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 「大化改新の首謀者は孝徳天皇だった」という説がある。その出典は歴史学者・遠山美都男氏著作の「大化改新」である。山口ゆかりの孝徳天皇の事跡の再評価ともいうべきこの著作を解説し、所感を記した
 
■地元の公民館講座「山口町の歴史(古代編)」を受講した。その中で「大化改新の首謀者は孝徳天皇だった」という説が紹介され、その出典である歴史学者・遠山美都男氏著作の「大化改新--六四五年の宮廷革命--」も紹介された。
 かねてからその説を詳しく知りたいと思っていたので、すぐにネットで入手し新書版300頁の書籍に目を通した。学術書ながら読みやすくて面白い著作だった。序章と結章を除いて「国家形成と王権継承」「王権と藤原氏の歴史」「検証・乙巳の変--人間関係--」「検証・乙巳の変--発生と展開--」の四章で構成されている。
■「序章 六四五年六月十二日」では「乙巳の変」とよばれる「蘇我蝦夷・入鹿殺害のクーデター」の顛末をその出典である『日本書紀』をもとに物語風に忠実に再現する。一方で序章の結びでは、「書紀」の記述が中大兄皇子と中臣鎌足という事件の一方の当事者たちの主張であり、それは二つの点で再検証が必要であると疑問を呈する。一つは「中大兄が事件前後において(略)有力な王権継承予定者だった」という点であり、今ひとつは「中大兄と鎌足の強固な主従関係が(事件前の)早い段階から存在し、これが、クーデターとその後の政局の一貫した中核であり続けた」という点である。古代史最大の謎のひとつである「乙巳の変」を巡る壮大なドラマが幕を開けた。
 
■第T章「国家形成と王権継承」は、学術的な記述にもかかわらず一気に読了できる魅力的で読みごたえのある内容だった。この章のテーマは、「中大兄皇子が事件前後において(略)有力な王権継承予定者だった」という『日本書紀』の記述に対する学術的な疑問を投げかけることである。読了した感想を述べれば著者の意図は十分に達成されていると思った。以下、その骨子を整理する。
■冒頭、日本列島の諸集団を「代表」する最高首長「倭国王」は、後漢の光武帝から下賜された「倭奴国王」の印綬にみられるように中国王朝に対する従属関係を契機に誕生したと説き起こされる。その後の「倭国大乱」を経て、三世紀末に各地の政治勢力が、前方後円墳をシンボルとした列島規模の連合体を結成した。この連合体の首長が、もともと大和国南東部を本拠とした首長で、彼を中核に日本列島は「統一」された。この頃の最高首長に求められたのは軍事指揮官としての能力の卓越性だった。五世紀に入り『宋書・倭国伝』にある「倭の五王」の時代になり、「倭国伝」からこの時代の王権の継承のされ方が窺える。即ち「宋書」が倭王「珍」と「済」の間に続柄を記さない点に王家の分裂、交替が推定される。いい換えればこの時代には最高首長を出す集団がいくつか存在していたことになる。
■五世紀から六世紀にかけて人民支配システムとして伴造(とものみやっこ)・部民(べのたみ)制が整えられた。列島を「代表」する最高首長としての大王とその一族に対する貢納・奉仕を各地の首長配下の諸集団に負担させるシステムである。この伴造・部民制を通じて貢納・奉仕を受ける特殊な集団の固定化、すなわち支配者集団内部の王族という特殊血液集団が確立した。
■六、七世紀の王権継承は、王族という血液集団内の異母兄弟姉妹の関係にある同母の集団の同一世代という条件を重視した王権継承原理があった。つまり支配層の合意にもとづいてある一定の世代から大王に相応しい人物を次々に選び、該当者が尽きた後、次の世代の大王たる人物を求めるというものだった。そうした原理が登場した背景に伴造・部民制の強化・拡充がある。伴造・部民制が全国的に拡充されるに従い、大王たる者にはこの制度を巧みに統御できる能力の充実度が期待されるようになる。それは年齢的・人格的成熟度に依存するところが大で、ここに世代と年齢に重点をおいた王権継承原理が整えられていった。これが大化改新当時の七世紀の現状だった。したがってこの時期に十代後半だった中大兄皇子に王権継承資格があったとは到底考えられないというのが著者の結論である。
