感想注意報
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 例えば、街であったイベント。
 例えば、デパートの中であった出来事。
 例えば、電車の中から一瞬だけ見えたシーン。
 例えば、新聞やテレビで報道された事件。
 例えば、自分が遭遇した場面。

 そんななかで、「これはこれは・・・」と思った事柄について、その感想をつらつらと書いているページです。(勿論、ノンフィクション)

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テレビ局のやり方
アマデウス すぐそこにある未来
禁断症状 自分の限界を知ること
レシートは? 迷惑メール
それでもケータイはいらない ケータイはいらない


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テレビ局のやり方
 ・2002/11/30

 『街中の劇物』のような内容のページを作られている方は、経験あるかも知れません。
 実は先日、とあるテレビ局から朝の情報番組の某コーナーで使用するためのネタとして、僕のページの実物がどこにあるのかを教えて欲しい、という内容のメールが来ました。その局からは以前にも同様のメールが来ていたが、その時は問い合わせのあったページの実物は既に消滅していたので、その旨を返信しました。
 今回の分は、確認できていなかったのですが現存している可能性が高いので、地図サービスで場所を特定して返信しました。11月25日に放送したいとのことだったのですが、その後の連絡もなく、どうもボツになったらしいと思っていたのです。念のため、その番組を録画しておきました。
 後日、再生してみると。
 某コーナーでは『Hの謎』『電柱時計』が取り上げられていました。少なくとも『電柱時計』は問い合わせのあった物件です。『Hの謎』はそうではなかったのですが、場所自体はページにも書いてあるのですぐ分かります。
 別に、僕がその物件自体を作ったわけじゃないので、放送ネタとして使うのは全然構わないし、とやかく言う立場にもありません。しかし、僕が公開しているページを見て、しかも、場所の問い合わせをしてきて実際に放送で使うのであれば、いや、使う使わないに関わらず、折り返し連絡してくるのが礼儀なのではないだろうか。
 僕がそう考えるのはおかしいのだろうか?
 「どこぞのページに面白そうなネタがあるから、場所の確認すっか」といったノリでメールを出して返事があれば儲けモノ、ということなのか? 場所さえ分かれば、ハイそれまでよ、ってか。
 まぁ、それならそれでいいけどさ。
 それが、そのテレビ局のやり方ならば、今後、僕はそれに答えないだけだから。

 やりとりについて、ちょっと頭にきたのは以上のことなのだが・・・。
 それ以前に疑問に思ったことがある。
 それは・・・、番組の担当者という人が使っているメールアドレスが、hotmailのアカウントなのだ。フリーで匿名のメールアカウントを仕事に使っていること自体が物凄く怪しい。予算のない局ならいざ知らず、キー局の人が自前のメールアカウントを持っていない筈がない。もちろん、自分自身のメールアカウントでなくても、番組用アカウントだって作れるはずなのに、わざわざフリーのメールアカウントを作らなければならない理由は何なのだろう。しかもhotmail(笑)
 僕の知っているサイトでは、フリーのメールアカウントでは中身を見ずに即削除と公言している人もいる。
 すべてがそのテレビ局のやり方だとは思っていないが、半分常識といったところなのだろうか。
 別世界には別世界で通用する常識があるのかもしれない。
 でも、僕は僕が信じる常識がある。
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アマデウスネタバレあり
 ・2002/11/04

 『アマデウス』といえば、アカデミー賞を何部門も取った映画である。
 最初の公開時に、友人と観に行ったことがある。今回、ディレクターズ・カット版が公開されていることを知り、観にいってきた。20分あまりの未公開部分が追加され、前回観たときに多少ぎこちなかったシーン間のつなぎが解消されていることもあり、だいぶ満足。
(サリエリが暖炉に十字架を投げ込むシーンについては、今回追加されたシーンによって、より強い意志であったことが分かった。ただし、追加シーンが全体のイメージからすると浮いていることは否めないが)
 さて、この映画の言わんとするところ。僕が思うに、才能は不平等に与えられ、神様はそれに関与しない、というところ。
 僕自身はどの宗教にも無関心で、強いて言えば八百万の神だったらいそうだな、くらいのものでしかない。だから、キリスト教信者の心理まで踏み込むことはできない。ただし、主人公であるサリエリが、暖炉の火の中に十字架を投げ込むシーンは、そんな僕でも衝撃を受けた。
 「シンボルを捨てる」ことは、それだけで非常な重みがある。今回さらに気が付いたのは、モーツァルトが死んで墓場に捨てられるシーンである。大きな穴に、他の誰とも知れない袋入りの遺体と一緒にされるモーツァルト。彼は時代のシンボルであって、サリエリにとっては同時に神の代理としてのシンボルであった。
 つまり、サリエリは、二つのシンボルを捨てることになったわけである。
 神と、神の代理であるモーツァルトを捨てた人間。それをできるのが、神を捨てることができる立場であったのが、凡人の中でもっとも神に近かった男、サリエリであったのだ。
 凡人の中の神になった男は、神の声である音楽を知り、モーツァルトを通してではあるが、その声の出現の一端を垣間見、一体となった。
 その音楽は我々の身近にあり、凡人の神ではなくても心を委ねることができる。

