富永太郎 とみなが・たろう(1901—1925)


 

本名=富永太郎(とみなが・たろう)
明治34年5月4日—大正14年11月12日 
享年24歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園22区1種10側41番
 



詩人。東京府生。東京外国語学校(現・東京外国語大学)中退。大正13年小林秀雄、河上徹太郎らと『山繭』を創刊。同誌に『秋の悲歎』『橋の上の自画像』を発表。ボードレール・ランボーに傾倒し、翻訳をする。象徴派詩人として注目されたが夭折した。死後『富永太郎詩集』が家蔵版として出版された。



 



私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦標は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
私はたゞ微かに煙を挙げる私のパィプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも借しみはしない。今はあの銅色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない---土瀝青色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた…
夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか?私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ---金属や蜘妹の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。
                                                          

(秋の悲歎)



 

 大正10年、人妻との恋愛が発覚して旧制第二高等学校(現・東北大学)を中退、翌年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科に入学したが、体調が思わしくなく休学して画熟に通ったり、中国・上海に放浪する。大正13年夏、京都にあって中原中也を識り交友を深めるが、中原に接した多くの人が感じるように、次第にある種の嫌悪感を抱くようになった。10月に最初の喀血後帰京したのだが、年が明けると喀血を繰り返し、14年10月には大喀血。11月12日午後1時頃、臨終の床に中也を呼ぶことを富永は拒否したが、死んだ富永を中也が訪ねたのは、翌日夕刻のことであった。



 

 酸素吸入のゴム管を「きたない」と自ら外して死んだ富永。〈この不幸なる世紀に於て、卑陋なる現代日本の産んだ唯一の詩人であつた〉と小林秀雄は追悼する。
 〈白銀の衰弱の線条をもって人生を縁取って逝った詩人〉富永の胸の上で共に焼かれたランボーの『地獄の季節』の一節。〈もう秋か。---それにしても何故永遠の太陽を惜むのか、俺達はきよらかな光の発見を目指す身ではないか、----季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。〉(小林秀雄訳)
 ——雲ひとつない蒼穹、有頂天に光彩を放っている低い樹葉の間から、すっくりと顔を覗かせている碑があった。草むらに捨てられた吸い殻が一本、音はとぎれて、「富永氏墓」に光の襞はまぶしい。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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