[2003-04-01]からの日記
[2002-08-14]までの日記

殺したい日常(5)


2003
[03-22] 
本を出しました

鬱で、仕事が手に着かない状態になって、二ヶ月ほど仕事せずにだらだらしてました。そろそろ復活しないと経済的にやばい。というかすでにかなりやばげ。ということで宣伝です。共著ですがアスキーから本を出しました。 『完全合格 XMLマスターベーシック試験対策テキスト&模擬問題集』 という本です。XML技術の資格試験 XML マスター ベーシックの対策本を兼ねたXMLの基礎技術の教科書です。

XMLコミュニティでお世話になっている川俣晶さんとの共著、というかメインのテキストは川俣さんで僕は巻末の問題集とかチャートとか、XMLマスター試験の体験取材とか、が僕の担当です。少なくともテキストの方は川俣さんらしい堅実で真っ当なもので、安心して人に勧められる内容です。例題をIEで試しながら理解していく構成なので知識が血肉になること請け合いです。で、僕の担当した問題集の方は、自分で言うのもアレですが、本物の試験の問題より良い問題を目指したつもり(某社の人に怒られそうだけど…)。

出版不況もあってか、この手の本の売れ行きはどれも芳しくないようですが、増刷がかかると大変助かります。XML 技術に興味があって、何かいい入門書はないかなーって人は是非どうぞ。あと、XML 仕様書は WD の頃から読んでて今は現場でバリバリ XML 使ってるけど、入門書なんて読んだことないから春から来る新人クンに何読ませたらいいかわかんねー、っていうプロの技術者の人も是非チェックしてみて下さい。

反戦で何に反対するのか

あまりに多くの人がこの戦争について語っているので今更何も語る必要はないかとは思うのですがメモ代わりに少しだけ書きます。

僕の立場は基本的に反戦なんですが、反戦って言うときに戦争の何を問題にするのかという点では色々疑問もあります。報道でもあちこちで見られる議論でも民間人が死ぬかどうかが焦点になりがちなんですが、戦争は人殺しで残酷だから反対っていう立場なら兵士の命だって人の命だし、その死は十分残酷なものには違いないと思います。殺さなければ殺されるから殺すのが兵士の立場なんだからしょうがない、って議論はあるとは思うけど、そういう状況自体が戦争の悲劇なんだから、残酷だから反戦という立場ならしょうがないで済ませる訳にはいかないと思う。

でも一番気になるのは、じゃあ残酷じゃない、とまではいかなくても残酷さの少ない戦争なら許されるのか? ということです。もちろん湾岸戦争における「ピンポイント爆撃」には嘘が多かったし、当時よりはずっと進化したと言われる現在の精密誘導兵器でも誤爆がありうるのはアフガン攻撃で証明済みなのですが、仮に究極の精密誘導兵器で最低限の犠牲で戦争が遂行できるとしたらどうでしょう?

どんなに技術が進んでも誤爆はゼロにはならないでしょうけれど、それを言うなら自動車にだって事故はあります。誤爆の被害の期待値が十分少ないなら、損害保険なり損害賠償制度があれば爆撃自体はそれが「正当」である限り問題にならないという議論だってあり得ます。

それでも結局戦争では誰か(今回の戦争ならフセインとその家族)を殺すのだから人殺しといえばそうです。でも残酷な独裁者なら殺していいんじゃないか、奴はかつて人を殺してきたし、これからも殺すかもしれない、奴を殺さないことは多くの人を見殺しにすることと同じだ、とか、色々条件が揃えば「正当な」人殺しもあり得ます。というか、今回だってアメリカが焦らなければ国連のお墨付き付きで戦争ができたかもしれないのです。

そうなると素朴な戦争反対論は裏を返すと残酷さの少ない戦争ならオッケーって話になりかねないと思います。実際オッケーなのかも?

でも僕は残酷だろうが残酷でなかろうが、戦争の正義は疑わしいものだと思います。誰が何の権限で一つの社会に変化を強制できるのか? 仮に「自由」が普遍的価値だとしても、一国の政治を有無を言わさずひっくり返すような巨大な権力が国の外にあった時、その国の市民に自由なんてあるのか? 元々市民の自由なんてないような独裁国家の市民に自由を与えるためならそのような権力の行使は正当化されるのか? でも、自分が選んだおぼえのない外部の勢力に与えられた自由を本当に自由と思えるのか?



