39. 関東大震災と横浜の気温
近藤 純正
1923(大正12)年9月1日11時58分過ぎ、相模湾の三浦半島先端の西南西約
10km付近を震源とするマグニチュード7.9の大地震により東京、
横浜など関東一円の広範囲で大災害が起きた。相模湾を中心に大津波が襲来し、
熱海で12m、三崎で6mの津浪が観測されている。
これは関東大震災と呼ばれており、死者・行方不明者14万人余、
家屋全半壊25万余、焼失した家屋は44万余である。
そのうち、神奈川県内における死者・行方不明者3万3千余、負傷者5万6千
余、全半壊家屋11万5千余、焼失家屋6万8千余、流出家屋130余に達した。
被害に関する数値は新編「日本被害地震総覧」、東京大学出版会による。
(2005年1月22日完成)
横浜の大火災
年平均気温の経年変化を調べてみると、横浜では大地震以後、年平均気温が
約0.8℃も低下したことに気づく(*)。
その図をここに再掲載しよう。気温の低下は測候所近辺の焼失によって
都市化の影響が急に弱まったことによるのではなかろうか。
そこで2005年1月17日、徐健青さん、本谷研さんと共に横浜地方気象台を
訪問し、防災業務課課長龍田浅生さんほかのご協力を得て関連する資料を
調べることにした。
*注: 本ホームページの「研究指針」の
「7. 都市気温上昇と風速の関係」の章を参照。
**注: なお、本ページでは(身近な気象の7章、8章と、研究指針の4章、7章
も同様に)、年平均気温の高度補正は施していない。
「平均気温は高度100mごとに約0.6℃の割合で
低くなる」
という常識がある。
しかし、これが実際に適応できるのは、高い孤立峰的な山岳地域や標高差が
数百m以上もある場合であり、丘陵地など含む平野や盆地~山すそに近い
地形では成立しない。
これは旭川を含む上川盆地や長野盆地の例で示したように、年平均気温が
標高とともに低下するとは断言できないからである。
丘陵・盆地(斜面の中腹以上は除く)では、夜間の最低気温は低標高ほど
低くなること、その他の原因によって上の常識は一般には成立しない。
横浜における年平均気温の経年変化、赤色の線は長期変化の傾向、
青矢印付き「移転」は、1927年11月1日に旧測候所から現在地に移転した
ことを示す
(「研究指針」の「7. 都市気温上昇と風速の関係」
の図7.6より再掲載。グラフは気象庁編集の「気象庁年報2003年度版」
CD-ROMに記載されたデータをもとに作成したものである)。
神奈川県測候所(のちに横浜測候所に改称、現在の横浜地方気象台の前身)
が大地震後に発生した火災の調査を行っている。
大日本帝国陸地測量部による1万分1地図(1922年測量)に火元、矢印付き
で火流線(30分ごとの位置を記載)、旋風の起点とその進路を赤色を用いて
プロットしている。これは非常に貴重な資料である。そのコピー
を図に示しておこう(画面上では縮小図としたので、細かな線など
は不鮮明となっている)。
1923(大正12)年9月1日横浜火災図(横浜測候所調査)。赤色で囲まれた
範囲が焼失区域、図の左下に1kmの距離を示す。
(藤原咲平編、関東大震災調査報告(気象篇)、
中央気象台、1924(大正13)年8月20日発行、本文161ページと付図第1図~
第19図の第15図より転載。ただし原図63cm×88cmに駅名など記入し一部を
加工した。)
地図は80年以上も昔のものであり、現在と異なるところも多いが、JRの横浜駅、
保土ヶ谷駅、桜木町駅、および山下橋は現在とほぼ同じ位置にある。
当時の神奈川県測候所は海岸通1丁目の税関桟橋(現在の大桟橋埠頭)の
つけ元の標高2.9mの場所に水上警察署と並んであった。現在の水上警察署
は同位置にある。測候所は1896(明治26)年8月1日に創設された。
旧横浜測候所跡
旧測候所跡は現在の山下公園(岸壁に沿ってつくられている)から北西方向
に見ることができる。
写真の手前右の広場は東波止場である。その右には氷川丸(写真範囲外)が
係留されている。
写真の左手・樹木のある部分が山下公園、岸壁の突き当たりが旧測候所跡
(赤矢印で示す)、それより右方向には大桟橋埠頭が伸びている。
「神奈川の気象百年」(横浜地方気象台発行)によれば、1923年の関東大
震災で測候所は全焼した。
仮庁舎が、同年11月7日に同じ岸壁近くの東波止場の氷川丸係留地の近くの
山下公園内に設置された。気象観測は短期間の欠測ののち再開され、
新庁舎が1927(昭和2)年11月1日に山手町99番地に
建設されるまで続けられた。神奈川県測候所は1937年に横浜測候所と改称
された。
