

(3.2)島原
平成新山ネイチャーセンターからタクシーは、平成新山と眉山(まゆやま) の間を通る「まゆやまロード」を北に向かってぐるりと回り、島原市街へ 向かう。山のふもとに近づいたころ、「あそこにおいしい湧水があります。 ひしゃくがありますので、飲んでご覧なさい」と勧めてくれる。この日は 乾燥しており、そのうえ、しばらく水分の補給をしていなかったので一口 飲んだ。

塩原は方々で湧水があり、「日本一の水の都」だそうな。市街地でも冷水や 温水が湧き出ていた。

島原城
島原城の2景

湧水と水路
(左)武家屋敷水路、(右)スーパー店の前でおいしい湧水を汲む市民。

市街地には武家屋敷が保存されており、そこには昔ながらの水路が通って いる。また、洗い場や鯉が泳ぐ水路もあった。温水の湧水があり、タクシー の運転手が「あのお湯もおいしいので、もういっぱい飲んできなさい」 と勧められ、また最後の一杯を少なめに飲んだ。



4月23日(土)は天候良好。阿蘇山と熊本城と武蔵塚を回ったのち、 16時30分熊本空港発の飛行機で帰途。

4.熊本城と武蔵塚
JR豊肥線で熊本から阿蘇への途中に武蔵塚駅があった。私は関東の武蔵国 の名前と同じ武蔵があることに不思議に思っていた。宮本武蔵の武蔵のことだ と知り、そうだ、宮本武蔵は晩年、熊本の細川家に召抱えられた、という ことを思い出して納得できた。武蔵塚公園には宮本武蔵の墓があると聞き、 訪ねることにした。

熊本城は50年余の前、私が高校の修学旅行で九州北半分の各地を回った ときに寄ったことがある。当時の熊本城址からは熊本市内を見下ろすように 眺めた思い出がある。この城にも久しぶりに行ってみたくなった。

現在の熊本城は復元され、観光客も多くきていた。市内には高層ビルも建ち、 街は見下ろす感じではなく、当時とはすっかり違っていた。

熊本城
熊本城の2景

清正とおてもやん
(左)熊本城を築いた加藤清正像(行幸橋のたもと)、(右)熊本民謡で うたわれている「おてもやん」像(交通センター脇)。

細川家に召抱えられた宮本武蔵は、死期を迎えるにあたり、参勤交代で殿様 がお通りになる大津街道沿いの高台(現在の武蔵塚公園)に葬ってほしいと 希望したそうである。その死後、遺言にしたがってその高台に埋葬された。

武蔵塚公園
(左)武蔵塚公園入り口、(右)宮本武蔵像。

武蔵の墓
(左)宮本武蔵の墓地入り口、(右)宮本武蔵の墓。

独行道
(左)宮本武蔵が自己の死期数日前に筆を執って書いた21ヶ条の辞世「独行道」。

武蔵塚公園には宮本武蔵による直筆の独行道から鋳型に写し取った書の記念碑 が建てられている。その脇に建てられた案内板によれば、「武蔵は 自己の死期の数日後に迫ったことを覚り、病床にて自ら筆を執りて独行道 と題して辞世、あるいは自戒の心をもって二十一ヶ条を書いた。この碑は その直筆を写し建設したものである」と説明がある。
独行道には次のように書かれている( 左列が原文、右列に現代風に書き直したものを示す)。
	     独 行 道
	1.世々の道をそむく事なし         世々の道をそむく事なし
	1.身にたのしみをたくまず         身にたのしみをたくまず
	1.よろずに依怙の心なし          よろずに依怙(えこ、頼ること)の心なし
	1.身をあさく思世をふかく思ふ        身を浅く思い、世を深く思う
	1.一生の間よくしん思はず         一生の間、欲心思わず
	1.我事において後悔をせず         我、事において後悔せず
	1.善悪に他をねたむ心なし         善悪に他をねたむ心なし
	1.いずれの道にもわかれをかなしまず     いずれの道にも、別れを悲しまず
	1.自他共にうらみかこつ心なし        自他ともにうらみかこつ心なし
	1.れんぽの道思いよる心なし        恋慕の道思いよる心なし
	1.物毎にすきこのむ事なし         物ごとにすきこのむ事なし
	1.私宅においてのぞむ心なし        私宅において望む心なし
	1.身ひとつに美食をこのまず        身一つに美食を好まず
	1.末々代物なる古き道具を所持せず      末々代物なる古き道具を所持せず
	1.わが身にいたり物いみする事なし      わが身に至り、物忌みする事なし
	1.兵具は格別よの道具たしなまず       兵具は格別、よの道具たしなまず
	1.道においては死をいとわず思う       道においては、死をいとわず思う
	1.老身に財宝所領もちゆる心なし       老身に財宝所領もちゆる心なし
	1.仏神は貴し仏神をたのまず         仏神は貴し、仏神をたのまず
	1.身を捨て名利はすてず          身を捨てても名利は捨てず
	1.常に兵法の道をはなれず          常に兵法の道を離れず
   正保2(1645)年5月12日
         新免武蔵
			玄信(花押)
5.阿蘇山
JR熊本駅から大分行きの豊肥線の特急に乗車。この特急の速度は遅く普通列車 とほとんど違わない。宮崎から都城までの特急列車も普通列車の速度と ほとんど同じで、数分の違いだった。九州では山越えの路線では速度が 遅いにもかかわらず特急料金を支払わねばならなかった。 しかし、早くから出かけ、方々を回るために、やむなく特急列車を利用 した。

阿蘇駅からはバスで阿蘇に登った。阿蘇中岳は噴火中なので、火口付近は 立ち入り禁止である。バス終点の一つ手前の「火山博物館」で下車すれば よく見えると聞く。

阿蘇中岳は阿蘇の最高峰だと思っていたのだが、背後に1592mの高岳が あった。右手に1337mの烏帽子岳(えぼしだけ)、左手に1321mの 杵島岳(きしまだけ)が見えた。これら名前と標高はJR阿蘇駅に帰って きて案内所で教えてもらったものだ。

阿蘇噴火
(左)草千里からの阿蘇中岳の噴火の眺め(写真背後は最高峰の高岳)、 (右)火山博物館前からの噴火の眺め。

阿蘇売店と放牧場
(左)火山博物館の周辺、(右)阿蘇中腹の米塚(標高972mの噴火口)。

米塚と上空からの阿蘇噴火
(左)阿蘇中腹の放牧場(ふもとの平坦地に白く見えるのはビニールハウス)
(右)熊本発羽田行きの飛行機から撮影した阿蘇噴火(望遠写真)。

16時30分熊本空港発羽田行きの飛行機で帰途に就く。窓から眺めていると 思いがけず阿蘇の噴煙を見ることができた。空がかすんでいたにもかかわず、 望遠で阿蘇の写真が撮れた。噴煙は遠方であったので、これに気づい た乗客はほとんどいなかったのではなかろうか。

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