 とはいうものの、やっぱり宗教に関心のない者にとっては、神対自己なる構図は理解しづらい。でも、冒頭のシーンから始まる音楽は、そんなことは関係無しに染み通ってゆくし、モーツァルト対サリエリの自信と挫折のせめぎ合いとみれば分かりやすい。

 追加であるが、先日『絶対音感』という本を読んだことも、この映画を再度観たくなった一因である。
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すぐそこにある未来
 ・2002/10/06

 CEATECという催しをご存じだろうか。
 少し前まではエレクトロニクス・ショーと呼ばれていた、いわば民生用電子技術の展覧会のようなものである。
 僕はこの催しを毎年見学しているが、会場に来る毎につまらなく思えてくるようになった。
 それはなぜか。
 あまりにも近い未来の技術が展示されている感が強くなってきたからだ。出品されている新技術、新部品、新製品は、来年、半年後、下手すればすぐにでも市場に出てくるモノばかり。そんな、少しだけの未来を見に行ったって、ワクワクするどころか、逆に「単にそれだけ」という想いがわき上がってくるだけである。
 ちなみに、昨年は高精細液晶やプラズマディスプレイの展示が非常に多かった記憶がある。それが今年はどうであろう。すでに高額ながら市場に出て、無理すれば手に入れることができるのだ。
 ずっと前であれば、僕は目をキラキラさせて会場を行ったり来たりしていた。目に飛び込んでくる展示品に、いつかは実現される夢として、まさに未来を感じていたはずだ。
 長引く不況が企業の技術開発力にブレーキをかけているのか。あるいは、ショーに出展すること自体が難しくなっているのか。確かに、昨年に比べて会場(幕張メッセ)の展示スペースは減少している。数えてはいないが、出展企業数も減っているのだろう。
 少なくとも大企業の総合展示の内容はどこも似たり寄ったりで、看板を付け間違えていても全然気が付かないことだってありうる。各社の技術力は拮抗していて、なおかつ、同じ方向を見ている。
 長いスパンの開発よりも、すぐ金になる技術を。
 技術力の誇示よりも、脱落していかない方策を。
 なんだか、息切れしている様子が見えるようである。

 僕は、夢を見すぎているのだろうか。現実が見えなくなっているのであろうか。それとも、勘違いをしているのだろうか。
 来年は、どんな遠い未来を見せてくれるだろう。明日の技術を見せてくれたって、嬉しくないのだ。
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禁断症状
 ・2002/08/10