■正直いって驚いた。現在の「直系男子の長子による皇位継承」が古来からのごく当たり前の皇位継承原理のように受けとめていた。そうした原理が確立するまでには支配層内部の葛藤と人民支配システムの変貌などの推移があったことを学術的に解き明かされていた。「王権の世代内継承という原則」のもとでの「乙巳の変(大化改新)」だったのだ。著者の指摘は十分納得性があると受けとめた。
■第T章ではこのほか、「蘇我氏が王権を簒奪しようと企てた」という「乙巳の変」(蘇我蝦夷・入鹿殺害のクーデター)の大義についても疑問を呈している。蘇我氏は、あくまで王権に依存・寄生する存在として生まれたことを学術的に検証し、王権の存在の否定は蘇我氏自身の自己否定につながるものだというわけである。久々に知的好奇心をいっぱい満たされた書籍に出合った。
 
■第U章「王権と藤原氏の歴史」を読んだ。「中大兄と鎌足の強固な主従関係が(大化改新前の)早い段階から存在し、これが、クーデターとその後の政局の一貫した中核であり続けた」という『日本書紀』の記述に対する疑問点を提示することがこの章のテーマである。
■「中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が中心となって宮中で蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼした後、中大兄によって大化改新が断行された」。これが『日本書紀』『藤原家伝』を原史料とした通説である。この筋書に沿って『書紀』は大化改新の主役二人が事件前の早い段階から強固な主従関係があったとする。この点についての疑問を呈することで、筆者は中大兄の大化改新首謀者説そのものにも疑問を呈する。
■「王権と藤原氏の関係が、中大兄と鎌足との関係に遡るというのは原史料の編纂主体であった藤原仲麻呂(鎌足の曽孫)の主張に過ぎず客観的な事実とはいい切れない。史実は天智天皇(中大兄)の後継争いだった壬申の乱では、鎌足死後の中臣(藤原)氏の後継者は敗れた大友皇子側にあって斬首された。従って勝者の天武天皇(大海人皇子)の治世では中臣氏は王権との関係構築はゼロからの出発だった。鎌足の娘二人が天武天皇のミメ(側室)になったことで藤原氏ははじめて王権との身内的関係が形成され始めた。それは鎌足の次男・不比等の代であり、その関係を発展させる形で不比等は娘の宮子を天武の二代後の文武天皇の夫人に立てることができた。文武と宮子の間に生まれた男子が後の聖武天皇になる。王権と藤原氏の特殊な関係の起点は、不比等の代にもとめられるもので、鎌足の代はあくまでその萌芽をなすものである」
■以上が、筆者のテーマについての見解の要点である。第T章での「中大兄皇子が事件前後において有力な王権継承予定者だったのか」というテーマでの見解ほどの説得性には及ばないというのが感想だった。特に大化改新前の早い段階からの「中大兄と鎌足の強固な主従関係」への直接的な疑義の説明はない。実証可能な史料がない中では、王権と藤原氏の関係の成立過程を類推するという言わば状況証拠によってしか語れないのだろう。とはいえそうした手法を駆使しても自身の仮説を裏付けたいという筆者の熱意はひしひしと伝わった。
 
■第V章「検証・乙巳の変--人間関係--」を読んだ。「乙巳の変に関係した人々の実像を探り相互の関係についての検証を通じて、この事件の真の主役が誰だったのかを明らかにしようというのがこの章のテーマである。92頁と最も多い紙数を割いたこの章は、そのテーマからして著作の核心ともいうべき部分である。
■この章では「書紀」「家伝」などの原資料に記された「乙巳の変」の登場人物ひとりひとりの実像が、氏族名や本拠地の地名などを関連付けながら地縁、血縁から人間関係を再構成するという手法で解き明かされる。それは中臣鎌足から始まって即位後に孝徳天皇となる軽皇子、孝徳朝の左大臣・阿部内(倉梯)臣麻呂、蘇我氏分家筋の蘇我倉山田石川臣麻呂、入鹿殺害のクーデター派の将軍・巨勢臣徳太、孝徳天皇側近の大伴蓮長徳、実戦部隊長としての中大兄皇子、新政権の政治顧問(国博士)の僧旻と高向漢人玄理、入鹿殺害の刺客であった佐伯蓮子麻呂、葛城稚犬養蓮網田、海犬養蓮勝麻呂、入鹿の帯剣をはずさせた俳優(ワザオギ)等の人物像である。
