小泉八雲 こいずみ・やくも(1850—1904)


 

本名=パトリック・ラフカディオ・ハーン 
嘉永3年5月18日(新暦6月27日)—明治37年9月26日 
享年54歳(正覚院殿浄華八雲居士)❖八雲忌 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種1号8側


 
英文学者・随筆家。ギリシャ生。英国・セント・カスバーツ校中退。明治23年アメリカ合衆国の出版社通信員として来日。旧制松江中学校(現・松江北高等学校)の英語教師となり小泉節子と結婚。29年から東京帝国大学で英文学を講じ、日本に帰化「小泉八雲」となる。『知られぬ日本の面影』『心』『怪談』などがある。







 西の國からくる邪悪の陰風が、蓬莢の島の上を吹きすさんでいる。靈妙なる大氣は、かなしいかな、しだいに薄らいで行きつつある。いまは、わずかに、日本の山水畫家の描いた風景のなかにたなびく、長い光りの雲の帶のように、片となり、帶となって、漂うているばかりである。その一衣帶の雲の下、蓬莢は、その雲の下にのみ、今は存しているのである。それ以外のところには、もはやどこにも存在していない。蓬莢は、叉の名を蜃氣樓という。蜃氣樓とは、手に觸れることのできない、まぼろしの意である。そうして、そのまぼろしは、今やすでに消えかかりなんとしつつある。──繪と、歌と、夢とのなかにあらざれば、もはやふたたびあらわれぬかのように。
                                                       
(『怪談』蓬莢)



 

 ギリシャの小島で生まれ、2歳の時アイルランドに移り、両親の離婚によって大叔母に養育された。イングランドの神学校在学中の16歳の時、左眼を失明、父の病死、大叔母の破産など、辛く苦しい前半生であった。
 19歳で渡ったアメリカ大陸での20年に及ぶ放浪、紀行作家として明治23年春、41歳で来日して以来、日本人よりも「日本」を愛し、日本の女性を妻とし、日本に帰化したラフカディオ・ハーン。此の世よりも夢の世を好み、「浦島太郎」を心から愛した人。
 明治37年9月19日、突然の心臓発作に襲われ、その僅か一週間後、狭心症のため9月26日夕刻、14年余りを過ごした異国の地でこの世を去った。



 

 ラフカディオ・ハーンが好んで散歩したという雑司ヶ谷の墓地北端、一種一号あたりには永井荷風や泉鏡花、武林無想庵、羽仁五郎、大塚楠緒子などの墓が点々とある。
 平常から淋しい寺を好み、〈墓も小さくして外から見えぬようにしてくれ〉といっていたという。新宿・大久保の旧居の隣にあった自證院(瘤寺)が殊にお気に入りだったようで、葬式も瘤寺で行い、雑司ヶ谷の墓地に埋葬したのだった。
 右に「小泉家之墓」左に妻「小泉セツ之墓」を置き「小泉八雲之墓」は、その優柔とした楷書体の書体とともに、周辺の墓域を潔いものとしていた。墓前に供えられた左右の白菊が、なお薄明かりのように静止し、80数年を経た椎ノ木幹が八雲の夢に答えて、墓域を覆う暗緑の枝葉を支えていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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