 禁断症状というと大袈裟だが、他に譬えようがないので(笑)
 で、何の禁断症状かといえば「本屋」である。
 通勤経路上に駐車場のある本屋があり、文庫本の品揃えの豊富なこともあって、会社帰りには良く立ち寄るのだ。良く立ち寄る、と言うよりも、営業時間中ならば寄る、と言った方がいいな。
 何も買う予定が無くて、素通りしたって何の支障もないんだけど、本屋の中をうろうろするだけで気分がすっきりする。必要な本を買ったり、ふと目にとまった本をレジに差し出すときなんかはホント幸せだ(大袈裟)。
 ところが、このごろ会社を出る時間が遅く、本屋の横を通り過ぎる頃はシャッターが閉まっている日ばかり。その本屋は夜10時が閉店時間で、少なくとも9時過ぎに会社を出なければ間に合わないのだ。
 今週は全く寄ることが出来ず、灯りの落ちた本屋を横目で見ながら車で通り過ぎるとき、焦りにも似た感情が噴きあがってくるのだ。週刊雑誌ならば日が過ぎると手に入らなくなることもあるけど、文庫本や月刊誌ならば、週1回でも行けば用は足りる。いや、この本屋ならば半月に一度でも大丈夫かも知れない。
 だけどダメなのだ。
 それじゃダメなのだ。
 例えば、酒飲みが毎日晩酌をし、たばこのみが一段落の時に嗜み、コーヒーを飲むように、それが無くなると穴が空いてしまうようなものなのである。こう書くと、禁断症状とは言い過ぎのような気もするが、ザワザワ、ジンジン、ピリピリと感じる何かは、そこに行かなければ解消されないのだ。
 なぜ本屋なのか。
 自分でもわからんが、未だ知らない何かがあって、暫定的にはただで情報を見つけることが出来(立ち読みですな(笑))、必要ならば自分のものに出来る、からなのだろう。さらに言えば、自分の眼力でその質を問うことが可能である(かもしれない)ことに、挑戦的楽しさみたいなものを感じているのだ。
 まぁ、それはそれとして、最初はそうだったのかも知れないが、一旦習慣がついてしまうと理由が何であれ、実行すること自体が目的になってしまうからな。大層な理由を付けたって、所詮はそんなもんだ。

 とにかく、本屋の中で、本の林の中を、歩きたい。

 ただ、本や雑誌を買ったはいいが、次に問題になるのは・・・・、「読む時間」である(涙)
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自分の限界を知ること
 ・2002/07/20

 7月20日は「海の日」で当然の如く会社も休みなのだが、まぁいろいろとあって休日出勤となりました。
 平日は暑さのために中断している自転車通勤を、今日は復活。途中のコンビニで昼飯用のおにぎりやパン、飲み物、煎餅を買い込み、右手に持ちながら残りの行程数キロを走っていた。
 会社へあと数分のところで、女子高生が二人、自転車に乗ってこちらに向かってくるのが見えた。歩行者と自転車の兼用の歩道で、両側には植え込みがある。僕は車道側の植え込みのすぐ横を走っていて、最初の女子高生はほぼ真ん中を走っていたのだが、逆側に避けてくれた。
 そして、その後ろを走っていた女子高生を確認できた瞬間、なんとこちら側に向かって来るではないか。僕は避けようにも、植え込みがあるため、これ以上は寄れない。
 「何でこっちに来るんだ」と思ったかどうかは記憶にないが、彼女が片手にケータイを持ち、僕のことを全く認識できていないことだけは分かった。

 ぶつかった直後、僕は二つに破けたコンビニの袋だけを持って、かろうじて自転車を倒さずに止まることができた。右手に衝撃を受けたことは分かったけど、昼飯の所在だけが気になっていた。
 「すいません、すいません、すいません。」
 彼女はすいませんをひたすら連呼している。多少、声が震えていたようだ。僕は、
 「おにぎりが・・・」
 などと、とんちんかんな受け答えをしてしまった。なんじゃこりゃ(笑)
 僕の足下には、パン1個とペットボトルが1本、煎餅の袋が落ちていた。おにぎりともう1個のパンとペットボトルが見あたらない。まだ、少し呆然としている僕がそれを拾っている間に、彼女がすいませんを連呼しながら、植え込みのなかにそれらがあるのを発見した。
 僕は、僕の自転車からそう遠くないところに、彼女が手にしていたケータイが落ちているのを見つけた。
 そのとき、僕の右手人差し指の爪のすぐ上側の皮がべろっと剥けて、血が出ているのに気が付いた。まだそんなに痛くない状態だったので、傷口をなめながら、どの程度の傷なのかを確認しようとしたら、彼女が絆創膏をくれたので、とりあえずそれを巻き付け、さらに、破れたコンビニ袋のかわりに小さな袋をくれた。

