◎竹田青嗣著『新・哲学入門』(講談社現代新書)

 

 

「新・哲学入門」と銘打たれているだけに現代のいくつかの哲学問題が取り上げられているわけだけど、個人的には、後半の議論の基盤をなす前半部の世界認識に関する現象学的な解釈(第2〜4章)がもっとも興味深かった。著者の竹田氏は現象学に関連する著作がけっこうあるので(私めも何冊か読んだことがある)、現象学の専門家なのでしょう。

 

彼が提起する人間の持つ世界確信に関する見方は、90頁にある「世界確信の一般構成」という図にうまくまとめられているので、この本を買った人はまずそれを眺めてみましょう。買っていない人のために説明しておくと、この図は二段になっていて、上段と下段は「現前意識(意識の水面)」と書かれた境界によって分かたれている。

 

「現前意識」とは現象学的なもの言いであり、およそのところはこの境界の上の部分は意識的な営為を、下の部分は下意識的な営為(一般には現象学とフロイトの説は相入れるとは考えられていないので「無意識」とは言わないことにするけど、ただし「第六章 無意識と深層文法」によれば竹田氏自身は両者が相入れないとは必ずしも考えてはいないらしい)を指すと思う。

 

そしてこの境界より下の部分に「@知覚像(知覚 想起[記憶] 想像)の所与」「A意味直観(本質所与)」「B情動所与」「C思念 思考 判断」とある。実はここに書かれている「知覚」「記憶」「直観」「情動」「思考」「判断」などは今まさに進化生物学、脳神経科学、認知科学、心理学などの最新の科学が解明しようとしているメカニズムであり、私めもその最新の知見を紹介するポピュラーサイエンス書をせっせと翻訳しているわけですね。

 

ここで一例として、「情動」に関する竹田氏の議論と、わが訳書、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(紀伊國屋書店,2019年)が提起する情動概念の重なりの例を一つだけあげておきましょう。新書本の82頁に次のようにある。「遠隔知覚が、生き物の世界を時間的−空間的構造として生成することによって、生き物の最も素朴なエロスの審級である「快−不快」は、一つの重要な変様をこうむる。すなわち「快−不快」の情動は{時間化/傍点}されて、「エロス的予期−不安」という新しい情動の審級へと転移する。あるいは、快−不快というエロス的審級の上に「予期−不安」という新しいエロス的審級が階層化される、というほうがよい」。

 

まず「エロスの審級」だけど、59頁に「エロス的力動(情動性)」とあるので『情動はこうしてつくられる』の文脈に置き直せば「情動作用」とニアイコールと見ればよいのでしょう。ところで竹田氏は、この文中で「情動」という用語を二度使っているけど、初出の「情動」は、現代の情動科学では「アフェクト」と呼ばれるものに相当し、その意味において「「快−不快」のアフェクト」と言い変えられる。そうすれば「情動」は一度しか出現せず、二度目の情動の出現箇所「新しい情動」は単に「情動」とすればいいだけになる(竹田氏が「情動」の二度目の出現箇所に「新しい」という形容詞を付加しているのは「情動」が二度出現しているからでしょう)。

 

その点を考慮しつつ二文目の竹田氏の言明をバレット流に言い換えると、「すなわち「快−不快」の〈アフェクト〉は〈概念に媒介されることで〉、「〈予期−不安〉」という〈情動〉の審級へと転移する」となる(〈〉内は言い換えた部分)。ここで竹田氏の言う「時間化」とバレットの言う「概念の媒介」が意味的に重なるかが問題になるけど、個人的には、少なくとも部分的には重なると思っている。

 

詳細は述べないけど、その理由を簡単に言うと、時間意識の説明で竹田氏が依拠しているフッサールの、記憶能力を基盤とする「過去把持」の概念(新書本105頁の図を参照)は、バレットの提起する「概念」という概念と、ある程度重なると思われるから。また173頁に次のようにある。「生き物のエロス性は、まず「快−不快」そして「エロス的予期−不安」へという身体的エロスの審級の転移として進んだ。人間のエロスと価値の審級が身体的エロスの地平から離陸するのは、人間が言語ゲームによる関係世界のうちを生きることによってである。これを契機として、動物的な「快−不快」「予期−不安」の審級は、人間の幻想的身体における価値審級へと転移する」。

 

バレットは「概念」という概念を言語に限定しているわけではないはずだけど、言語等によって媒介される関係世界のもとで情動的な審級が価値審級に転化するという点では考えが合致していると思う。

 

次に90頁の図の境界より上の部分だけど、そこには次のようにある。「現前意識(意識の水面)→生活世界(事物 生きもの 他者 身体)→公共世界(社会 国家 世界)→(推論・仮説・検証→「共通確信」)→文化・理念的世界(宗教・芸術・学問)」。