■この章の最後に主題が「まとめ」として次のように簡潔に述べられている。「中臣鎌足は河内・和泉に割拠する配下の同族を通じ、和泉国和泉郡に宮をもつ軽皇子を主人として早い段階から仕えていた」「軽皇子は世代・年齢を重視した王権継承が行なわれていた当時において有力な大王候補としてみとめられていた」「(上記の)クーデターに参加したことが明らかな人物、(略)クーデターに関与したことが窺える人物のほとんどが、和泉国和泉郡やその周辺地域にそれぞれの拠点や勢力を有し、そうした地縁を通じて軽皇子との間に何らかの接点をもっていた」「クーデター政権は、(略)飛鳥から難波に出て、そこに壮大な難波長柄豊碕宮を造営する。(略)これはクーデターを起こした人々の多くの本拠が難波に程近い和泉・河内地方にあったことが大きく関係している。(略)彼らの勢力圏内にその政権の威容を誇示する大王宮を建設した」「これらのことから、通説では中大兄・鎌足主従の陰に追いやられていた軽皇子その人こそ、『乙巳の変』の真の主役であったと断定できる」。
■あとがきに「断片的な氏族名や地名などを通して古代史のさまざまを再構成していくという視点と手法」を先人の学者に学んだと記されている。物証の極端に少ない古代にあって史実をそうした手法で解き明かすことは不可避の営みだろう。それにしても推理小説的な面白さはあるにしても、膨大な文献を緻密に詳細に根気よく当たっていく作業である。私たちはそうした営みの成果をこの書籍からいとも容易に享受している。
 
■第W章「検証・乙巳の変--発生と展開--」を読んだ。著者は「中大兄と鎌足を中心とした『乙巳の変』というクーデターとその後の『大化改新』の実行」という通説に対し次の点から反論した。即ち「十代後半だった中大兄に王権継承資格があったとは到底考えられない」「鎌足の次男・不比等の代から始まる王権と藤原氏の特殊な関係から、改新当時の中大兄と鎌足の主従関係は想定できない」と論じ、その上で直後に即位して孝徳天皇となった軽皇子こそ「乙巳の変」の中心人物だったと断じる。前章までのこうした展開を踏まえて、第W章では著者の独自の視点から「クーデターの背景と真相」が語られる。
■事件の背景には推古帝以来の二人目の女帝である皇極帝の王権譲位問題があったと論じる。本来、王権継承時の混乱防止の安全弁であった女帝の役割りが、推古帝の予想外に長期化した在位によって、有力後継者たちが相次いで早逝し、混乱を招く結果となった。この二代前の女帝の王権継承時の混乱を受けて、皇極帝は即位当初から「譲位」という重い課題を負っていた。即位当時、有力な皇位継承者には四人の皇子がいた。厩戸皇子(聖徳太子)の長子・山背大兄王、皇極帝の同母弟・軽皇子、舒明天皇の皇子で唯一の蘇我氏の血を引く古人大兄皇子、古人大兄の異母弟・中大兄皇子である。
■皇極二年(643年)、古人大兄を擁する蘇我入鹿の勢力と軽皇子を擁する勢力が山背大兄王を襲い自害に追い込む。支配層内の両勢力による譲位に向けた第一歩であった。これにより当時王権継承には若すぎる中大兄を除けば譲位の対象者は軽皇子と古人大兄皇子の二人に絞り込まれた。次に予定されたのは、両派のいずれがどのように皇極帝から譲位を受ける条件をつくり出すかということだった。それは軽皇子派によって巧みに先手を打たれることになった。
■以下は、著者の語る乙巳の変の顛末の概要である。「皇極四年(645年)6月12日、古人大兄と蘇我入鹿は皇極帝から飛鳥板蓋宮に招集を受けた。二人が「大殿」に入ると突如数名の刺客が殺到し入鹿は惨殺される。かろうじて虎口を脱した古人大兄は宮のある大市に逃げ帰る。古人大兄を取り逃がしたものの、入鹿殺害に成功したクーデター派は、皇極帝と軽皇子を伴い飛鳥寺に入り本陣とする。入鹿の父・蝦夷は反撃の旗印となる古人大兄との連絡すらとれないまま甘橿岡の邸宅で支持勢力による武装を強化する。クーデター派は将軍・巨勢臣徳太を甘橿岡に派遣し、古人大兄が起つ気配のないことを強調し蝦夷援護の無益を力説する。蝦夷陣営は動揺し離脱するものが続出し、あっけなく軍陣は瓦解する。翌13日、古人大兄は飛鳥寺でクーデター派の見守る中、髪を落とし出家する。古人大兄の出家という決定的な報を聞き、蝦夷は一族もろとも自決する。翌14日早朝、皇極帝と軽皇子は飛鳥板蓋宮に戻り、予定どおり軽皇子の即位礼を執り行った」。