2002
[09-23] 茶髪化

ふと思い立って近所の美容室でブリーチしてもらう。色は昔の宮台くらい。あの頃の宮台が一番良かったからね。というのは嘘で、単に店員に聞かれてあわてて「あ、お兄さんと同じくらいで」とか言っちゃっただけの話。ていうか、ああいうおしゃれ共の集う場所は苦手だ。担当した美容師さんがいい人で助かったけど。しかし料金がカットと合わせて8000円越えてちょっとびびった。そんな出費続けられるんだろうか。

仕上がりはカットの技術の違いもあるんだろうけど、確かに頭が軽くなった感じ。気分も心持ち軽くなったかも。でもそれはたぶん気のせい。


[09-22] 寺尾引退

大相撲の寺尾が引退だそうです。相撲にはほとんど興味のない僕ですが、唯一忘れられない取り組みというのがあって、それは平成元年11月場所の寺尾 vs 千代の富士 戦でした。

激しい突っ張りを執拗に繰り返す寺尾に千代の富士がブチキレ、寺尾を思いっ切り持ち上げて地面に叩きつけた一番。憮然とした顔で引き上げる千代の富士と今にも泣きそうな程悔しそうな寺尾の顔が忘れられません。そういう人は結構いるみたいで、日本相撲協会公認の歴史に残る名勝負ってことになってるようです。

しかしなんだってあそこまでブチキレますかね? 千代の富士。ひょっとして千代の富士の持ちかけた八百長試合を寺尾が蹴ったとか? 「真剣勝負だ? おまえ、俺と真剣勝負やって無事でいられると思ってるのか? 八百長は嫌だ? おまえを守るための約束事だろうがッッ。テレビに映ってるから手加減したが、あの体勢から本気で投げたらおまえ今頃死んでるぞ。」みたいな。なんてことをこないだ買った 『餓狼伝』 12巻を読みながら妄想してみたり。


[09-20] ヒミズっぽい

『サイゾー』 10月号のM2で古谷実 『ヒミズ』 に触れていた(別の機会に論じるらしい)ので軽くコメント。僕はこのマンガは鬱病者のリアリティを描いた作品だと思っているので宮崎哲弥氏の「現代の絶望」 (ってのが何なのかまだ彼は説明していませんが)を描いたという批評には強い違和感を感じます。

主人公住田の死に至るまでの行動や言動は社会批評的に解釈できなくもないけれど、彼の死そのものは解釈不可能であり[1]、その無意味さ、理不尽さこそが最後のコマ(茶沢さんの「なにそれ?」[2])に結晶しているのだと思います。ただ、この最後のコマは単行本ではカットされてしまっているので、このコマを重く見るのは作品批評のやり方としてはどうかというのはあるけれど、僕はそのように理解しています。

実は以前自アン+にヒミズの箱を作って感想とか書きました。内容は箱ログ参照(ネタバレあり)。(箱)というのが僕です。

僕自身この一年余り、度々今の人生を「オマケの人生」のように思って、死ななくてはならないという強迫的な思い[3]にもとらわれたりしたけど、正気に戻ったときそれが一体何だったのか根本的なところは全く理解できない。もちろん色々理屈は言える。幼いころの体験だとか社会環境の変化だとかが自己肯定感に乏しい人格を作ったのだとか何とか。でも、そういうのと、死に対するあの確信との間には精神医学や社会学では絶対に埋められない深い溝があると思う。ヒミズで住田につきまとったあの「化け物」が、ああいう化け物としか描き得なかったのはそういうことではないか。

周囲の人は彼が苦しんでいることはわかっても彼の見ている「化け物」は決して見えない。だから彼の死はあまりに唐突で理解不能で、憤りすら感じるのは無理もないと思う。茶沢さんの「なにそれ?」は、親しい人が鬱病などの心の病に罹り、自殺[4]してしまった時のやりきれなさをよく表していると思う。もちろん決して口にしない、口にできない種類の気持ちだと思うけど。



[1]住田は無意味にただ「決まってる」死を何とか意味付けようと足掻いていて、意味ありげな死に方をするためにこそ死を先延ばしにしてきたのだけど、結局世の中で意味のある選択というのは生きること、という結論になってしまって、むしろ意味付けに失敗してしまう。そして、もう死を先延ばしにできなくなってしまい、あのラスト。物語についてはこれが僕の解釈。あくまで死は決定済みの事として前提になっていて、物語からはなぜ死ぬのかは理解できない。
[2]単行本でカットされた連載時のラストのこと。こんなんです。
[3](一応)正気の状態でこれを書いているからこういう表現になるのだが、実際に体験しているのは、論理的必然性のある選択としての死、というか、チェスで次の一手を探したら最善手が死ぬことだった、みたいな感覚。
[4]最近では「自殺」ではなく「自死」と言うケースも多いけど、いまいちニュアンスの違いがわからない。死の自己決定絡みの話で、自己決定によって選択された死というニュアンスで「自死」と使う場合もあるようだが、心の病の末の自殺は自己決定なのか。宮崎氏もヒミズの主人公を自死と表現していたが、ヒミズに描かれたそれは選択というよりは病魔に強制されたかのようにしか見えないのだが。


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