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以下の記述は主に山口村誌を参考にした。また白黒画像も山口村誌からコピー加工して掲載させて頂いた。
青石古墳
 山口の歴史は、後期古墳に属する横穴式石室古墳が1966年に下山口青石で発見されたことで飛鳥時代の七世紀前半にまで遡ることになった。
 この青石古墳は、山口町の北端、神戸市北区道場町平田に隣接した標高約250mの山中にある。奥行7.16mの横穴式石室を納めた直径約13mの円墳である。1967年の発掘調査では石室内から須恵器、鉄釘、馬具の金具等の鉄製品が出土している。
 このほか山口の各地から須恵器などの破片が採取されており、この頃既に農耕に従事していた人々がこの地に住んでいたことが想定される。
公智神社
 7世紀初頭の有馬温泉の発見以降、その入湯経路として山口は発展したようだ。日本書紀には、647年の孝徳天皇の有馬温泉行幸の記述があり、公智神社の参道入口には「孝徳天皇行在所祉」の石碑がある。山口の地名の由来はいくつかあるものの一般には「有馬温泉へ通じる功地山(こうちやま)の入り口」と考えられている。
 孝徳天皇の有馬温泉行幸の際の仮住まい用の材木が、当時の公智神社の鎮座地であった久牟知山から切り出された。その材木が非常に美しく、「功ある山なり」と讃えられたのが功地山の由来といわれている。その「功地(こうち)」が時代とともに公智に変わり、山口の氏神「公智神社」として現在に至っている。公智神社については、醍醐天皇の延長5年(927年)に完成した「延喜式」に記されている。
条里制にちなむ地名
 山口には奈良時代中期(750年頃)の条里制施行にちなんだ地名「六ノ坪」が小字として残されていた。またこの頃の地方行政制度ではこの地域は摂津国有馬郡春木郷に属していた。また近年まで明治橋東方に遺されていた「春道」「張道」といった小字も「春木」との関連を窺わせる。現在は、下山口会館北側の「山口春道公園」に唯一その名残りを留めている。(山下忠男著「町名の話」より)
功地山と北六甲台
 ちなみに功地山は、通称お天上山と呼ばれ、宅地開発により現在は北六甲台の住宅地となっている。北六甲台の天上公園には「公智神社旧鎮座跡」の石碑があり、碑文には、「当地は往古より功地山とよばれ、公智神社の旧鎮座跡なりしが、西暦約千年頃、現鎮座地に移遷す」と記されている。西暦千年頃といえば平安時代の紫式部が活躍した頃である。
 またお天上山の呼称は、現在も天上公園や天上橋にその名残りをとどめている。
鎌倉末期の山口庄
 鎌倉末期から室町初期の時代の古文書「四天王寺寺領帳」に1335年に「後醍醐天皇が山口庄を四天王寺に寄進される」との記載がある。
赤松氏支配の室町・戦国時代
 室町時代の山口荘の領主は赤松氏だった。播磨の豪族だった赤松氏は足利幕府から播磨国と有馬郡を含む摂津国の領有を認められていた。戦国末期に赤松氏一族で有馬郡淡河城主だった有馬(赤松)重則は、一族の内紛で領地を追われていたが、豊臣秀吉に救われ有馬郡領主に復帰した。その後関が原の戦いでは徳川方に属し、九州の久留米藩主に転封したその子孫は明治まで続いた。(「町名の話」より)
蓮如上人の布教
 1475年、浄土真宗本願寺第8世・蓮如上人が、越前吉崎からの帰路、名塩に暫く留まられた折りに、村内に教行寺の創建とされている草堂が建てられた。この頃、蓮如上人は山口でも布教され、その際に住民が作った道場に起源をもつ正明寺が今も残っている。これを機に山口では浄土真宗の信者が多数となり、現在も6カ寺ある仏閣の5カ寺が浄土真宗である。
丸山城址
 有馬郡誌等に「山口五郎左衛門時角がこの頃(室町時代末期の1540年代)に山口の地を支配していた」という記述がある。
 現在は丸山稲荷神社が祀られている丸山山頂には「丸山城跡」の石碑があり、次の碑文が記されている。
 「ここ丸山は、湯山街道・丹波街道を眼下に見下ろす要害の地にて、戦国時代、山口五郎左衛門時角の居城跡であった。多田源氏の一門、山口五郎左衛門は、所領三千石の山口郷を始め近郷一帯を支配下に納めていたが、天正6年(西暦1578年)、織田信長、中国地方に兵を進めるに当たり、配下の武将たちと交戦、戦い利あらずして滅亡したと伝えられている。(有馬郡誌)」