旧測候所跡と水上警察署の近くには、現在は横浜港岸壁に沿って高架歩道が
あり、その下のガード壁のコンクリート面には「1910年(明治43)頃の横浜港」
を描いた大きな絵があった。
絵の右端に近い所に測候所(青の矢印で示す白い建物)があり、四角の塔が
風力塔である。当時の写真も参考にすると、風力塔の上には矢羽型の風向計
と4杯式風杯型風速計(地上高度は17.7m)らしきものと、ジョルダン
日照計らしきものがある。記録によれば、ジョルダン日照計による観測は
1905年1月から開始されている。
1910(明治43)年ころの横浜港の絵。上の写真は全体、下の写真は測候所
付近の拡大である。(横浜開港資料
館所蔵、掲載は同資料館の許諾を得たものである)
測候所の隣(手前)に神奈川県港湾部が描かれている。港湾部の測候所寄りに
気象信号柱があり、旗が見える。港湾部の左側(桟橋の先端方向)に
並ぶ建物は、1万分1地図(前記の横浜火災図の原図)から判断
すると水上警察署と思われる。
絵の右下方の説明板には次のことが書かれていた。『中央に伸びているのが
1894(明治27)年建設の大桟橋。1923年の関東大震災で壊れるが、昭和
初期の復旧工事などを経て、現在にいたっている。』
現在の横浜地方気象台
現在の横浜地方気象台は、当時のアメリカ海軍病院の敷地内
に建てられており、その西側は外人墓地である。
気象台は標高39.5mにある。写真(左)は気象台庁舎、気象観測
露場が右方にある。(右)は玄関前から見た観測露場である。遠方に富士山
(青の矢印で示す)の一部が見えた。
玄関を入ると、床は木板張りであった。よくみがかれた床で、
一瞬、土足で歩いてもよいのかな、と思ったほどである。古い時計が動いて
いた。この建物は建築後80年近くも経過しており、隣に新庁舎ができれば、
記念館として保存されるという。
風力塔に登ると横浜港が一望できる。やや左方の手前には高層ビルがあり、
旧測候所跡は遮られて見えない。反対側は外人墓地などがあり、緑が多い。
北東方向に見える横浜港遠望の写真。高い丸塔はマリンタワー、
その左方には見えないが旧測候所跡がある(青の矢印の下方)。
外人墓地、元町公園、やや離れて山手公園、及び南西方向の遠望。
大震災時の旋風と被害
藤原咲平編「関東大震災調査報告(気象篇)」、中央気象台、1924(大正13)
年8月20日発行、は本文 161ページと付図第1図~第19図からなる。横浜地方
気象台発行の「神奈川の気象百年」も参考にすると、大地震発生の日の朝、
比較的弱い台風が能登半島付近にあったが、
昼頃には分裂し北東方向に進んでいた。そのため、横浜では午前9時30分頃
より南西の強風(風速13.9~17.1 m/s 相当)があった。
横浜では11時58分30秒に烈震を感じた。引き続き市内各所に火災が起き、
このとき南西風は烈風(風速28.5~32.6 m/s 相当)に達した。大規模な
火災による旋風が各所で起きた。
旋風は東京、横浜、小田原、真鶴、厚木、横須賀で報告されている。
聞き取り調査によるものと思われるが、横浜では9月1日13時ころから
20時40分までの間に29個の旋風があった。継続時間は30分以上から2
時間以上のものも追跡できている。
小田原では発火箇所13でほとんど同時に発生し、余震は間断なくあり、
八方より起きた火災が旋風を呼び起し、100の雷が落ちたかの如く大音響と
共に屋根瓦、戸障子などを巻き上げた、との報告がある。
旋風は1日も2日にも発生した。その発生場所は火災域とその近辺のみ。気象
の不連続線の通過時の旋風は強暴を極めた。東京では日本橋や神田方面の
ように、火事場ではあったが旋風のなかったところも多かった。最強の旋風
では人や荷車まで上空へ巻き上げられた。
東京における惨劇は本所被服廠跡の広い空地と、その西隣にあった安田邸に
おける旋風であった。安田邸は1891年の濃尾震災後に耐震建築として建てら
れており、邸内は樹木が多く安全なところと思い、避難者を収容していた。
ここでは多数の焼死者があり、生き残った者はわずかであった。
川に入り荒波の中を上流に泳いだ人、逃げ迷って池に落ちた人、風で
巻き上げられて樹木に引っかかり池に落ちた人などが助かった。
庭園の隅にあった肥料溜(糞溜)の3個のうちの2つに入った人は死んだが、
飛んできたトタン板を頭に被っていた2名(小学校の女性教員)は助かった。
この2名は3個の肥料溜の1つに入り、糞水を頭にかけかけして助かった。
普段なら汚い肥料用の糞水も、非常時には大切なものとなった。
この炎まじりの旋風がいかに恐ろしいものであったか!
