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もう一つの舞台で輝く仕事人

最高のコンディションで選手を試合に望ませるために

 1995年7月、テニスプレーヤー松岡修造はウィンブルドンで日本男子としては62年ぶ りのベスト8入りを果たした。膝の故障に苦しめられ、何度も挫折を乗り越えた上での結果だった。

 その松岡の国内外のトーナメントに随行し 、心身両面をサポートしてきたのがトレーナーの田中宏昭だ。田中は 日本でもトップクラスのトライアスロンの選手だった。しかし、自らの怪我がきっかけとなってスポーツ障害に興味をもち、トレーナーとなる。自身がスポーツ選手だったことが、今の仕事に役立っていると田中は言う。

 プロのテニスプレーヤーにオフはない。年間10ヶ月以上、週単位で世界をかけ回る。時差を調整し、いかに環境に適応するかが勝利を大きく左右する。トレーニングメニューを決め、日中のト レーニングを共にし、夜は2時間かけて松岡の身体をほぐす。

 テニスは緊張とプレ ッシャーが続く孤独なスポーツだ。ときには松岡が田中に苛立ちをぶつけることもあった。 「そういうときでもタナヤンはきちんと受け止めてくれた。僕には彼の仕事は絶対にできない」と松岡は言いきる。
 
 実はウィンブルドンの2回戦で、松岡は腹筋を痛めていた。田中は祈るような気持ちで治療を施し、「あとは修造にまかせた」とコートに送り出し た。 松岡は見事にその気持ちに応える。「プロというのは見せてくれるなあと思いました。そういう試合を目の当たりにできたことは僕の貴重な財産です。」松岡が「卒業」という言葉を使って第一線を離れた今も、2人の信頼関係は変わらない。

JAL WINDS April 1999


トレーナーへの道

 このシリーズでは、現在さまざま形でトレーナー的な活動をする人物を紹介し、現在の活動に至るまでのそれぞれの過程を振り返っていただきながら、こうした職業を目指す人々に対するアドバイスをいただく。

 第39回は田中宏昭氏。トライアスリートとして全日本王者となった経験をベースに、トレーニング、コンディショニングを追求。テニスの松岡修造選手のトレーナーとしてウインブルドンベスト8をサポートする。現在は東京池袋にアスレチックケアの拠点「アスリートサポート」を開設。さらなる活動の展開に意欲を見せている。

■きっかけ
 学生時代は自転車で、ロードレース中心に競技生活を送っていました。初めはトレーニングの原則もろくに理解せず、ただ自分を追い込むことがいいトレーニングあるという意識でした。そのため、オーバートレーニングで腰のヘルニアになるなど、終始体のどこかを痛めていました。
 当時はフィットネスブーム、ジョギングブームのはしりで、一般人にも合理的なトレーニングに対する意識が芽生え始めた頃でした。スポーツ科学に関する情報も少しずつ得られるようになり、私もアメフトの友人を通じてトレーニング器具や筋力トレーニングについての知識を得ました。
 少しでも競技者として強くなりたいという意識から、こうした情報を積極的に取り入れ、自分なりに実践し始めました。当時はまだ大学生として競技に夢中で、トレーナー的な仕事を強くは意識していませんでしたが、少なくともスポーツ科学に前向きに関わっていく意識は芽生えていました。それが原点かもしれません。

■ACTION 1
 当時は、自転車でオリンピックに出場するのが夢で、就職してからもクラブチームの一員としてトレーニングに励んでいました。そんなある日、トライアスロンの関係者から、バイク、つまり自転車についての指導をしてほしいという依頼を受けました。

 初めてトライアスロンの世界に接した私は、すぐにその魅力に取りつかれてしまいました。体力の限界にチャレンジするというスタンスが、当時の私の波長に合っていたのです。一方で、社業の傍ら自転車でオリンピックに出場することの限界も感じていました。そこで、私は思い切って仕事を辞め、トライアスリートととして生きてみる決心をしたのです。

 学生時代から科学的トレーニングに興味を膨らませていましたから、その延長で自分の体を限界まで鍛えてみるいい機会であると感じたのです。同時に、そのために改めてトレーニングや体についての勉強をしなければならないと思い専門学校に入学しました。