銭塚地蔵と山口五郎左衛門
 下山口会館の北側にある銭塚地蔵の由来記には、山口五郎左衛門の夫人が五郎左衛門亡き後、この地に移り住み二人の遺児を養育したとある。銭塚地蔵はこの夫人ゆかりの地蔵尊であり、境内には山口五郎左衛門の石碑も建てられている。
 現在のところ、山口五郎左衛門という人物の実在を立証する確たる資料はない。ただ公智神社には、江戸時代の1690年に山口氏が寄進した手水鉢が残されており、この地に山口という氏族がいたことだけは確かなようだ。
村落形成と検地
 16世紀後半、戦国の世は安土桃山時代を迎え、安定化に向う。隣接の有馬温泉への湯治客も増え、その物資や人材供給地としての山口も次第に村落が形成されていった。
 1579年には秀吉の山口庄に対する道普請の下知状が残されている。1594年の太閤検地では名来、下山口、上山口、中野、船坂の五ケ村でも検地が行われた。この時の検地では五ケ村合計で2440石の石高が記されている。
山口の所領の変遷
 関が原の合戦の翌年の1601年、それまで豊臣氏の直轄地であった有馬郡(山口も含まれる)は、旧領主・有馬則頼が再び領主となった。1626年には有馬氏は久留米藩に移封され、有馬郡は徳川幕府の直轄領となった。江戸中期の1746年、名来と下山口両村は田安家の所領となり、上山口、中野、船坂は直轄領のまま明治維新まで続いた。
山口での西国三十三ヶ所巡礼の信仰と浄瑠璃の隆盛
 現存する光明寺墓地等の西国巡礼供養塔の建立年号等から、江戸中期に下山口では西国三十三ヶ所巡礼の信仰が盛んであったことが窺われる。また山口に三人の浄瑠璃太夫の墓碑が残され、古い家の多くに当時の浄瑠璃本が残されていることから江戸中期以降には山口で浄瑠璃が盛んだったことが推測される。
明治維新直後の山口
 1868年に明治維新を迎え、旧幕府直轄領の上山口、中野、船坂は兵庫鎮台、兵庫裁判所、兵庫県と改称された行政機構の管轄下に置かれた。名来、下山口の旧田安領は、1870年に兵庫県に編入された。
 1871年の廃藩置県により旧兵庫県に尼崎、三田の両県も加え新たな兵庫県が成立し、有馬郡も全てこの管下となった。翌年の県内区画改編により有馬郡は摂津5郡第19区となった。
有馬郡山口村の発足
 1872年には従来の庄屋制度が廃止され、庄屋は戸長、年寄は副戸長と改称された。山口五ケ村にも戸長、副戸長が任命された。1879年に郡制が施行され三田に有馬郡役所が設置され、翌年には船坂村を除く山口四ケ村は「有馬郡下山口村外三箇村戸長役場」のもとで村行政が行われた。1883年に船坂村を含めて下山口組役場となり、1889年に山口村役場と改称し、有馬郡山口村として西宮市との合併に至るまで存続した。
戦時下の山口
 第二次大戦が激化し阪神地方への空襲が激しくなると、山口は神戸、大阪、西宮、尼崎等からの罹災者の避難地となった。1945年6月のピーク時には100世帯400人以上が疎開していた。また村内の光明寺や天理教会では、30〜40名の学童疎開を受入れていた。
 山口への空襲は、2度の銃撃による来襲があった程度で被害もほとんどなかった。
西宮市山口町の誕生
 行政事務合理化等の趣旨から町村合併が戦後の国策として推進された。神戸市は大倉山を中心に周囲20kmの隣接町村合併計画の構想を推進し、圏内にあった山口村にも合併打診を行った。山口村は、財政逼迫等の事情から合併推進の意向もあったが反対意見もあり、最終的に静観の立場をとった。隣接の有馬町、有野村は推進の立場で臨み1947年に神戸市と合併した。これを機に山口村でも合併機運が再燃し、村内世論の大多数の賛成を得て同年に神戸市に正式合併申入れを行った。ところが神戸市は、なぜか明確な態度を示さないままいたずらに時間が経過した。
 1950年末に西宮市から非公式な合併勧誘の打診があった。山口村は、神戸市との合併見通しが立たない中で西宮市との合併に向けた対応に着手した。最終的に1951年の村民投票で84.5%の賛成を得て、同年西宮市に正式合併申入れを行った。西宮市でも同年の市議会において山口村と塩瀬村の合併議案を可決した。
 以上の経過を経て、1951年(昭和26年)4月1日、西宮市山口町が誕生し、新たな1歩を踏み出した。