40. 石垣島と波照間島の観測所
近藤 純正
地球温暖化の資料収集と観測所周辺環境の視察を目的として、今回2005年
3月6日から10日まで沖縄県石垣島と日本最南端の波照間島、さらに竹富島
を訪ねた。波照間島は石垣島から南西に63kmの位置にあり、外洋を航行
しなければならないが、幸運にも天候に恵まれ快適な旅をすることができた。
竹富島は昔を残す観光の島であり、3月10日の午前中に渡航し、徒歩3時間
で見てまわることができた。
(2005年3月25日完成)
もくじ
石垣島地方気象台
石垣島の伊原間アメダス
国際農林水産業研究センター沖縄支所
波照間アメダス
竹富島
石垣島地方気象台
石垣島にきていた東北大学の松島 大さんに案内してもらって、石垣島地方
気象台を訪ねた。
気象台の土田信一台長、根間俊明次長、玉城潤三課長、石川徹係長に
連絡してあったところ、みなさんから大歓迎を受けた。
区内観測時代の古い気象資料は準備してくれてあった。その書き写し作業は
松島さんに手伝ってもらい、わずか1日で終えることができた。
(左)石垣島地方気象台の地上気象観測露場。露場手前の隅に岩崎卓爾
の胸像がある(赤矢印)。
(右)気象台玄関から見た測風塔、右手前はラジオゾンデ放球室。
私は1997年9月に観光の目的で石垣島を訪問したことがある。当時の印象と
多少違っていた。古い一部の建物がなくなっていたり、新しい測風塔(風向風速
計の高度は28.4m)ができていたからである。記憶にあった
岩崎卓爾
(いわさきたくじ)の胸像も設置場所が変わっているように思った。
観測露場の端に設置された岩崎卓爾の胸像には次のような説明がある。
「岩崎卓爾は石垣島測候所の第二代目測候所長。宮城県の生まれで、29歳
から68歳で亡くなるまでの40年間八重山に住み、八重山の自然と人情を愛し、
測候所の仕事だけでなく、気象業務を広く住民へ紹介した。また、石垣島の
人々から天文屋のじいさんとして親しまれた。」
約25mの高さの測風塔から見下ろした観測露場。左の写真中央の4階建ては
気象台職員宿舎。
気象台測風塔から眺めた石垣市街の遠望。
測風塔に案内されて登ってみると、気象台周辺は大都会の眺めである。
石垣市の人口は4万6千人であるが、それをはるかに超える大都市の印象を
受けた。
八重山諸島の石垣島は強い台風に毎年襲われるところである。そのため
日本の他の都市と違って、一般住宅がコンクリート造りのせいなのかも
しれない。
石垣島の伊原間アメダス
3月9日、国際農林水産業研究センターの早野美智子さんの車で案内していた
だき伊原間アメダスの周辺環境を視察た。伊原間は石垣島北東部に
突き出た半島の付け元にあり、西側は東シナ海に、東側は太平洋に
面している。周辺の風通りはよさそうに思う。
アメダスは傾斜地にあり、周辺はサトウキビ畑である。近くには市営住宅が、
北東側150mに中学校がある。気象台の資料によれば、区内観測所時代から
現アメダスまで、設置場所は大きく変わっていない。
(左)西方の野底石崎の方向から眺めた伊原間の遠望。
(右)南方の玉取崎展望台から眺めた伊原間(陸幅が狭くなった部分)
の遠望。
(左)アメダスを東側から見た写真、向かいの建物は伊原間市営住宅。
(右)アメダスから南方を見下ろした写真。
(左)伊原間へ向かう途中にある浦底浜。
(右)帰途に立ち寄った玉取崎展望台から南を眺めた風景。
国際農林水産業研究センター沖縄支所
1970年に熱帯農業研究センター沖縄支所として設立され、1993年に国際
農林水産業研究センター沖縄支所に改組された独立行政法人である。沖縄支所
は亜熱帯という気候条件を活かし、開発途上地域や熱帯・亜熱帯に適用できる
農業生産技術の研究をしている。土壌水分の蒸散・浸透、土壌浸食量を測定
するためにライシメーターや傾斜枠圃場による実験が行われていた。
気象観測露場は広い敷地に置かれているが、最近になってビニールハウスが
建てこんできている。これが「陽だまり効果」を生む可能性があり、平均気温
が上昇してくるかもしれない。
島嶼環境管理研究室長の小沢 聖さんに案内されて、屋外ライシメータ、屋内
ライシメータ、及びその計測部が置かれている地下室を見学した。
(左)気象観測露場。
(右)中央遠方が気象観測露場、手前が屋外ライシメータ群、右手のビニール
ハウスが屋内ライシメータ群。
(左)ライシメータの地下室。
(右)いろいろな傾斜角の斜面と侵食量の測定装置、赤矢印はライシメータ
の地下室への入り口。
波照間アメダス
波照間島は、今回の旅行でどうしても見ておきたい島である。3月8日は
航海には絶好の好天となった。早野美智子さんの知り合いの大峰さんを