 トレーニングや体のことを勉強しながら競技に参加するという形をベースに競技生活をはじめ、それは6年間続きました。幸いその間、87、88年に宮古島大会で2位となり、89年には全日本選手権で優勝することができました。

■ACTION 2
 鍼灸の専門学校に在学中、スポーツプログラムスでトレーナーの実践を積みながら競技も継続するという、理想的な形で就職することができました。私はトレーナーとしての実践を積む一方で、競技者としての限界を目指していましたが、なかなか両者のバランスをとるのは大変でした。

 スポーツプログラムスでは、テニスの松岡修造選手、ゴルフの牧野裕選手などのコンディショニングをお手伝いさせていただき、トレーナーとしては充実した日々が過ごせました。一方、トライアスロンの方は全日本は制したものの、インターナショナルなレベルで見た場合、ハワイアイアンマン世界選手権の44位が最高でした。世界のトップアスリートとの間には、大きな壁があったのです。

 私は、インターナショナルレベルでの自分の限界を悟り、トレーナーの仕事に専念することにしました。今度は選手をサポートする側にまわり、世界に通用する選手のコンディショニングを手伝いたいと思ったのです。 

 その頃になると、私もトレーナーとしてさまざまな経験を積ませていただく中から、自分の目指す方向性のようなものが見えはじめていました。スポーツプログラムは理想的な形態の組織ではありましたが、次のステップとして、今度は自分の腕で生きてみようと決心したのです。

■ACTION 3
 93年、私はトレーナーとして独立しました。独立後は、スポーツプログラムス時代にコンディショニングをお手伝いさせていただいた松岡選手、牧野選手などとの仕事が中心になりました。やりがいがあり、収入のベースとなりうる仕事でしたが、継続的な仕事が約束されたものではありませんでした。

 例えば松岡選手の場合、年に10ヶ月間、世界中のツアーを転戦します。私が独立した当時は、松岡選手もランキングや膝のケガなど、コンディションに応じてトレーナーを帯同するという状況でしたので、私に対する依頼も確約されたものではありませんでした。しかし、私と松岡選手との信頼関係が深まるにつれて、年間を通してツアーに帯同してもらえるようになり、私もそのことを通じて貴重な体験を積ませいただきました。

 95年には、松岡選手が日本人男子としてはじめて、ウインブルドン大会でベスト8に進出しました。もちろん私も現場に居合わせましたが、トレーナーとして最も感動した思いでの一つです。

■ACTION 4
 97年4月、東京池袋にアスリートのケア、リハビリなどをサポートする拠点を開設しました。これまで年間8〜10ヶ月も家を空けるという生活で、常に現場の活動一辺倒だったため、一度息をついて、じっくりと勉強し直したいという意識がありました。また、こうした拠点づくりを通して多くの選手と接することが、後に再びトレーナー活動を充実させるために必要であるとも考えていました。

 現在、治療院には競輪選手をはじめ、さまざまな分野のアスリートが通ってきています。概ね治療の効果も良好のようで、いい信頼関係が築けつつあると実感しています。また、。彼らからは現場での現在進行形で直面している問題点などを聞かされ、勉強すべき点として真摯に取り入れています。選手、チームについて活動することも勉強になりますが、このような拠点をもって複数のアスリートと接することも、大変勉強になります。

■アドバイス
 トレーナー的な活動をするには、まず仕事の内容を理解し、実践で経験を積めることが重要だと思います。その意味では、体育学部や専門学校で、アスレチックトレーナーの勉強をしながら、実践を通してトレーナーの仕事を学んでいける環境に身を置くのも一つの方法でしょう。

 さらに、ケアの専門家としてやっていくためには、やはり鍼灸や柔整などの国家資格を取っておくことが重要だと思います。4年生の大学に進んでさらに国家資格の専門学校というのは、時間的にも経済的にも大変ですが、しっかりした知識と実践力をつけるには良い方法だと思います。

 理想を言えば、在学中でも卒業後でも、実際にアスリートと接している現場で、見習い修行できる環境を選ぶことが大切です。

 トレーナーとしてもっとも重視すべき素養は人間性です。これは、時間をかけて醸成していくしかありません、選手の誰にも別け隔てなく接する態度、常に心を開いておく姿勢、そういった部分から選手の信頼は芽生えてきます。

フィジーク  '98年11月号