野上弥生子 のがみ・やえこ(1885—1985)


 

本名=野上ヤエ(のがみ・やえ)
明治18年5月6日—昭和60年3月30日 
享年99歳(天寿院翰林文秀大姉)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



小説家。大分県生。明治女学校卒。英文学者・能楽研究家として知られる野上豊一郎と結婚、夫の紹介で夏目漱石の門下に入り明治40年『縁』『七夕さま』等を発表。大正11年『海神丸』、昭和元年『大石良雄』で注目を集めた。『真知子』『迷路』『秀吉と利休』『鬼女山房記』などがある。






 

 「関さん、あんた方の運動が人間から貧乏をなくするやうに、かういふ苦しみをもなくするのでなかつたら、結局何になるんでせう。どんな見事な組織で未来の社会が出来上らうとも、こんな思ひで苦しむものが一人でも残つてる間は、パンや着物で苦しむ今の世界が不完全だと同じに、決して完全な世界ではない筈です」
 「それが結論ですか」うは手に、にやにやして、彼は覗き込んだ。
 「さう考へたけれぱ」
 「断然逆転だな。−−寧ろ君には正当の復帰かも知れない、その観念論が」
 この揶揄を、彼はもう笑つてゐない顔で厳格に投じ、手だけ後に伸ばして椅子を引き寄せた。
 「---一つ考へて見て下さい。人間がパンや着物に苦しむように、君の強調するやうなことで誰も彼も苦しむと思ひますか。ないとはいへない。人間に病気があるやうに、貧乏のない社会が来てもその種類の苦痛は、多分残るでせう。併し個人的な、特殊の、限られた場合における私事にしかそれは過ぎない。その日の民集の勝利や幸福、それを実現させてゐる組織とは関係ない筈です。例へばこの資本主義の社会において、どの家かで誰かが歯痛に悩んでゐることが、一般の飢餓や失業やストライキと関係はないと同じで。---もしそれを何か関係があるやうに考へたり一小部分の現象で全拒炉構ガ全部の構成まで否定しようとしたりするのは、過去の個人主義的迷妄ですよ」
                                 
(真知子)



 

 〈人間が生きるうえでもっとも大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである〉と冷静、冷徹に生きた野上弥生子に、中勘助との秘めた初恋(片思いであったかも知れない)や隠遁した晩年の哲学者田辺元との秘められた恋愛関係があったことを知って、ほっと和らいだ気分になったものだ。
 長編『森』を書き始めたのはなんと87歳の時、作家としては希有の長寿で、一日原稿用紙二枚をノルマとして書き続けた作品もようやく「終章」となった昭和60年3月29日朝、世田谷区成城の自宅寝室で倒れ、翌30日午前6時35分、長男素一夫婦と三男燿三夫婦に看取られながら、苦しむこともなく静かに天寿を全うした。



 

 葬儀は日本晴れの4月3日、築地の東本願寺別院で行われ、その葬儀の進行係をあの大江健三郎がしたのだった。4月24日、夫豊一郎(昭和25年2月23日に死去)の眠る北鎌倉東慶寺の野上家の墓に納骨された。分骨は生涯の大半をすごした北軽井沢の山荘と、大分県臼杵市にある光蓮寺の生家小手川家の墓に。
 英文学者・能楽研究家として知られた夫野上豊一郎の死後に買い求めたこの墓地の墓は、豊一郎とは一高以来の友人であり、弥生子にとっても中勘助との恋を通して唯一人、心を許した親友であった安部能成の墓の隣地に位置している。
 苔に覆われた野上夫妻の五輪塔は梅雨の紫陽花に映えて清閑とした光景を呈していた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    野上弥生子

   野口雨情

   野口米次郎

   野田宇太郎

   野間 宏

   野溝七生子

   野村胡堂

   野呂邦暢