◎後藤里菜著『沈黙の中世史』(ちくま新書)
実はこの新書本を買ったのはメインタイトルではなく「感情史から見るヨーロッパ」というサブタイトルに着目したから。この本はメインタイトルで示される側面とサブタイトルで示される側面という二つの側面があるわけだけど、ここでは後者のみに注目する。なぜかと言うと、サブタイトルで示される主題は、8月に紀伊國屋書店から刊行が予定されているわが訳書、バチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』(メスキータ氏はわが訳書『情動はこうしてつくられる』の著者リサ・フェルドマン・バレットの親友なので、以後はリサ友本と呼ぶことにする)に通じる部分があるから。なおリサ友本の訳者あとがきは、刊行が迫ってから公開する。ただしこの新書本が歴史的な記述に終始するのに対し、リサ友本には歴史的考察がほとんどなくコンテンポラリーな事象や事例にほぼ限定されているという相違はある。
両書の類似性をもっともよく示す文章が新書本の「おわりに」にあり、非常に重要な記述なのでまずそれを取り上げておきましょう。次のようにある。「われわれは、感情とはまず個人のもの、感情こそ個人の抱く尊いものと考える。だが、そうではないのである。¶感情は外から内へと注がれ、あるいは人と人との絆を行き来しながらその人そのものを「今、ここ」に作っている(283頁)」。リサ友本では、「外から内へと注がれる」感情(情動)は「アウトサイド・イン情動」と、またその逆に「内から外へと注がれる」感情(情動)は「インサイド・アウト情動」と呼ばれている。同書から引用しよう。「アウトサイド・イン情動は何よりもまず人間関係を含め環境が課す要請を全うするために培われる。それに対してインサイド・アウト情動は、感情を外向きに表現する(同書116頁)」。そして「アウトサイド・イン情動」は「OURS型」情動が流布する非欧米諸国の文化圏で、また「インサイド・アウト情動」は「MINE型情動」が流布する欧米の文化圏でおもに浸透している。ここでいう「OURS型情動」とは、「「個人の外部に存在する(OUtside the person)」「人間関係的な(Relational)」「状況に規定された(Situated)(情動はそれが生じる状況において異なる形態をとるという意味)」(同書47頁)」情動を、また「MINE型情動」とは「「{心に関する/メンタル}(Mental)」「個人の内部に存在する(INside the person)」「奔出主義的な(Essentialist)(つねにいくつかの同じ本質を持つという意味)」(同書46頁)」情動を意味する。OURS型情動についてはさらに次のようにある。「OURS型情動モデルは、WEIRD文化圏の外ならほぼどこでも通用している。それは今日の非WEIRD文化圏に流布している典型的な情動モデルではあるが、歴史的に通用してきたものでもある(同書47頁)」。WEIRD文化圏とはほぼ欧米文化圏と同じと見てよいでしょう。「歴史的に通用してきたもの」とは、より細かく言えば「歴史的に欧米文化圏でも通用してきたもの」という意味になる。まさに新書本の著者の主張と同じであることになる。
ここでMINE型情動とOURS型情動の違いをもう少し詳しく見てみましょう。次のようにある。「MINE型文化のもとでは、何を情動と見なすか、情動のどの側面が重要なのか、何が気づかれ想起されるのか、何に働きかけるのかは、内面の感情や身体感覚によって決まる。それに対してOURS型文化のもとでは、対人行動や、状況に関する規範や要件が情動と見なされ、そのようなものとして気づかれ、想起され、働きかけられる(同書52頁)」。つまりMINE型は内面の感情に、OURS型は対人行動に焦点が置かれることになる。ということは新書本の著者の「人と人との絆を行き来しながらその人そのものを「今、ここ」に作っている」という記述は、リサ友本の用語で言えばOURS型情動について語っていると見なすことができる。