■著者は、この「乙巳の変」が我が国の王権争奪という支配階級の権力闘争の歴史の原形とみる。平治の乱で平清盛が後白河上皇を源義朝から奪い返すことで逆転勝利したこと、都落ちを余儀なくされた平氏一門が幼い安徳天皇を擁したこと、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が「錦旗」を前に無残な敗北を喫したことなど、「玉」の争奪をめぐる権力闘争の原形である。それは「乙巳の変」が、その直後に行われた「大化改新」という国政改革を目的としていたという「書紀」の記述にもとづく通説への反論の有力な根拠でもあった。 
 
■結章「『乙巳の変』のあとにくるもの」を読んだ。非常に興味深い二つの記述があった。ひとつは事件を生みだすことになった当時の東アジア情勢について論じたものだ。今ひとつは我が国史上初めての「譲位」を実現させた背景に大王への貢納・奉仕の関係の質的転換という国内事情があったという指摘だ。
■当時、東アジアは次のような情勢にあった。「唐と高句麗の対立は全面戦争の危機をはらみ、開戦前夜の国際的緊張は、朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)で頻発する政変と内乱となってあらわれた。そうした激変する国際情勢に対応し、国内の支配層を強力に結集できる人格・資質を備えた大王の擁立は支配層全体の念願するところだった。(略)譲位が予定されている女帝は不安定極まりない存在だった。(略)しかるべき人物を大王に立てることが、東アジアの動乱の中で支配層全体の利益を守り抜く唯一の道だった」。クーデター決行の背景のひとつに当時密接に繋がっていた東アジア諸国の情勢がもたらす危機感を指摘したもので説得力のある論旨だった。
■一方で著者は「乙巳の変」は我が国で初めて「譲位」を実現したという点で王権継承の歴史上、画期的なできごとだったと指摘する。「従来、大王によって継承される王権の内容は、大王に対する個々の貢納・奉仕関係の集積だったため、これらを個々に大兄や大后に分掌させることはあっても、一括して他者に委譲することは困難だった。ところが、譲位を企画・構想できたということは、大王に集中された貢納・奉仕の諸関係を大王生存中に大王から引き離し、他者に委譲することが可能になっていたことを意味する。それは、貢納・奉仕の諸関係の集合体である伴造・部民制自体が制度的に発展の極に達し、その内部改革なくしては存続が困難になっていたことを窺わせる」。譲位実現の背景に当時の経済構造という政権基盤そのものの変化を見据えた指摘もまた納得性の高い論旨だった。
■著作の最後の文章もまた印象的だった。「『乙巳の変』の前後、列島各地の首長層の頂点に位置する王権は、伴造・部民制の解体を迫られていた。王権は、伴造・部民制を構成した各級首長層の階級的な利害を調整し、彼らを領域的に編成していくことを通じ、首長配下の農民個々人に対し、初めて本格的に支配の手をのばし始めたのである。七世紀末には「治天下大王」改め『日本天皇』が、首長配下の農民一人一人の前に、はじめて、その姿をあらわすことになる」。著者が著作の中で天皇のことを一貫して「大王」と記述していた所以であった。それはあくまで史実を追い求め客観性というスタンスに徹する学者としての矜持を思わせた。
■300頁の新書版の著作を二度読み返した。歴史学というジャンルの本質の一端を垣間見た気がした。唯一心残りは、第三章の末尾に「クーデターの中心人物だったはずの軽皇子が、なぜ主役の座から転落したのか。その回答もクーデターの発生と展開を検証し、『乙巳の変』の史実を引き出すことによって得られるはずである」として、その興味深いテーマを次章に振られたものの、第四章ではどこにもその回答を得られなかった点だった。