煙よりも、むしろ炎を数回吸入した者は皆死んだという。炎は地上数10cm
を這いまわったので、地に伏していた者は比較的に助かった。
被服廠跡は現在の墨田区横綱二丁目(JR両国駅の北方向、隅田川の東側)
にあった。
被服廠跡では人々が幾重にも重なって焼死した。白骨が山のように積み上げ
られた写真がある。旋風に吹き飛ばされて10人ほどの人の下積みとなって
助かった人が、旋風が止んで這い出して見ると、上になっていた人は全員
死んでいた。
生き残った人々のこうした陳述が数々記録されている。
東京では震災後の気温低下はなかった
当時の中央気象台(気象庁の前身)は大震災の1923年1月1日から麹町区
元衛町1番地(千代田区竹平町1番地、現在の気象庁の西側、お濠寄りの
場所)にあった。中央気象台における年平均気温の経年変化の図(下に示す)
では、横浜のように震災後の気温低下の傾向は見出し難い。
東京における年平均気温の変化傾向、赤色の線は長期的傾向
(「研究指針」の「7. 都市気温上昇と風速の関係」
の図7.5より再掲載。グラフは気象庁編集の「気象庁年報2003年度版」
CD-ROMに記載されたデータをもとに作成したものである)
。
顕著な気温低下が認められないのはなぜか?
東京大震火災図によれば、皇居とその周辺部を除けば、現在の田町付近から
上野、隅田川の東岸の広い範囲が焼失している。
1923(大正12)年9月1日東京大震火災図、オレンジ色の範囲が焼失区域、
赤丸印は当時の中央気象台の位置を示す。
(藤原咲平編、関東大震災調査報告(気象篇)、
中央気象台、1924(大正13)年8月20日発行、本文161ページと付図第1図~
第19図の第14図より転載。ただし、鉄道の上野駅の位置に上野の文字、中央
気象台の位置に赤丸印を加筆した。)
当時の中央気象台建物と観測露場の配置図と写真(上記報告書の第3図
a, b, c)によれば、露場は道路を隔ててお濠ばたにあり、比較的に風通し
のよい場所にある。これに比べた場合、横浜測候所は一方は横浜湾に
面しているが狭い桟橋のつけ元の位置にあり、①測候所庁舎と露場との距離
が短い。
1万分1地図(前記の横浜火災図の原図)によれば、旧横浜測候所があった
桟橋の幅は、つけ元で60m、その北西側半分30mは通路など、
南東側半分30mに神奈川県港湾部と測候所がある。当時の写真と前掲の
横浜港の絵を参考にすると、露場と測候所庁舎の距離は10m程度、または
それ以下と想像できる。
次に横浜の卓越風向(1950年以前の統計、最近もほぼ同じだが)を調べて
みると、年間では北北西、5~8月は南南西であり、旧測候所の露場に対して
②海からの風(北東~東~南東)はめったに吹かない。つまり、露場
への風は建物の陰か、陸地から吹いてくる。
これら①と②により、横浜測候所では陽だまり効果
が大きく、風の吹き溜まりの傾向があったのではないか、と考える。
当時の大都市、東京や横浜では今日よりも少ない舗装、少ない排熱量、
多い緑地があり都市化の気温に及ぼす影響は弱く、おそらく0.2~0.3℃
程度(現在の10分の1)であり、相対的に陽だまり効果が大きかったと考える
べきではなかろうか。
(注)陽だまり効果については、「研究指針」
の「4. 温暖化は進んでいるか」
の図4.13とその下の説明を参照。
結論として、気象観測所露場は庁舎などの
建物からの距離が十分にあり、周辺が開けた風通しのよい場所に設置すべき
であろう。そうでなければ、特に気温においては、水平スケール
数10m以下のごく局所気象を観測することになる。