 とまぁ、自転車同士が正面衝突したという事故であるが、大した怪我もなく、自転車自体も壊れていない。
 ただ、この事故を防ぐことはできたのだろうか、と考えると、今後は増えていく可能性が高いと判断せざるを得ない。なぜなら、ケータイが、今まで何気なく出来ていた行動を壊しているからである。
 自転車で走ることには、もちろんペダルを漕ぐことは必要であるが、それ以上に周囲の状況を判断する能力が必要なのである。正常な状況判断は、自分の行動の限界を知ることでもある。しかし、ケータイが存在することによって、状況判断能力は格段に落ちる。問題は、にもかかわらず行動の限界を従来通りとしてしまう精神構造にあるのだ。
 ケータイでメールをうちながら歩いていて、人とぶつかったことはないのだろうか。僕はぶつけられたことが何回かある。歩いているときでさえこの状態なのだ。より難しい行動をしているときに何でケータイを使えるのだろうか。
 まぁ、ケータイだけが悪者なのではないが、自分の限界を知ること、あるいは、限界を押し下げる要素がある行動の追加について、ことあるごとに考えなければならないと思う。

 それだって、頭を使って想像することが、まず初めにすることだと思うけどね。
 痛い思いをする前に。
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レシートは?
 ・2002/07/14

 マックで昼飯を買って、近くのベンチでハンバーガーとポテトを食べていたら、レシートをもらっていないことに気が付いた。そういえば、以前から、もらった記憶がない。

 TSUTAYAで本を買ったとき、お釣りを渡されてから「レシートはお入り用ですか?」ということを尋ねられるようになった。以前はお釣りと一緒にレシートを渡されたのだが。

 コンビニでは、いまだにレシートをくれたりくれなかったりする。

 まぁ、いいんだけどさ。
 お代はちゃんと払っているんだから。
 ただ、マックのやり方が一時的なものなのか、それとも全店で統一された方法なのかにもよるけど、問題なのではないか? 少なくとも、代金の根拠が、レジの担当者が発する言葉だけだということに、客はあまり疑問を感じていないのもあるけど。(実際には、レジに表示される数字も見るけど、それ自体が正確かどうかを判断する術が無いのだ)
 穿った見方をすれば、会計システム自体が丼勘定ということもあり得る。
 いくらの買い物をして、消費税を加えた総額がいくらになっているのかを、きちっと見せてくれないことには、いくらハンバーガーを安くしたところで、「安心を買う」とは違うことになるんだよな。
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迷惑メール
 ・2002/07/07

 Web Pageでメールアドレスを公開している人は、一度や二度どころではなく、場合によっては日に何通もこういうメールが来ていると思う。
 迷惑メールである。
 ただ、僕自身は、手間ではあるけれどそういうメールを削除しつつ、いろいろな商売(場合によっては商売じゃないこともあるけど)があるなぁと思うだけである。来ないことに越したことはないが。
 どうせ、自動巡回やメールアドレスリストの売買か何かで手に入れたアドレスを使っているのだろうけどね。効果あるんだろうか。

 それはそれとして、内容を見て、もっとも嫌だと思うのは、

「この情報が必要のない方は、(このメールのアドレスに)返信して・・・」
 というような文言が書かれているときである。
 アホか。
 なんで、そんなことをせにゃならんのだ。

 例えば、こんな場面に例えてみよう。

 押し売り人「今日はいいものを持ってきましたよ」
 私「必要ないのでいりません」
 押し売り人「私の仕事は売り込みだけなので、断るのであれば、事務所に電話をかけて断ってください」
 私「あなた、そちらの都合で売りに来て、断るのに何で私がそんなことしなけりゃならんの?」
 ってなもんだ。
 きっと誰かがこういうメールを出す際に採った方法が広がったのだろう。アホ丸出しである。真っ正直に断りのメールを送ったら、どうなるもんだか分からんな。
 なにしろ、新しいメディアだから、どういう手法があってもさほど驚かないけど、世の常識や手順というものを踏み外さないようにしてもらいたいね。
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それでもケータイはいらない
 ・2002/06/12

 前項の続き。
 実は、ケータイにおいて、メール機能自体は有効だと思っている。電話としては、リアルタイム性が強く、だからこそ縛られているというイメージが先行してしまっているのだ。その点から言えば、メールは読みたいときに読んで、書きたいときに書けて送れる分、精神的な余裕がある。
 ところが、実際には、着信したときにメロディが鳴ったりするのである。ぶるぶると震えたりするのである。これじゃ余裕も何もあったもんじゃない。