通して案内人の東盛哲一さんを紹介してもらった。東盛さんが波照間港で
出迎えてくれる予定である。
高速艇は石垣島の離島桟橋を8時30分に出航予定である。切符売り場が
朝7時45分に開くというので、その前に安栄観光へ行ってみると、切符は
すでに売り切れという。となりの波照間海運に行ってみなさいといわれ、訪ねて
みると船は出ないという。たいへん困ってしまった。
速度は遅いが波照間海運のフェリーが9時に出航すると聞く。その桟橋まで
案内してもらうと、数人の客が待っていた。波照間島まで2時間かかり、帰り
は13時発という。島での滞在時間は2時間弱ということになる。しかたが
なかった。往路2,080円、帰路1,880円(往復3,960円)
の乗船券を購入した。
出航予定の時刻を遅れてフェリーは外洋へ向かった。ほとんど波はなく、
快適に進んだ。11時が近づくと、水平線上に、はじめて見る波照島が浮かんで
きた。予想していたよりも大きい島である。東西5km余である。
波照間港には予定を過ぎて11時を30分に到着した。
案内人の東盛哲一さんが迎えてくれた。12時30分にまた港まで来る
ので、それまで昼食を済ませておいてください、と告げられた。私は帰りの
船は13時出航なので、・・・・・と言うと、16時30分の安栄観光の
高速艇に乗れます。乗れないということはない、・・・・大丈夫だと応えて
くれた。私は朝のことがあったので半信半疑ながら、それにしたがうこと
にした。
東盛さんの車の案内で、先ずアメダスを見ることにした。気象台でもらった
地図を見せると東盛さんはすぐアメダスの場所がわかった。アメダスは島
の中央部より西寄り、波照間2455-14の位置、冨嘉集落の南方のサトウキビ
畑の中に、盛り土でできたところに設置されていた。
小・中学校の南西1,200mの距離にあり、旧アメダスより、
ちょうど900m、真南に移転している。
旧アメダスは1983年1月7日~2002年2月20日まで波照間554-1に
あった。それ以前の区内観測所は波照間58番地にあった。
旧・現アメダスの設置場所は、いずれも集落から離れたところである。
旧アメダスは北海岸から500m、その北側は広葉樹・荒地・墓地、南側は
畑地である。現アメダスは北海岸から1,100m、その西側は小規模の広葉樹の
林、東側は広いサトウキビ畑である。
この島は大半は機械化によって土地改良され、サトウキビ生産が主要産業
となっている。土地が器械によって掘り起こされ、
そのため土砂が海に流出することが問題化していると聞く。
アメダスの付近は以前から畑であり、現在はサトウキビ畑であるが、以前は
他の作物(いも)が栽培されていた可能性もあると聞く。
台風襲来の島であり、他の作物は被害が大きいが、サトウキビは台風に
強い(強風で倒れても収穫できる)ので、最近は広く栽培されるように
なってきた。
(左)アメダス。(中)アメダスから反対側を眺めたさとうきび畑。
(右)南東方向から見たアメダス付近一帯、後方には狭い林がある。
アメダスの周辺環境を視察したあと、案内人の東盛さんに案内されて島の
名所を回ってもらった。自転車または車で島巡りできるように
広い道路が完備されていた。途中でサイクリングする人にも出会った。
島の東端の空港の近くには地球環境モニタリングセンター(無人)が
あり、高い観測塔があった。ここでも地上気温らしい要素が観測されて
いたが、その露場は林を周囲10m程度切り開いたものであった。ここで
測る気温はその周囲10m程度の空間しか代表しないであろう。
担当者に尋ねてみないとわからないが、何の目的でこの気温を観測している
のだろうか。人間活動から離れた場所に設置された塔で微量気体成分を観測
するのと同様に、気温も塔の上で観測するのがよいのではなかろうか。
(左)地球観測モニタリングセンター。
(右)星空観測タワー。
日本最南端の碑の近くには波照間の碑が建てられ、次の説明が記されて
いた。
この碑は 沖縄の祖国への復帰に際し、全国の青年が各地の石を
持ちより、ここ、はてるまの地に精魂を注いで建設されました。
その一つ一つの石がわが国の礎となり、沖縄の新たな出発となる
ことを念じて。昭和47(1972)年5月15日
日本最南端の碑。
(左)波照間の碑。(右)全国から持ちより集められた石。
(左)現在の灯台(島の中央)。
(右)旧藩時代海上の監視や烽火(のろし)を揚げていた火番所盛
(コート盛)
波照間島には川がなく、水は天水を利用している。島の所々には貯水池が
作られている。島の南西部の底名溜池展望台に上ってみると、北側に大きな
貯水池があった。
(左)大きな貯水池。(右)学童慰霊碑。
波照間港の近くに戻ると学童慰霊碑があり、次の内容が記されていた。