ちなみにリサ友本にも、いくつか歴史的な事例に関する言及があり、MINE型情動が西洋においても歴史的にはデフォルト値でなかったことが次のように紹介されている。「情動は何よりもまず心の状態だとする考えは、かつて私が想定していたほど広範に流布しているわけではない。実のところ、情動を第一に{感情/傍点}の用語で語ることは、むしろ歴史的にも地理的にも例外的に思われる。多くの文化圏では、人々は情動について語るとき(人間関係的な)行動に着目する。それは歴史的にも一般的だったらしい。ホメロスは、(悶々としている、緊張しているなどの)対応する心の状態に言及せずに、眠れずしきりに寝返りを打つペネロペイアの様子を描いている。また古代ギリシャの専門家によれば、ホメロスの時代のギリシャは、一般に{内面の/傍点}心の状態としてより、観察可能な具体的行動として情動を描くことを好んだ。(…)近代初期(一九世紀以前)のアメリカ人でさえ、怒りや愛を深い感情とはとらえておらず、「冷たい視線」「暖かい抱擁」などといった行動と同一視していた。情動は、心の状態より人間関係的な行動に近かったのだ(同書62頁)」。
少しリサ友本の引用が多くなってしまったので、次に新書本から引用することにしましょう。たとえば次のようにある。「古代ローマのプルタルコスも、グラックス兄弟の改革のさいの農地法の法案採択をめぐって、両手を握る、ひれ伏す、涙を流す、抱擁や口づけといった身ぶりを記録している。それらは、ローマ人が政治の場でも感情を抑えられなかったということではなく、その感情表現が、次の政治的行動を促す記号として機能していたということであるという。¶中世でも、権力者の、人々の目の前での感情表現には、社会的な意味や力の発動が前提とされることが多い(63〜4頁)」。「政治的行動を促す記号」とは、いわば感情表現がパフォーマティブとして機能していたことを意味するのだろうが、これは感情が行動実践としてOURS型情動として機能していたことをも意味する。また「社会的な意味や力の発動」という言い回しも、それがOURS型情動であることを意味している。それから中世のキリスト教世界と感情の関係について次のようにある。「喜怒哀楽のうち、「怒」には統治者として、正義をもっとも実行すべきものとして発動せねばならない場合があり、修辞表現としての王の怒りが定着したほどだった。¶それゆえ「怒」にかんしては、背景いかんではよいもの、必要なものでありえた。旧約聖書には、神の目の前に[sic]ただしくないことをした民たちに神が罰を与える場面がしばしばある。これが正義を実行する統治者の怒りの表現である。¶「喜」「楽」には、罪との親和性がある。修道院で笑いが忌避されたほか、けたけたという高笑いは悪魔の身ぶりとして奇蹟譚に登場する。(…)「悲」や「涙」は救いにつながるものとされた。罪を悔いて神に慈悲を乞うさいに、涙が伴われるからである(79〜80頁)」。要するに情動が宗教的実践に結びついていたということでしょう。リサ友さんは、「情動の実践(do emotion)」という、一般には使われない表現を多用しているけど、OURS型文化のもとでは情動の表現は、必ずしも感情の表出という形態を取るわけではなく、宗教を含めた文化によって規定された行動として顕現する場合もあるという考えがその根底に存在する。「修辞表現としての王の怒り」というのは、まさにそういうことなのでしょうね。
ところで先にも登場したプルタルコスが、もう一度登場するんだけど、これが非常に興味深い。次のようにある。「古代ローマのギリシア人哲学者、プルタルコス(五〇頃〜一二〇頃)の『愛をめぐる対話』によれば、アポロンが予言の熱狂を吹き込み、ディオニュソスが祭りの熱狂、ムサイが詩的で音楽的な熱狂、アレスが戦闘的な熱狂、エロス(美しいものへの愛)とアプロディテ(肉体関係を伴う愛)が愛の熱狂を誘う(93頁)」。なぜ非常に興味深いかというと、神さまによってとはいえ、情動が外部から吹き込まれるという見方は、まさにOURS型アウトサイド・イン情動に関する説明そのものだから。
