38. 彦根城と長浜と竹生島

近藤 純正

滋賀県彦根市にある彦根城と、羽柴秀吉(豊臣秀吉)がはじめて自らの城を 築いた長浜、さらに琵琶湖北部に浮かぶ竹生島(ちくぶじま) を2004年11月23日に訪ねてきました。

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彦根城
琵琶湖の東岸に築かれた彦根城は三層三階の天守をもち、二重の濠に 囲まれている。天守は京極高次が築いた大津城から移築したといわれ、 1606年に完成。天守の中に入ると、内部の細かい木組みの構造がよく見える。 天守は、姫路城、松本城、犬山城とともに国宝四城の一つである。 彦根城は1622年に20年の歳月をかけて完成した。
彦根城の遠望

天秤櫓(てんびんやぐら、重要文化財)は、豊臣秀吉が築城した長浜城大手門 を移築したといわれている。ちょうど天秤のような形をしていることから 天秤櫓と呼ばれる。
天秤櫓


彦根城天守(国宝)

時報鐘(日本の音風景百選の一つ)


長浜
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が江北12万石の領主としてはじめて自らの城を築いた ところが長浜である。その城跡は、豊臣の文字を残した「豊公園」 (ほうこうえん)として整備され、鉄筋コンクリート造りの天守を復元した 長浜城歴史博物館となっている。

公園内の説明板によれば、戦国時代につくられた長浜城の石その他の材料・ 建物などは、江戸時代になって彦根城を築くために運び出されたという。

JR長浜駅前には羽柴秀吉と石田三成の出逢いの像「三献の場面」があった。 長浜市内を50分間、500円で巡る観光トレロバスに乗ると、次のような説明を 聴いた。

長浜城主となった秀吉は、ある日、鷹狩りに出かけた。その帰途、のどが乾い て伊吹山のふもとにある寺に立ち寄り茶を所望した。 寺で働いていた少年・石田三成は、まず最初に大きな茶碗に、ぬるめの茶を いっぱい入れて差し出した。秀吉は一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。 少年は、こんどはやや小さ目の茶碗に少し熱めの茶をもってきた。 少年の気配りに気付いた秀吉は、試しにもう一杯を所望すると、最後には 小ぶりの茶碗に熱い茶を出した。この才気に富む心づかいに感じ入った秀吉 は、少年を連れて帰り家来とした。この少年・三成はのちの五奉行のひとり、 石田三成である。

長浜市から北の木之本町に、古くから設置されていた気象観測跡を訪ねたところ、 この逸話をもとにした缶入りの茶「三献の茶」を売っていた。

JR長浜駅のすぐ南側に長浜鉄道スクエアがある。そこは旧長浜駅があったとこ ろである。旧長浜駅は日本で一番古い駅舎として、当初の場所に残されている。 その建物の裏側には、長浜の鉄道史に関する長浜鉄道文化館と北陸線電化記念 館があり、D51型蒸気機関車とED70型1号機交流電気機関車、その他が展示 されている。


長浜城(長浜歴史博物館)

秀吉と石田三成の出逢い「三献の場」

旧長浜駅(日本で一番古い駅舎)

旧長浜駅の出札・出入口

旅籠料金表

駅で使われていた時計とホームの案内板

展示中のD51形蒸気機関車

ED70型1号機交流電気機関車(62トン、1957年製)

長浜駅は1882(明治15)年3月10日に敦賀線(北陸線)の北に向かう始発駅と して、また南へ向かう長浜~大津間の鉄道連絡船の駅として鉄道開通と同時に 完成した。長浜から南へは汽船が琵琶湖を航行して大津まで通っていた。

長浜鉄道エクエアの案内パンフレットによれば、 1889年7月、東海道線新橋~神戸間の全通とともに鉄道連絡船が廃止、1903年 には現在の長浜駅の位置に新しい駅舎が完成した。

旧駅舎は石灰コンクリート造り2階建て、外壁はコンクリート素面仕上げ、 壁の厚さは50cm、四隅の角は花崗岩の切石積み、窓枠と出入り口はレンガを 使ってある。

竹生島
竹生島(ちくぶじま)は琵琶湖北部にあり、西国第三十番の宝厳寺の本堂 (弁財天堂)や、国宝・竹生島神社などがある。竹生島神社は、関白・秀吉 が時の天皇を迎えるために、伏見城内最高の建物を神殿として寄進したもので、 桃山文化の代表的な国宝建築物である。

竹生島入島券


宝厳寺本堂(弁財天堂、日本三弁財天の一つ)

三重塔(1486年築の再現)

国宝・唐門(観音堂)

重要文化財・舟廊下、秀吉の御座船の船櫓を利用

国宝・竹生島神社(秀吉の寄進)

弘法大師霊場の記念碑


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