杉田久女 すぎた・ひさじょ(1890—1946)


 

本名=杉田 久(すぎた・ひさ)
明治23年5月30日—昭和21年1月21日 
享年55歳(無憂院釈久欣妙恒大姉)❖久女忌 
愛知県豊田市小原町松名町133 杉田家墓所
長野県松本市宮淵2丁目5 城山墓地


 
俳人。鹿児島県生。東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)卒。昭和7年女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となる。9年中村汀女・竹下しづの女などとともに『ホトトギス』同人となる。11年虚子より『ホトトギス』同人を除名される。除名の理由は現在も明らかになっていない。『杉田久女句集』『久女文集』などがある。



 愛知県豊田市の杉田家墓所

 長野県松本市の城山墓地
 



花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

紫陽花に秋冷いたる信濃かな

谺して山ほととぎすほしいまま

足袋つぐやノラともならず教師妻

白妙の菊の枕をぬひ上げし

鶴舞ふや日は金色の雲を得て

風に落つ楊貴妃桜房のまま

朝顔や濁り初めたる市の空

ぬかづけばわれも善女や仏生会 

      


 

 久女のあまりにも才気にあふれた熱情的な行動は、やがて虚子の勘気にふれ、『ホトトギス』昭和11年10月号に出された公告〈従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女を削除し云々……〉によって、久女の作句活動は完全に行き場を失ってしまった。
 〈鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな〉、『杉田久女句集』の棹尾に収まったこの句をもって久女の作句人生は自ら終止符を打った。
 生きる希望もなく精神を病み、抜け殻のようになった久女の歩みゆく先に見えているものは死しかなかった。昭和21年1月21日午前1時30分、太宰府の筑紫保養院で肉親の誰に看取られることもなく一人淋しく逝った久女の亡骸に、取り戻せぬ悔恨を残して酷寒の朝は明けたのだった。



 

 小倉から夫杉田宇内が久女の遺骨を抱いて帰ったのは望むはずもなかった40年ぶりの夫の故郷であった。
 300年も続いた旧家とはいえ、山深い僻村の杉田家に久女の安息する住処はなかったであろうに。長屋門をくぐり抜け、人気のない屋敷跡、隅に建てられた観音像が一身に陽を浴びている。傍らに並んで〈灌沐の浄法身を拝しける〉の句碑。落ち葉を踏みしめながら裏山の竹林道をのぼっていくと、ひときわ静かな広がりがあった。
 大小様々な一族の墓々、手前のほうに「西信院釈慈光照宇居士/無憂院釈久欣妙恒大姉」墓、苦悶と怨念、口惜しさを宿して久女の眠る墓は静寂の中にある。
 
 昭和32年、長野県松本市の実家赤堀家墓地に分骨された「久女の墓」の墓碑銘は因縁の虚子の筆になる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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