徳田秋声 とくだ・しゅうせい(1872—1943)


 

本名=徳田末雄(とくだ・すえお)
明治4年12月23日(新暦2月1日)—昭和18年11月18日 
享年71歳(徳本院文章秋声居士)❖秋声忌 
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園23区27側29番


 
小説家。石川県生。旧制第四高等中学校中退。尾崎紅葉に師事。明治33年読売新聞連載の『雲のゆくへ』で認められる。つづいて『足迹』『黴』などを発表。昭和4年以降、作家として沈黙するが、8年『町の踊り場』で復帰した。『仮装人物』『縮図』『光を追うて』などがある。




 


 笹村は多勢の少い甥や姪と、一人の義兄とに見送られて、その土地を離れようとする間際に、同じ血と血の流れあった母親の心臓の弱い鼓動や、低い歔欷の声をはじめて聞くような気がした。するすると停車場の構内から、初夏の日影の行き渡った広い野中にすべり出た汽車の窓際へ寄せている笹村の曇った顔には、すがすがしい朝の涼風が当って、目から涙がにじみ出た。
 笹村は半日と顔を突き合わして、しみじみ話したこともなかった母親の今朝のおどおどした様子や、この間中からの気苦労な顔色が、野面を走る汽車を、後へ引き戻そうとしているようにすら思えてならなかった。孤独な母親の身の周りを取り捲いている寂寞、貧苦、妹が母親の手元に遺して行った不幸な孤児に対する祖母の愛着、それが深々と笹村の胸に感ぜられて来た。
 ……まことに本意ないお別れにて、この後またいつ逢われることやら…‥門の外までお見送りして    内へ入っては見たれど、坐る気にもなれず、おいて行かれし着物を抱きしめていると、鼻血がたらたら流れて、気がとおくなり申し候‥‥…
 東京へつくと、すぐに、こんな手紙を受け取った笹村の目には、今日までわが子の坐っていた部屋へ入って行った時の、母親のおろおろした姿がありあり浮ぶようであった。
 「これだから困る。このくらいならなぜいるうちに、もっと母子らしく打ち解けないだろう。」
 笹村ほ手紙をそこへ投り出して、淋しく笑った。そして「もう自分の子供じゃない。」とそう思っている母親を爛れまずにはいられなかった。
                                          
(黴)



 

 自然主義の盟友島崎藤村が昭和18年8月22日に急逝した。その年の11月18日未明、徳田秋声は肋膜がんのため、かねてより療養中であった本郷森川町(現・文京区本郷)の自宅で最期の時をむかえた。
 「一切衆生の文学」と広津和郎が、「怠け者の自在な妙境」と川端康成が評した秋声の文学は、紛うことなき天性の自然主義作家であったというべきか。友人総代の正宗白鳥の弔辞にもある。〈人間の苦難を苦難とし、喜悦を喜悦とし、思想に於いても感情に於いても作為の跡は非ざりしやうなり。君の文学は坦々として毫も鬼面人を驚かすやうなこと無く、作中に凡庸社会を描敍しながら、そのうちに無限の人間味を漂はせたり。熟読翫味してますます味わひのこまやかなるは君の文学の特色なり〉。



 

 大正15年、妻はまが脳溢血で死んだ後、山田順子との愛人騒動、情痴を書き綴ったあからさまな有様は、おおいに世間の耳目を集め、非難が放たれたのだが、そんな話も今は昔。——初秋とはいえまだまだ暑い郊外の霊園は赤松の大樹が縦横に立ち並んでいる。
 参道の木陰は風が通って涼しいのだが、蝉の騒声に押し出されて、迷い込む墓域の空は広々と抜け、直射日光がビーム砲のように刺し貫いてくる。桃色の花弁をつけた百日紅があちこちに雪洞のような趣を供しているのがせめてもの安らぎで、ひとつの言葉を思い出そうとしても、骨太簡潔の筆跡を刻した「徳田家」墓は、目を閉じてさえいっさいの感傷を寄せ付けない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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