杉本鉞子 すぎもと・えつこ(1872—1950)


 

本名=杉本鉞子(すぎもと・えつこ)  
明治5年6月20日(新暦7月21日)—昭和25年6月20日  
享年77歳  
東京都港区南青山2丁目32-2 青山霊園1種ロ8号32側



小説家。新潟県生。英和女学院卒。幕末の長岡藩家老の家に生まれた。明治31年渡米。貿易商杉本松雄と結婚。夫と死別後、雑誌や新聞に投稿、大正12年から雑誌『アジア』に『武士の娘』を連載。ベストセラー作品となる。昭和2年帰国。 『成金の娘』『農夫の娘』『お鏡お祖母さま』などがある。 







 その夜、私はいろいろ考えつづけて、眠れませんでした。緑や金色のあくどい花瓶や、安い漆塗りの箱や、花簪をさした女の笑顔の絵のついた扇を好む大衆に比べれば、芸術的な眼のある人は数える程しかないでしょう。「でも、もし日本が、その芸術的な標準を下げてしまったら、日本は世界に向って、何を求めたらよいでしょうか。今、日本が持っているものや、今の日本の姿は、その理想と誇りとから生れ出たものであり、高いのぞみも技倆も礼儀作法も、みなこの二つの言葉にたたみこまれているのではないでしょうか」と、溜息まじりに、独り言をいったことでありました。

 私の知っている庭職人に、時間払いでなく、一仕事ごとに賃銀を貰う人がありました。この人が半日がかりでした仕事を、それも庭石をほんの二三寸動かすだけのことでまたやり直しをいたしました。でも、気に入ったところへ石を据えると、汗をふきふき、その傍に腰を下し、お金にもならない時聞を空費することなど、気にもとめず、庭石を眺めながら、煙草をふかしているのですが、その顔には、喜びと満足の色があふれでいるのでした。

 この年老いた職人のことを思い出しますと、自分の芸術を誇り得る喜びを捨てて、何の価値があろうかと思ったことでありました。私は庭師から職人、教師、政治家のことへと思い及びました。それは皆同じことなのです。誇りをきずつけるということ、努力の結果として到達し得た最高、最善なるものをも支え得なくなるということは、個人にとっても国家にとっても、その精神の発達を死に導くものでございます。


                                 
(武士の娘・大岩美代訳)



 

 越後国長岡藩筆頭家老稲垣家に武士の娘として生まれた鉞子。「鉞」とは「まさかり」のこと。男の子のように強い娘にとの父の思いは充分に叶えられたようであった。明治31年渡米し、兄の友人であった貿易商の杉本松雄と結婚。10年あまりのシンシナティでの結婚生活も43年、夫の急逝によってあっけなく閉じてしまったが、原稿料を得るためにはじめた新聞投稿が作家クリストファー・モーレーの目に留まり、雑誌『アジア』に連載した自伝『武士の娘』は大正14年に刊行され、ベストセラーとなって仏語、独語など7カ国語に翻訳出版、多くの読者を得た。昭和2年に帰国後も日米の架け橋として執筆活動を続けたが、昭和25年6月20日夜肝臓がんのため波乱の生涯を閉じた。



 

 〈私の郷里、越後の国では、冬は何時も大雪ではじまり、しんしんとおやみなく降りつづき、藁葺屋根の太い棟木のほかには、何も見えなくなるまでにあたりを埋めつくしてしまいます。〉と書き出した『武士の娘』杉本鉞子の葬儀は青山の聖アンデレ教会で行われ、ここ青山霊園にある夫杉本松之助(松雄)が眠る墓に葬られた。傍らにはアメリカでも帰国後の日本でも「無私の行為」によって公私にわたって支え続けてくれたフローレンス・ミルズ・ウイルソンの墓が静かに時を数えていた。「杉本松之助/妻鉞子墓」、黒ずんだ碑の左側面には父稲垣平助の手記「誌禄」に記された明治5年6月20日(旧暦)生まれとは異なって明治7年6月21日長岡生と刻されてあった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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