自然農の理(ことわり)

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自然農の理(ことわり)

自 然 農 に つ い て

“自然”という言葉は、“自(おの)ずから然(しか)らしむる”ということを示しています。 何が自ずから然らしむるのかと言えば、いのちがいのち“自ずから然らしむる”です。 いのちというものに、自然という性質があるということです。
それぞれのいのち自ずから絶妙に然らしむる絶妙の存在であり営みであります。 そのようになっている自然界で、そうしかならない自然なるいのちでありますゆえに、 その営みに添い応じ従う他になく、添い応じ従い任せることによって、最善の結果をもたらしてくれることになります。 自然に添い応じるのが最善、それぞれのいのちに従い任せるのが最善です。
自然農は、こうした自然本来である自然なるいのちの営みに添い、応じ、従い、任せる農です。 それぞれの田畑においても、完結する営みが自然本来であり、そのように成っている自然界・生命界であるゆえに、 自然農の田畑でもそう成るのであります。耕さず、肥料農薬を用いず、草や虫達、他の生物を敵としない自然農の栽培法、 そして大型機械と石油を用いず、道具と手足を使っての作業は、いのちをあずかる農の心から離れず、 決して大地や空気や水を汚染することなく、有限の資源を浪費し大切な環境を破壊することなく、 いのちを損ね衰退させることなく、浄化、復活、再生ともなるものであって持続永続を約束してくれるものであります。 また栽培過程において農夫のいのちを損ねることなく、食します人々のいのちをも損ね汚染することなく、 十全に育った作物のいのちが私達のいのちを健全なるいのちへと養い育んでくれるものであります。
人類の誕生も、この今の存在も、やがて寿命至っての死滅も、自ずから然らしむるものであり、農において、 衣食住において、生活すべてにおいて、いのち自ずからなる自然に添い、応じ、従い、任せるところに、真の平和と豊かさがあり、 人類の全うがあります。
「耕さない・草や虫を敵としない・肥料農薬を必要としない」この三つの基本となるあり方は、 いつの時代においても、地球上どこにおいても通ずる普遍のものであります。

耕 さ な い

自然界における森や林では、いずこも耕していません。 耕していない自然界においては、豊かないのちの営みを成し、そこで食べて食べられ、殺し殺され、生かし生かされ、 ひたすらそれぞれがそれぞれのいのちを生きて共存共栄、生まれ育ち死に、 親から子、子から孫へと絶えることなくいのちが栄え続けています。 その場にふさわしい動植物が生命活動を営み、共に生死のめぐりを重ね、必ず自ずからいのちにふさわしい環境に変化し、 いのち達の最善の舞台となっています。
そこを耕さなければ、多様な生物達の生存と生死のめぐりが自ずから成さしめ、 健全なる生存が約束され続けるものであり、実に多くの動植物達がその場その気候その環境に応じての生命活動を盛んにします。 耕さなければ、無数のいのち達が生死にめぐった死体が地表に重なってまいります。 それは過去のいのち達の歴史の積み重なりでもありますが、そこを舞台に次のいのちのお米や野菜、草々、小動物達、 小さな微生物達が、親の続きをそれぞれ個々個々が生きて、同時に一体となって見事に生きてまいります。
不耕の田畑では、過去のいのち達の死体と歴史を舞台にして、地中でも地上でも多くの生物がひたすら我がいのちを生きています。 この舞台が殊に大切であり決して耕してはなりません。 耕せば多くの生物達を殺すことになり、大切ないのちの舞台を壊して、不毛の地と化さしめます。 過去のいのち達が生き死にしてきたこの舞台で、今のいのちが生きることを約束されており、 この舞台で計り知れない多様なる多くの生物が常に生きております。 他のいのちが生きているところでそれぞれが生きることができ、お米も野菜も生きることができます。 過去も現在もすべてが切り離すことのできない、一体の存在にして一体の営みなのであります。したがって決して耕してはなりません。

草 や 虫 を 敵 に し な い

地球上で人類だけ、水田でお米という草の作物だけ、畑でキャベツという草の作物だけでは、一つの生命圏で存在しえません。 いろんないのち達が自然にそこに在ってこそです。いろんな小動物が住める環境はいろんな草が在ってこそです。 一枚の田畑の生命圏に自ずから存在する多くのいのちすべてが生きるに任せ従っておけば、そこは常に豊かないのちの舞台となります。 草々虫達を敵にしないで、あるがままの自然に任せておけば、いのちが大いに栄えます。 それはとりもなおさず作物を生かし、私達を生かしてくれることになります。
そこで食べることのできるものを採集すると採集生活ですが、お米やキャベツを育てる栽培生活でありますので、 目的とする作物が他の草に負けないように、草の成育を押さえる必要があります。特に幼い時期には足元の草を抜き、 成長初期には近くの草を刈り、その場に敷いておきます。作物が青年期へと育てば、足元にいろんな草があり、 いろんな小動物が生きている方がいいのです。
あるいは、地力において、環境において、虫との関係において、乾燥具合や湿り具合において、 土を流失させないことにおいて、土を豊かにするにおいて、草は絶対に必要です。草は敵では決してありません。 栽培生活をしているという認識に立って、草に負けぬよう適期に草の成長を抑え、最小限度の手を貸してやります。
虫についても同じです。自然界においても自然農の田畑においても、害虫益虫の別なく、有効無効の別なく、 すべてがゆえあってそこに誕生し、そこに今を生き、そこに死んでゆきます。 いずれも一体となってこの今の絶妙の営みに欠かすことの出来ないいのち達であり、いのち達の営みをさらに豊かにするものでもあります。 したがって、殺虫殺菌剤等々の農薬、除草剤は不要にして、決して用いてはいけません。 虫が多く発生し、害を多く及ぼすことが生じるのは、栽培のあり方に問題があるからであって、 特に耕して肥料を多く投入すれば、自ずからなる虫を害虫に追いやることになります。