 ・・・と、ここで問題点を着メロに切り換える(笑)
 まったくガキの自慢大会だ。
 聞きたくもない音を、大きな音量で聞かされ、メロディを度々入れ替え、和音の数がどうこうだのと、自分以外のことを気にかけるなんてことはさらさらないようである。自分の持ち物が他人に対して影響を与える、なんてことは思いもよらないのだろう。
 あなたが聞きたい着メロなんて、俺は全然聞きたくねぇんだよ(怒)。
 電車内で、ヘッドフォンから漏れてくるシャカシャカ音が傷害事件につながった、なんてニュースは、もう大昔のようである。しかし、着メロの傍若無人さは根本でつながっているのだ。

 ・・・と、ここで問題点をマナーに切り換える。
 ケータイの電波が心臓ペースメーカを誤動作させるとか、通話中の声がうるさいとかで、電車内のケータイの使用は避けて欲しいとアナウンスがある。うるさいのである。そんなことを注意されなければならないこと自体がうるさいのである。一向になくならないのである。ガキである。
 ケータイの電波が問題になるのであれば、車内では電源を切らなければならない。アンテナから電波が出ること自体を停止させなければならないのである。ケータイが定期的に電波を出していることは一般的に知られていることとは思うが、通話はもちろん、メールのやりとりだって、情報の検索だって、どっかのアンテナと電波のやりとりをしているわけだから、持っているだけでそういうことに対する危険性はあると言える。
 実際にはそれほど心配する必要はないのかも知れないが、自然な行動として気を遣う、ということができない人びとはなくならないであろう。なぜなら、そういうマナー感覚が日本人の多くに欠如しているからである。街中のゴミ。信号無視。無灯火自転車。人混みの中のタバコ。そして、ケータイ。
 これらの中に共通する問題が、ケータイにも現れている。
 自分しか見えない状態が。

 直接的な理由ではないけれど、ケータイを持つことによって、ケータイを持っている人びとにとっての常識が押し寄せてくることが嫌な感じなのである。
 だから、それでもケータイはいらない、のである。いまのところ。
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ケータイはいらない
 ・2002/06/01

 以前より、いろいろな人から「携帯電話を持たないのか?」という話をいただく。
 その都度、「必要ないから」と答えている。多分、仕事をする上では、持っていた方がいいのだろうけど、無ければ無いでなんとかなる。(外回りの仕事じゃないので)
 なぜ持たないのか?
 それは、存在を捕捉されるのが嫌だからだ。
 もう一つは、もはや携帯電話はケータイというおもちゃだからだ。

 一人でいる時間が大切なのである。
 他の何モノにも邪魔されたくない時間が欲しいのだ。
 いつ何時、その状態になるかは自分自身でも分からないが、少なくとも、仕事をしている最中だって、余計なことに気を取られたくない。フリーな時間なら、なおさらだ。ケータイを持っているだけで、自分の存在は他人の都合によって捕捉され、否応なしに自分だけの時間を無にされてしまうのだ。

 ケータイは、初期の目的、つまり、無線電話としての役割は遂げ、新たにネットワーク機器としての意味を持っている。
 ネットワーク機器といえばカッコいいが、つまりはおもちゃである。メール、iモード、カメラ、などなど。もちろんゲームができて当たり前。ケータイを携帯電話としてだけ使っている人は、どれだけいるのだろうか?
 無論、コミュニケーション手段としてメールを使っていることが主だと思うが、それにしたって、小さなキーをペコペコと押しているのを傍目で見ると、なんとも嫌な気分になる。ここでは、メールでさえも、持ち主の意志とは別に、自分だけの時間を途切れさせるに十分な力を持っている。
 しょっちゅうケータイの画面を確認し、折り畳みの音をパキパキとさせ、着メロの軽薄なメロディを拡散させる。持ち主が、実は手玉に取られているのではなかろうか。
 中には、メールが来ないと不安になる人もいるという。
 それらの、コミュニケーションを求める人って、実は、コミュニケーションの力を信用していないのではないのかとも思う。ケータイ以前のコミュニケーションが綱だとすれば、以後は糸なのではないか。綱ならば切ろうにも切れないし、何本も束ねなくても良い。しかし、糸ならば簡単に切れてしまう。だからこそ、細い糸を何本もたぐり寄せ、切れていないことを確認せずにはいられないのだ。

 おそらく、いつかはケータイを持つことになるだろう。
 そして、術中にはまるに違いない。
 分かっているから、今、僕はケータイを持ちたくないのだ。
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