次はアテナイと古代ローマの葬送儀礼における悲嘆に関して次のようにある。「[葬送]儀礼には男性も参加したが、胸をたたきながら泣き叫び、興奮により頭をかきむしり、髪を引きちぎるのは女性たちであった。その身ぶりをおこなうことを生業とする泣き女たちが出てきた。(…)古代ローマではとくに、政治の場で激しい感情表現が一定の記号、身ぶり言語のような役割を果たしたとされるため、弔いのさいの激しい身ぶりもそうした言語のひとつであり、号泣を伴う激しいそれは女性が担当とするものとなっていったのであろう(98〜9頁)」。まさに悲嘆という情動が一種のパフォーマティブ、つまり情動の実践として機能しているのですね。ちなみに泣き女は現代でも存在し、リサ友さんも現代のアルバニアの泣き女に言及していた。
次に中世の時代に入って『ロランの歌』が取り上げられている。『ロランの歌』は、「キリスト教君主の理想像を描いたフィクションではあるが、戦う人の理想的な感情の規範がむしろ強調されている(103頁)」とのこと。ここでは悲嘆がおもに扱われていて次のようにある。「騎士や王といった世俗世界の上層の人々にとって、感情と声の統御という理想像が古代以来あり続ける一方で、雄々しく嘆き倒れ伏す騎士もいた。(…)そのように激しい嘆きを含めた型が、戦う者たちを上層階級とする社会では役割を果たした(109頁)」。要するに、中世の騎士が示した嘆きの感情は、社会的な布地に織り込まれていたということになる。だから内面の感情に依拠する現代の欧米のMINE型インサイド・アウト情動とは決定的に異なっていたのですね。「第三章 感情と声、嘆き、そして沈黙」の最後の文章は、まさに中世の嘆きがOURS型アウトサイド・イン情動であったことを示しているように思われなかなか興味深い。次のようにある。「服喪の嘆きは、感情表現の中でも、こと葬送儀礼なりに哀悼の詩なりの形になりやすいぶん、権力者の権威をしめすものや、人と人との紐帯を作るもの、あるいは自らの属する集団をしめすものとして世俗社会で役割を果たしたため、沈黙に伏さなかった。形にあてはめることでむしろ感情の内実を昇華しようとする動きは、人間の知恵のなせる業で興味深い(111頁)」。あとはキリスト教における感情の扱いが興味深かった。たとえば次のようにある。「キリスト教世界としての中世では、喜怒哀楽のうち、哀、涙、泣くことがもっとも救いにつながりやすい感情であった。¶泣くことは、罪を悔いることの表れだからである(115頁)」。泣くことが感情であるというのは、奇妙に思われるかもしれないが、OURS型情動文化圏では特に奇妙なことではない。またMINE型インサイド・アウト情動を自明のものとしてとらえていると、悲しいから泣くのではなく、罪を悔いることの表れだから泣くというのは奇妙に感じられるはず。これもOURS型アウトサイン・イン情動の観点から見ればそれほど奇妙なことではないのですね。
ということで、新書本に関してはこの程度にしておく。冒頭で述べたように、本書のメインタイトルは「沈黙の中世史」であって「感情の中世史」ではない。そのため感情に関する記述はあまり多くはなく、あとは沈黙に関する記述が続いている。冒頭で述べたように、それについてはここでは全省略するので、とりわけ中世の沈黙について知りたい人は実際に本を買って読んでみて下さい。ただしここで、アカラサマもといステマの意味もあって、またMINE型インサイド・アウト情動やOURS型アウトサイド・イン情動という見方に興味を覚えた人もいるかもしれないので、リサ友本についてもう少し詳しく紹介しておく。
