野村胡堂 のむら・こどう(1882—1963)


 

本名=野村長一(のむら・おさかず)
明治15年10月15日—昭和38年4月14日 
享年80歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園13区1種1側3番


 
小説家。岩手県生。東京帝国大学中退。明治45年報知新聞社に入社。同紙に人物評論・小説を発表。代表作『銭形平次捕物控』は昭和6年から32年まで26年間、書き続けられた。また音楽評論家として知られ『ロマン派の音楽』『音楽は愉し』などがある。






 

 「あの牙彫の根付は、多分抜荷を受取る手形のようなものだろう。吉三郎は仲間では三下だが、あの牙彫の手形を手前のところから見付けて持って行と、急に頭領の株を狙って、抜荷の大儲けを一人占めにしようという大望を起したのさ」
 「------」
 「それと気の付いた御家人喜六と唐人お勇が、吉三郎如きに大事の手形を取られちや叶わないから、鮟鱇を河豚と言って食わせ、実は毒酒で殺して死骸から牙彫の手形を抜いたのだよ」
 「そう絵解きをして貫うと、そうでなかったら嘘見たいで、ヘエ---」
 ガラッ八はまだ長い顎を撫でて居ります。
 「だが、自分達の利潤のために、お上の御法を破る奴は憎いね。その上仲間を殺したり、----俺の家まで焼いたり」
 「そう言えば、親分は何処へ行きなさるつもりで---」
 「お静は当分里のお袋に預けたよ、---俺はな、八。当分、八五郎の家に居候ときめたよ」
 「そいつは有難てえ。親分を居候においたとあれば、あっしも肩身が広い」
 「ハツハツハツ、ハツハツ」
 柳原土手の夜は白みかけて居りました。大晦日の江戸の街は、一瞬転毎に、幾百人がずつ最後の足掻きの坩堝の中に、眼を覚さして行くのでしょう。
                                                         
(銭形平次捕物控)



 

 岡本綺堂の『半七捕物帳』、横溝正史の『人形佐七捕物帳』、佐々木味津三の『右門捕物帖』などとならんで、野村胡堂の『銭形平次捕物控』は捕物小説の定番中の定番だった。
 小説家「野村胡堂」のほかに「あらえびす」の筆名でレコードの評論も行い、音楽評論家としての顔も持っていた。
 昭和38年2月には私財の一億円を基に学生のための経済支援奨学金交付を目的に「野村学芸財団」を設立した。その2か月後の38年4月14日春の日、野村胡堂は肺炎のために死去した。彼の葬儀は、野村胡堂音楽葬とされ、葬儀委員長を務めたのは盛岡中学校以来の親友、金田一京助であった。読売日本交響楽団がベートーヴェンの第三シンフォニー『英雄』を葬送曲に演奏して別れを悼んだ。



 

 岩手県紫波郡紫波町の城山という小高い丘に一つの碑がある。
 〈故里の春日の丘にかたくりのむれ咲く頃のなつかしきかな〉。
 野村胡堂こと野村長一の恋歌である。 同じ村の娘、ハナとのなつかしい想いを詠ったこの歌は、長一とハナ夫人の60年に及ぶ結婚生活の愛の記憶であった。
 武蔵野のはずれにあるこの霊園の幹道沿い角地、塋域の奥先にある「野村家墓」に眠る野村胡堂と妻ハナ。すぐ隣には23歳で夭折した娘で作家の瓊子が嫁いだ「松田家墓」があった。ゆったりとした塋域、やわらかな日に映し出された碑面がちらちらと揺らいでいる。春の木漏れ日に手をさして二人の間に交わされていたのは〈故里の丘に今年もかたくりの薄紫の花は咲いているのだろうか〉という言葉であったことだろう。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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