小林多喜二 こばやし・たきじ(1903—1933)


 

本名=小林多喜二(こばやし・たきじ)
明治36年10月13日(戸籍上は12月1日)—昭和8年2月20日 
享年29歳(物学荘厳信士)❖多喜二忌 
北海道小樽市奥沢5丁目130 奥沢共同墓地 



小説家。秋田県生。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒。大正15年頃からプロレタリア文学へ傾倒。昭和3年「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)小樽支部に尽力。小説『防雪林』『一九二八年三月一五日』『蟹工船』を発表、プロレタリア作家として認められたが、昭和8年特高警察に逮捕され、拷問の末虐殺された。『工場細胞』『党生活者』などがある。







 鉱山でも同じだった。---新らしい山に坑道を掘る。そこにどんな瓦斯が出るか、どんな飛んでもない変化が起るか、それを調べあげて一つの確針をつかむのに、資本家は「モルモット」より安く買える「労働者」を、乃木軍神がやったと同じ方法で、入り代り、立ち代り雑作なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に! 「マグロ」の刺身のような労働者の肉片が、坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にして行った。都会から離れていることを好い郡合にして、ここでもやはり「ゾッ」とすることが行われていた。トロッコで運んでくる石炭の中に栂指や小指がバラバラに、ねばって交つてくることがある。女や子供はそんなことにはしかし眉を動かしてはならなかった。そう「慣らされていた。」彼らは無表情に、それを次の持場まで押してゆく。---その石炭が巨大な機械を、資本家の「利潤」のために動かした。

 (蟹工船)



 

 昭和8年2月20日、赤坂での街頭連絡中に特高警察に捕まり築地署に連行された。過酷な取り調べの果て、搬送された築地署裏の前田病院で19時45分、死亡が確認された。
 多喜二の死因を、検事局と警視庁は「心臓麻痺」と発表。死体の解剖を妨害し、死因の究明を不可能にした。翌21日、遺体は阿佐ヶ谷の自宅に返された。青ざめた顔は苦痛にゆがみ、打撲痕や内出血で全身腫れ上がった残虐このうえないもので、明らかに築地警察署内に於いての拷問による虐殺であった。無惨な息子の遺骸を抱いて、年老いた母は「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか」と声を浴びせた。
 日本の革命運動として最も困難な時期であったが、権力者と闘い権力者に殺された最初の文学者の死であった。



 

 社会主義者、共産主義者への弾圧があった三・一五事件の記念日、3月15日に多喜二の葬儀は労農葬として築地小劇場で執り行われることになったが、特高は執拗で、関係者の主だった者が逮捕され葬儀は中止となってしまった。
 多喜二の遺骨は、彼の愛した小樽・奥沢の地にある奥沢共同墓地の墓群れの中、彼自身が昭和5年に建てた墓に葬られた。海に背を向けて小樽の谷奥に位置する、この墓山の一方に開けた先に展がる風景は丘陵に家々を連ねている。北の深寥とした営みをわしづかみにしているような天狗山が見える。緑を深くした山塊は海からの風に乗ってきた、少しばかり黄淡色を帯びている弱々しい白雲をきっぱりと断ち切っていた。形だけの意志を拒否するかのように。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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