まず「情動の表現」や「情動の抑圧」などといった言い方は、MINE型情動モデルに依拠する概念だとリサ友さんは指摘する。次のようにある。「「情動表現」あるいは「情動の抑圧」などといった言いかたは、それ自体がMINE型情動モデルに基づくものであることを示唆する。つまりそれは、外に出ようとしている内的感情が心の奥にわだかまり、それが外に出るのを防ぐためには積極的に抑制しなければならないということを意味しているのだ。「表現」や「抑圧」という言葉は、「情動は個人の内部に宿っており、放っておけば外に出ようとする」という見方を重視する。情動が内面の感情ではなく{人と人のあいだでなされる行為/傍点}としてとらえられた場合には、いかなる「表現」も重視されることはない。そこには表現されるべき要素など存在しないのだから。また、情動的な行為のあいだに真正さの優劣があると想定すべき根拠はない。情動が人と人のあいだに宿るのなら、「周囲の期待に合わせようとするヒロトとチエミ[同書に登場する被験者]の反応より、激怒して叫ぶことのほうが自然だ」などとなぜ言えるのか? あるいはなぜ、プロの哀悼者と一緒に泣き叫ぶより、ひとりで静かに喪に服するほうが自然だなどと言えるのか? はたまた、社会の期待に合わせて自己の情動を調節することは、不満を爆発させるより不誠実だと言えるのはなぜか?(同書81〜2頁)」。
またリサ友さんは、MINE型情動とOURS型情動の違いについて次のように説明している。「情動は、心の奥深くにのみ存在するのではない。映画『インサイド・ヘッド』で描かれている情動はMINE型だ。だが世界全体を見渡せば、多くの文化圏では、人と人のあいだで生じる行為、つまり当面の状況に調節された行為として情動を第一に理解するOURS型情動が流布している。MINE型文化とOURS型文化のもとでは、情動は異なって見える。¶MINE型文化圏の人々は、身体の変化に基づいて自己の情動を特定するが、OURS型文化圏では、人と人のあいだで起こっているできごとから情動を推測する。MINE型が普及している地域では、人々は個人の相貌から情動を読み取ろうとする傾向が認められる。それに対してOURS型の地域では、居合わせている人々全員の顔から情動を判断しようとする。そしてMINE型の地域に比べ、相貌から{行動/傍点}を推測する。MINE型の地域では、快く{感じること/傍点}は健康の{証/あかし}だとされ、OURS型の地域では、健康より{建設的/ポジティブ}な活動が重視される。またMINE型の地域では、情動は表現するもの、そして状況を引き受けることと見なされる。それに対してOURS型の地域では、当面の状況の要請に合わせた行為として顕現する。さらに言えばMINE型では、OURS型に比べ、情動の抑圧はあまり見られないと同時に、心や人間関係に有害な作用を及ぼす。このように、文化の重点が内部に置かれている場合と外部に置かれている場合とでは、情動は異なったものになるのだ(同書82〜3頁)」。
そしてOURS型情動に着目することの利点を次のように述べている。「内面に重点を置く文化と外面に置く文化では、情動は違ったものになる。MINE型情動とOURS型情動のあいだには、単に情動をめぐる語り方が異なるという以上の相違がある。とはいえOURS型情動を重視する文化圏で暮らす人々でも、感情や情動の身体化もある程度生じるのが普通だ。逆に、情動を頭の内部のこびととしてとらえる文化、つまりMINE型情動文化圏でも、情動にはOURS型の側面もある。情動は、他の機能が何であれ、人間関係をめぐって起こるできごとから意味を作り出し、それらのできごとを社会の規範や期待に沿うかたちで解釈しようとする。つまり情動[の知覚や表現]は社会的な実践であり、その多くは他者と共有されている。したがってOURS型情動モデルの観点からとらえれば、自己の情動に関して新たな洞察が得られるはずだ。OURS型情動モデルは、欧米文化圏で支配的なMINE型の観点が見逃し、無視している情動の諸側面に注意を向けさせる。また、さまざまな情動がいかに文化に結びついているかを理解する手助けをしてくれる。そしてこの理解は、多文化社会やグローバル化した世界で遭遇する、さまざまな情動のあいだに架橋するための第一歩になるだろう(同書87〜8頁)」。