 

重要なのは矢印の向きで、これは、個人の現前意識と個人の生活世界が基盤にあってそこから公共世界が間主観的に成立し、さらにその上に文化・理念的世界が成立していることを意味する。つまり人間の「世界確信」はこのようにボトムアップ的に構成されていることになる。

 

だから当然、この図は政治にも適用されると考えられるはず(つまり「公共世界」には社会・国家・世界とともに政治も含まれるはず)。しかし世の中にはこれを「文化・理念的世界」→「公共世界」→「生活世界」→「現前意識」という逆向きに、すなわちトップダウンにとらえる理念先行型の思考様式を持つ人がいる。この新書本からも分かるようにそのような考えはまったく逆転した見方であり、人間の本性とは矛盾する破壊的な見方だと言わざるを得ない。

 

以前に『悪党たちの中華帝国』を取り上げた際、「「普遍的価値」に関して個人的な考えを述べておくと、私めは絶対的な相対主義者ではないから「普遍的価値」なるものがあることは認めるにやぶさかではない。しかし「普遍的価値」は、[『悪党たちの中華帝国』の]著者のいう「地勢のまとまった一定規模の国土」「言語習俗の均質な住民」など、人々の生活が反映された局所的な文脈のなかでしか体現し得ないのであって、結局はボトムアップに達成していくしかないと考えている。ものごとには粒度があるのであって、トップダウンで現実を無理やり「普遍的価値」に合わせようとすると必ずや今の中国がやっているような少数民族の抑圧や、拡張主義のような帝国主義的な政策の実施、はてはファシズムに至ると考えている」とツイしたけど、その見方は哲学的な観点からも裏づけられることになる。

 

ただ誤解を招かないようにつけ加えておくと、私めは何も世界認識がトップダウンに作用することはないと主張しているわけではなく、脳の構造を考えても明らかなようにトップダウンにも作用しうるのであり、それによって複雑なフィードバックループが形成されているというのが実際のところで、だからこそ人間は、複雑な文化、芸術、学問を築くこともできれば、その反面、生活世界を無視し現実と乖離したイデオロギーの影響を受けやすい、つまり洗脳されやすい。

 

ここで言いたいのは、現象学的な観点からすれば、人間の世界観は具体的な個人の生活世界からボトムアップに間主観的に形成されるのが本来の姿であるにもかかわらず、イデオロギーという、トップダウンに作用する自然的ではなく人為的、共同幻想的な力によってその過程が歪曲されれば、そこに生じる世界観の歪みは生活世界という現実を無視した空想・幻想・妄想のたぐいに堕してしまうっていうこと。

 

新書本の残りは、個人の現前意識がいかにして間主観的な価値審級として成立するのかを、メルロ=ポンティ、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッガーらの見方を通じて検討するという内容だけど、長くなってきたからここでは触れない。

 

個人的な総合的評価としては五つ星だけど、ただ一点だけ著者の見方に同意できない部分がある。それはポストモダン思想を究極の相対主義として完全否定している点。確かにあらゆる事象は相対的だとする存在論的な絶対性の主張としてポストモダン思想をとるなら、私めも竹田氏に同意する。ただし共同幻想的に成立している自明性を解体(しゃれた用語を使えば脱構築)する一手段としてフーコーやデリダらの個々のポストモダン言説をとらえれば、そこに有用性は見出せると思っている。

 

またプラトンに始まる旧実在論から現代の新実在論への移行には、徹底した相対主義を唱えたポストモダン思想をはさむ必要があったのであり、ポストモダン思想はそのような媒介者として重要な役割を果たしたとも思っている。

 

ただ竹田氏が「現代相対主義哲学は、本体論を解体できず、誤った言語理論と芸術理論をおびただしく流通させた。さらにそれは、テクストから「作品の真」を抹消し、多様な解釈可能性を強調することで、マルクス主義芸術理論と同じく芸術についてのイデオロギー的機能主義に陥った。マルクス主義では、芸術は階級意識の促進という機能に価値づけられたが、ポストモダン思想では、芸術は、暗黙に、現代社会の権力や支配の構造の暴露という機能として意味づけられ、そうした芸術{解釈論/傍点}がおびただしく氾濫した(294〜5頁)」と述べているように、(とりわけ左派的な)政治イデオロギーに結びつけられやすい点はポストモダン思想の大きな問題だったと思う。

 

とはいえそうだとしても、マルクスの言説をマルクス以後の政治的イデオロギーに結びつけて批判することと同様、ポストモダン思想をその政治イデオロギー的解釈をもって全否定するのはどこか的外れだと言えるように思う。だから左派イデオロギーには相当に批判的な私めでも、左派的なポストモダン思想を頭から否定するつもりはない。

 

 

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※2023年4月28日