太平洋戦末期1945年4月8日、西表島(いりおもてじま)
南風見に強制疎開させられた全学童323名はマラリアにかかり
66名が死にいたらしめた。南風見はマラリア危険地域であった。
そこへ強制疎開を命じた山下軍曹(偽名)の行為は許しはしても、
忘れはしない。
波照間小学校創立90周年を記念し、はるか疎開地を望む場所に、
その霊を慰め、あわせて恒久平和を願がい碑を建立する。
1984年7月16日。
島巡りの最後に、美しいことで知られる西の浜ビーチを訪ねた。
サンゴ礁の青い海、サンゴ群落を歩く若者たちの姿があった。
(左)西の浜ビーチに遊びにきていた京都の学生さん。
(右)案内してくれた東盛哲一さんとその愛車。
約3時間にわたって波照間島を案内してくれた東盛哲一さんに、
「おいくら支払いしましうか?」と尋ねると「2千円で結構です」という。
それは余りにも少額なので3千円を謝礼として渡した。
東盛さんの本職はレンタルサイクル「クマノミ(魚の名)」、つまり島巡り
をする観光客に自転車やバイクを貸す業である。お宅に行って
みると、貸しカヌーや釣り道具なども整えてあった。
今後、島を訪問したい方のために、東盛哲一さんの電話
番号を掲げておこう。
電話:0980-85-8577
携帯:090-8290-2823
16時30分出航の高速艇(安栄観光)に早々と乗り込み、帰途についた。
波もなかったので、石垣港まで約50分間で着いた。
翌日9日の朝、昨日の帰りのフェリーを利用できなかったので払い戻しに行く
と手数料なしで全額1880円を返金してくれた。
竹富島
竹富島は8年前の1997年9月にも訪ねたことがある。日本の原風景を残した
島なので再度行ってみたいと思っていたところである。今回は好天に恵まれ、
予定が順調に終ったので、3月10日朝7時30分の1番の高速艇で渡った。
渡航時間は10分間である。
以前にはなかった広い舗装道路が整備されて、港から集落の方向へ延びて
いた。歩いて島巡りすることとした。
(左)港の近くにある竹富島ゆがふ館(ビジターセンター)。(右)石垣で
囲まれた人家。
島のほぼ中央に近づくと竹富小学校があった。先生と児童生徒たちが道路
掃除をしていた。竹冨島の道路はどこもきれいに掃除されている。さらに
南に進むと、土地が盛り上がり小さな丘となったンブフルがあり、その上
に建てられた人家の上に展望台があった。かごに100円を入れて上ると
島が一望でき、さらに石垣島もすぐとなりに望むことができた。
(左)竹富小学校。(右)ンブフル展望台から眺めた竹富島の北部と
石垣島の遠望。
コンドイビーチとカイジ浜を見学するために、こんどは西海岸に向かった。
コンドイビーチにきて、右手に折れて浜伝いに約50m進むと「潮がれ浜」
の歌碑があり、次の詞が刻まれていた。
潮かれ浜に唯一人
別れた友を思い出す
誰がはいたか捨てわらじ
渚の水にぬれている
(石島英文 作)
この詞には昭和初期の日本の原風景が詠まれている。この浜にたたずむと
子供のころが思い出となってよみがえる。コンドイビーチは現在、満潮に近い
が、前回8年前にきたときには干潮で南のほうに砂丘が広がっていた。
(左)潮がれ浜の歌碑。(右)コンドイビーチ。
(左)カイジ浜で星砂を拾う観光客。(右)蔵元跡。
カイジ浜へ出る広場には蔵元跡(くらもとあと)があり、次の内容のことが
説明されていた。
「蔵元とは、本来は年貢を収納する倉のことであるが、それが役所の意味に
なり、琉球王朝時代の久米島、宮古、八重山の役所は蔵元と呼ばれていた。
また、カイジ浜は八重山の島々の船が往来する港であった。」
(左)牛車に乗ってのんびりと観光を楽しむ人々。
(右)人頭税廃止百年記念の碑。
竹富島は現在では多数の観光客で賑わっているが、住民は苛酷な生活を強い
られた時代もあった。人頭税廃止百年記念の碑には次のことが記されている。
近世から明治の後期に至るまで宮古・八重山には、各個人に頭割りに課した
人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な税制のもとで苦境に
あえいでいた。宮古島における先駆者らによる人頭税廃止請願運動の盛り
上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治36(1903)年1月1日
から新税法に移行し、人頭税は廃止となった。それを記念して八重山では
郡民あげての祝賀会が催された。人頭税廃止百年に当たり、先人の苦労を
後世に伝えるとともに、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。
2003年1月1日