次にリサ友さんは、文化によって「正しい」と見なされる情動と「間違った」と見なされる情動があると主張する。「文化によって「正しい」情動と「間違った」情動が規定される。「正しい」情動は、その文化圏で重視される人間関係を促進し、「間違った」情動は禁じられた人間関係を助長する。そして「正しい」情動は文化的に奨励され、報いられるのに対して、「間違った」情動は避けられ、罰せられる(同書129頁)」。だから何が正しい情動で何が間違った情動かは文化によって変わってくる。次のようにある。「しかし「正しい」情動、すなわち人間関係を社会の要請に合わせる情動は、文化間で異なる。自立した個人同士が関係を結ぼうとする個人主義的な文化では、「愛」が「正しい」情動と見なされる。それに対してパートナー同士がお互いのニーズを満たそうとする集団主義的な文化では、「甘え」やfago[イファルク族の情動]が「正しい」情動と見なされる。強い絆があり、人と人が本質的に関係し合って暮らしている文化においては、人々は自己の重荷を軽減し、他人に負担をかけないよう心掛けるだろう。そのような文化においても、何らかの形態の愛が生じることは否定できないが、その愛は、WEIRD文化の場合と同じあり方で「正しい」のではない(同書180頁)」。
では文化はいかにしてその文化固有の情動の実践方法を人々に植え付けるのか? それは情動概念、あるいは情動語を通してである。情動概念や情動語の意味を説明することはここではしないが、次のように述べられていることを指摘するに留める。「自分の感情をどう理解するかは、自国の文化のもとで利用可能な情動概念によって決まる。情動概念は社会的なコミュニティーの内部で共有されている。私が利用できる情動概念は、情動的なストーリーを「描く」ための特定の方法を提供し、そこに書かれていない結末で終わることを困難にするのだ(同書227頁)」。「私が利用できる情動概念は、情動的なストーリーを「描く」ための特定の方法を提供し、そこに書かれていない結末で終わることを困難にする」という情動概念の性質が現代の移民問題の根源に存在することは、リサ友本の訳者あとがきで述べたのでそちらを参照されたい。また情動概念はそれに含まれる情動エピソードの意味を明確化する。それに関して次のようにある。「自分自身に対してにせよ、他者に対してにせよ、情動概念を適用することは、現在進行中の情動エピソードの意味を明確なものにする。これは状況の特定の側面に焦点を絞って他の側面を無視し、一定の方法でできごとの意味を作り出し、特定の行動を優先することでなされる。「甘え」のインスタンス[一回々々の具体的な情動の現れ]としてとらえられた状況(言うことをきかない子ども)は、子どもの未成熟さやニーズに焦点を置くのに対し、Ärgerのインスタンスとしてとらえられた状況は、親の不満に焦点を置いて子どもの行動の背後にある有害な意図を明確にする。こうして母親は、解釈に応じて異なった態度で状況に接し、子どもの「甘え」を感じ取った場合にはそれに共感を覚えて子どもをなだめ、Ärgerを感じた場合には苛立って子どもを罰するのだ。(いくつかの情動のなかから)一つの情動を認識することは、さまざまなエピソードの特定の組み合わせに関する知識を動員することなのである。それは類似の状況で生じた情動エピソードに関して知っていることのすべてを、さらにはその組み合わせに含まれている文化的な知識のすべてを活性化することを意味する。概念がなければ、私たちが知っているような情動は存在しないと考えるべき理由がある。¶情動概念には、文脈や本人の立場に応じて、望ましいか望ましくないかのいずれかの結果がともなう一連の文化的なエピソードが織り込まれている。本書の用語を借りて言えば、「正しい」情動は望ましい結果をともなうエピソードを含み、「間違った」情動は本人が避けたいと思う結果をともなうストーリーを含む(同書227〜8頁)」。
