幸田 文 こうだ・あや(1904—1990)


 

本名=幸田 文(こうだ・あや)
明治37年9月1日—平成2年10月31日 
享年86歳 
東京都大田区池上1丁目1–1 池上本門寺(日蓮宗)



随筆家・小説家。東京府生。女子学院卒。昭和3年結婚、翌年娘の玉(青木玉)が生まれるが、のち離婚。22年父・幸田露伴の没後、思い出を書いた文章が、24年随筆集『父–その死』として刊行された。『流れる』で新潮社文学賞、『黒い裾』で読売文学賞、『闘』で女流文学賞受賞。『おとうと』『北愁』などがある。







 花火とは、花のように美しく開く火ということだろうか。きっと競技会の会場では尺玉二尺玉、もしかすればもっと大きいのが打揚げられて、それこそ本当に空いっぱいに、きらきらぴかぴか、ぐうんと大きな大きな花に咲きひろがっていることだろう。いまここで、二本の指先につまんでともす、紙縒でこしらえた細長い線香花火は、同じく花火と名はつきながら、打揚げとはまるで一つの話にはならない子供のおもちやだが、それにはまたそれなりの目にしみる小さく可憐な美しさがあった。紙縒の先の火薬が燃え沸ると、ぱっとほとばしらせるのは、放射状の針の束のような火である。これを乱菊の花とみる人も、松の葉の群立ちという人もある。繊細な火の線がそう見えるのだが、やがてそれがだんだん出尽して小さくなると、おしまいには五ミリか三ミリか、ただかぼそくはかない一筋の火の線になる。これを柳とよぶ。柳のひと葉ひと葉に見立てて惜しむのだが、ついにそれも尽きてぽとりと、火薬はひと雫に落ちて消える。空いっぱいの闇に大きく咲く花も、手先の暗さに柳の葉のほそく散る火も、花火は目にしみ残る残像こそ、なごり深く思われるものだった。
                                                               
(闘)



 

 父幸田露伴の死後、文は少女時代の思い出を随筆『みそっかす』に綴っていく。父から聞いた〈おまえは暴風雨の最中にうまれたやつだ〉という言葉をずっと信じていた文はその随筆に〈あらしのさなかにうまれたといふ〉と一行をおろしたのだったが、〈暴風雨の最中〉というのは露伴の記憶違いのようで、文が生まれた明治37年9月1日の東京の天気は晴れであった。
 それはともかくも平成2年10月30日、最後の夜は激しい雨が降った。翌明けに息を引き取った母の死を、娘の青木玉は『小石川の家』に記した。
 〈あゝ母さんは風を起こし、雨を呼び雲を捲いて空に昇っていった、嵐のさなかに生まれた母は昨夜の雨風を引き従えて夜の引き明け刻にこの暗い空を勢いよく上昇していったのだ〉。



 

 昭和22年に露伴が死んだ。43歳になっていた文は、はじめて筆を執って追悼文を書いた。その時から文筆生活に入っていくのだが、父の代弁者としての価値しかない自分の存在を次第に嫌うようになって25年には断筆宣言をするのだった。翌年、柳橋の芸者置屋で住み込みの女中まで経験した。その体験をもとに書いた長編小説『流れる』によって本当の意味での作家になっていった。
 ——いま歳月を一にして、この塋域には父露伴がいる、母幾美がいる、姉歌子が、弟成豊が、10基に余る幸田一族の墓碑が囲み建っている。露伴の墓を斜に見た位置に「幸田文子之墓」もあった。背後に立つ樹齢を経た桜木が、暮れなずみゆく霊域の灯明のように、和らかく華やいだ薄幕をひろげていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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