肥 料 ・ 農 薬 を 必 要 と し な い

すべてのいのち達が生きるに必要なものはこの自然界に自ずからあり、 多種多様の生物達の生死の営みのなかで自然裡に用意されるものであって、他からいかなる肥料をも用意する必要はありません。 作物と共の様々なる生物達の営みがそのまま耕すことを必要としない、肥料を必要としない豊饒の舞台と成るものです。 化学肥料、あるいは有機、無機、堆肥、ボカシ、微生物、酵素…、いかなる肥料も、 他で用意し持ち込むと養分過多や片寄りとなって多くの問題を招きます。 あるいは、農薬や除草剤を用いて他の生物を排しては、作物は決して十全に育つことはできません。 一体なる営みの調和を乱し、田畑の営みは異常となり衰退します。 持ち込まず持ち出さなければ、生死の巡りのなかで、一枚の田畑において、私達人間も含めて多種多様のいのち達が生かされ続けます。 どのいのちも他を生かすために生きているのではなく、他を殺し食べ、ただひたすらに我がいのちを生きることが、 そのまま他を生かすことになり共存共栄の関係となっています。
いのち達は生きる営みのなかで必要なものを、足元の大地から、歴史から、亡骸から、排泄物から…、 あるいは水から、空気中から、太陽から、雨から、風から、他のいのちから、そして果てなきこの宇宙生命界から集めて我が身体を作り、 次のいのちを作り、一生を生き、死して大地に死体を寝かせて、さらに豊饒の地と化さしめ、次のいのちを生かします。 それぞれの生物達が生きて成長成熟し、次のいのちを用意し、我が死体を寝かせますと、 それまでになかったものをそれぞれに作って舞台を絶妙に豊かにします。実ったものを田畑から持ち出し私達人間が食しても、 不足をきたすことはありません。
自然農においても、生かされている田畑で、稲藁、籾殻、米糠、小麦のフスマ、菜種の絞り滓、畔の草、台所の生ゴミ等々、 あるいは食べて出した排泄物等、必要に応じ作物の性質に応じ循環させ、他のいのちに巡らせます。 生死の巡りのなか、いのちからいのちへの巡りのなか、栽培生活における田畑での巡りのなかで食糧は約束され続けます。 他に依存することなくです。他から肥料を用意して持ってこなくてよいのです。 持ち出さず、持ち込まず、生かされて生きている場で完結する自然農であり、自然界です。
大切な基本のことは、作物は肥料によって育つのではなく、一枚の田んぼのなかにゆえあって存在する他のいのち達と一体となって営むことによって、 はじめて十全に生きることができます。 過去のいのち達の歴史の重なりの上に、多種多様な他のいのちが今ここに宇宙生命界のすべてと一体となって生きているから、 生きることのできる私達人間であり、すべてのいのち達です。

い の ち の 世 界 を 知 る こ と

私の生き方を、私の人生を、私の生活をどのようにしてゆけばよいのかということは、 生まれてきた時に一人ひとりに課された課題であって、それぞれ一人ひとりが明らかにしてゆかねばなりません。 一人ひとりが明らかにすることが、人類全体が明らかになり人間社会が明らかになることにつながります。
一人ひとりが私の人生を明らかにする、人としてのあり方を明らかにする、 あるいはこの気候風土に生かされる日本という国におけるあり方を明らかにし、あるいは人類全体のあり方を明らかにしなければ、 暗闇のなか道なき道の混沌混乱無秩序の人間社会となり、この宇宙生命界において最低の生物にして最大の不幸に陥ることになります。
一人のあり方においても、国のあり方においても、人類全体のあり方においても、現実においては明と暗が入り混じり、 不安なこと、悩み苦しむこと、恐ろしいこと、悲しいこと、愚かなること、耐え難き不幸なることが多くあります。 人本来のあるべきありようを明らかにするべく、どこが間違っているのかを見きわめた上で正しい答えを明らかにする。 それは私にとっても、私の人生においても、人類全体においても、すべてのいのちにとっても、地球にとっても、 すべてのいのち達の舞台である環境にとっても、宇宙にとっても、今、最も大切なことであります。
大切な私の人生を考える時に、基本になるのは、いのちの世界でいのちあるものとしてのあり方を明らかにすることです。 いのちあるものとしてのあり方を明らかにするには、このいのちの世界がどうなっているのか、 それを明らかにしないと見えてくることはありません。いのちの世界とはどういうことなのか…。 あるいはいのちの世界はどのようになっているのか…。あるいはいのちとはどういうものなのか…。 それは、この宇宙、この自然界はどうなっているのかと同じことですが、ここを一人ひとりのなかで明らかにすることが、 私の人生を生きるにおいて、あるいは人類が生きるにおいて、欠かすことのできない基本のことになります。

  第19回 妙なる畑の会全国実践者の集い
  『人類の明日を悟るU』−いのちの道 人の道 人類普遍の道を得る−
  川 口 由一さんのお言葉から

川口さんの紹介


川口由一 川口由一(かわぐちよしかず)
奈良県桜井市在住。1939年生まれ。小学六年の時、父親と死別し、 中学卒業後、専業農家の長男として、農業に従事する。
1976年、身体をこわしたのをきっかけとして、自然農の実践と、 漢方医学を独学で修められ、現在は、赤目自然農塾で自然農の指導をされている。


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