情動概念については、さらに次のようにある。「情動概念とは、私たちが直接、もしくは観察を通して経験してきた文化的なエピソードの組み合わせを意味し、情動カテゴリーに関する文化的な伝承によって補完される。文化圏によって情動語や経験が異なれば、その程度に応じてそれによって識別される情動経験も異なってくる。この見方は過激な[文化]構成主義ではない。文化は、一から情動を築き上げることなどできない。なぜなら、どんな情動も人と人のあいだに位置するのであり、人それぞれは、その人自身を構成する身体によって制限されるからだ。人間関係や人間の身体には、文化間で共通する側面が多々あるが、変化の余地も大いにある(同書239頁)」。後半は、自分の考えが過激な文化構成主義ではないと断っている。まあ、ポストモダン時代の文化相対主義に対するものと同じ批判を浴びせられることを怖れているからでしょうね。過激な文化相対主義ではない根拠として、人間の身体を持ち出しているけど、実はリサ友本には、そのような生物学的なレベルに関する記述はほとんどない。しかし現在では、生物と心と社会が相互作用することは、大勢の認知科学者、神経科学者が明らかにしている。親友のリサ・フェルドマン・バレットがその一人だし、わが訳書ではほかにもスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』が、特定の状況のせいで奇病にかかった人々に関する具体例を用いて、その点を敷衍している。この「生物と心と社会の相互作用」という考えは現在私めが大きな関心を持っている主題の一つで、それに関連する本があれば、見つかり次第紹介していきたいと思っている。紹介するというのは、新書や選書であれば「ヘタレ翻訳者の読書記録」を通じて紹介し、また洋書であれば実際に邦訳の刊行を目指すことを意味する。なおすでにスザンヌ・オサリバンのやや古い本『Is It All in Your Head?: True Stories of Imaginary Illness』はすでに訳し終えており、おそらく来年には邦訳が刊行されると思われる。
リサ友本に戻ると、リサ友さんは、ワルツとタンゴによる比喩を用いて異文化圏における情動の実践の何たるかを説明している。たとえば次のようにある。「異文化圏で情動を実践することは、少なくとも最初は、他のみんながワルツの音楽に合わせて踊っているときに、ひとりでタンゴを踊るようなものなのである(同書243頁)」。そうであるなら、私めがリサ友本の訳者あとがきにあげた移民問題は非常に根深いものになりうる。大手メディアは移民問題を右傾化のせいにしているけど、訳者あとがきに書いたように移民問題は、右か左かのイデオロギーに関する問題なのではなく、「庶民の生活」に関わる問題なのですね。リサ友本には、たとえば次のようにある。「マイノリティーがマジョリティーと同じような情動の適応を果たすには、{平均して/傍点}人の一生以上の時間がかかることになる(同書251頁)」、あるいは「情動という点になると、移民は第三世代になってようやく、マジョリティーと区別のつかない状態を達成できるのだ(同書252頁)」。ちなみにこれらの文章は抜粋しているのでここでは明確になっていないものの、リサ友さんがそのように主張する根拠は、実際に移民を対象に彼女が行なった調査によって得られている。
してみると、外国人を受け入れるためには、このような移民の同化の問題を解決するための体制をまず作っておかなければ、やがて移民が移民問題として火を噴くことは火を見るよりも明らかなはず。現在の日本政府を含めた各国政府は、その点を考慮しているのだろうか? 単に労働力の受け入れなどという経済的な問題の解消だけを目指して外国人をユルユルの規制のもとで入国させていたら、いつかは必ずやヤバいことが起こるでしょうね。現在の欧米諸国がそれを如実に物語っている。このように言うと必ずや「おまえは外国人差別主義者かあああああ!」と非難する人が現れるはずだが、そうではないのですね。しっかりした受け入れ体制を整えずに次々に移民を受け入れれば、移民にとっても受け入れ側にとっても日常生活が毀損されるような事態がいつかは必ず生じると言いたいのですね。移民が滑らかにワルツを踊れるようになるまでには、三世代がかかるわけだし。もちろん受け入れ側も移民の同化を促せるような受け入れ体制を整える必要があるが、移民側も努力が必要になる。次のようにある。「もちろん、ある国に滞在しているだけではその国の文化の情動の実践方法を学べるわけではなく、その国の社会生活に参加する必要がある(同書256頁)」。結局、移民は移民で固まって、孤立して日常生活を送るようになると非常にマズいということ。詳しくは知らないけど、日本の川口市で現在起こっていることもそれに近いのでは? 移民の受け入れにあたっては、次のことはきっちりと認識しておく必要がある。「移民は、同様な状況が繰り返し生じたとき、周囲の人々が「正しい」情動を感じる機会を与えてくれたとき、「正しい」情動の言葉を用いて情動エピソードを分類してくれたとき、そして「正しい」情動の感じかたの手本を示してくれたときに、情動の実践を学ぶ。子どもにおける情動の社会化と同様、おとなになってからの社会化もアウトサイド・インに作用する(同書258〜9頁)」。
なお「異文化理解には共感が大事」とよく言われるけど、移民問題を共感のみによって解決することはできないとリサ友さんは主張する。次のようにある。「単に共感を示しただけではうまくいかない。なぜなら、共感は文化間の溝を埋めてくれるわけではないからだ。とはいえ、相手に親切心を示して親密さを育み、文化や立場の違いを埋める方法はある。情動エピソードをひもとくことによって、文化的な相違を埋めるべく学ぶことができるのだ(同書286頁)」。あるいは次のようにある。「他者の情動の理解は、他者の経験の共有に還元されるわけではない。他者の感情を概観することはたいてい、他者にとっての情動エピソードが、いかに自分たちのものとは異なる文脈と結びついているかを理解すること、言い換えると自己の情動と他者の情動のあいだにある{齟齬/傍点}に気づくことを意味する(同書289頁)」。つまり誰をも同じものとして扱うことより、彼我の齟齬に気づくことがより重要だということ。この「彼我の齟齬に気づくこと」は決して差別を意味するわけではない。それまでをも「外国人に対する差別意識」だと言い張るのなら、そのような考えは逆に移民の同化を阻害する結果につながるだろうね。
リサ友さんは、移民の話ではないけど、例のムハンマドの風刺画の事件を例にあげて、「情動エピソードをひもといて彼我の齟齬に気づくこと」の重要性を強調している。次のようにある。「彼らイスラム教徒にとって何が問題だったのか? それはおそらく集団としての名誉や評判だったのだろう。なぜなら、彼らにとって名誉や評判は共有された文化的遺産だからだ。イスラム文化圏では、名誉は価値ある人間であることにおいての鍵を握る。¶ここまでイスラム教徒の名誉がかかっているのであれば、メディアが「表現の自由」にこだわったのは、彼らがイスラム教徒の「恥」を完全に見落としていたからだと言わざるを得ない。(…)情動エピソードをひもといて、イスラム教徒にとって何が問題なのかを確認していれば、デンマークや国外におけるイスラム教徒との対話に役立ったはずである(同書295頁)」。「表現の自由」にこだわるのは、何もマスコミだけでなく、世間全体にそのような風潮がある。いつも述べているように、「表現の自由」の裏には「それにともなう責任」が存在する。このケースでいう「責任」とは、「情動エピソードをひもといて、イスラム教徒にとって何が問題なのかを確認」することだと言える。それをせずにただ「表現の自由」を連呼するだけでは、異文化理解も多文化社会も絵に描いた餅にすぎない。このあたりを勘違い平行棒している人は、メディアを含め大勢いる。
ということで、結局『沈黙の中世史』からの引用より、リサ友本からの引用のほうがはるかに長くなってしまったんだけど、許してくださいませませ。リサ友本の訳者あとがきは、解説者もいて字数をかなり制限されたこともあって、この機会にもう少し詳しく紹介したかったという事情もあるもので。
※2024年7月27日