◎山形辰史著『入門 開発経済学』(中公新書)

 

 

私めのような経済オンチには「入門」とあるわりには、それほど簡単には思えなかった。そもそも「開発経済学って何?」と思う人もいるだろうけど、それについては「はじめに」で次のように説明されている。「開発のための支援は往々にして外部からの介入となるため、その実施に当たっては、十分な慎重さが求められる。当事者(=受益者)が求めているのは何なのか? 受益者は、自分が求めているものを十分理解しているのか。そもそも受益者として誰を対象とすべきか。そしてもちろん、受益者が求めているものをどのようにしたら提供できるのか。また、人々の生活水準を上げるにはどうしたらよいのか。雇用、職業訓練、緊急支援、技術革新、技術移転、品種改良、農産品の商業化、産業政策、投資誘致、輸出促進はどのようにすれば人々の生活を豊かにするのか。¶これら開発に関わる問いに応えようとする学問が国際開発論であり、その中で経済的なメカニズムに着目するのが開発経済学である(A頁)」。

 

ここで重要なのは、開発経済学があくまでも「当事者(=受益者)」の立場に立って、つまり私めのいう中間粒度に焦点を置きつつ開発を論じるという点にある。実は残念ながら、これは自明のこととして周知されているわけではないのですね。後述するようにIMFや世界銀行などのグローバルな組織は、当事者を無視あるいは軽視したコンディショナリティを課すことで途上国の中間粒度を破壊して、かえってまずい結果を招くことがあった。だからここで述べられている開発経済学の考え方には、実践的にも非常に重要な意義があると見なすことができる。

 

本論に入ると、まず「第1章 開発経済学の始まりと終わり?」では、最初にマルクスやロストウの発展段階説について説明したあと、第二次大戦後に東南アジアの国々が欧米諸国から独立を果たし、二〇世紀後半に経済成長を遂げていった経緯が語られている。その説明のなかで私めがもっとも注目したのは、著者のナショナリズムに対する見方に関して。著者はナショナリズムを次のように定義している。「他国の支配を離れて自らの国を持つ、ということはどんなに心躍ることだろう。何世代にもわたり抑えられていた文化や言語が解放され、祭りが復活し、故国の英雄をはばかることなく{讃/たた}えることが許されるというのは、人々の長年の願いであったろう。それらの実現を目の前にし、彼らが期待したのは、自らの手で自分たちの国家を建設し、経済を豊かにしていくことであった。他国の手など借りずに、自国の企業と労働者が自国民の需要に応えていくことが理想とされた。このように、自国民への奉仕、自国企業・労働者の貢献の意義を強調する見方をナショナリズムNationalism)と呼ぶ。独立後、旧植民地諸国ではナショナリズムが高揚したのである(10頁)」。

 

そのナショナリズムに関して「おわりに」に次のようにある。「しかし本書で示したかったことの一つは、二〇世紀半ばの第二次世界大戦以降、開発途上国の人々や国際社会は、脱植民地化、ナショナリズム、工業化、新国際経済秩序、社会開発、人間開発、貧困削減、人間の安全保障、持続可能な開発といったような、その時々の高い理想を目指して社会改善や制度設計、政策形成を行ってきたということである。それらの理想こそが、すべての原動力であったということを強調しておきたい(239頁)」。ナショナリズムを高い理想と見なしている点には違和感があるものの、第二次大戦後の発展途上国の開発の原動力のなかにナショナリズムを含めている点は大いに首肯できる。

 

また著者は、次のような非常に重要な指摘をしている。「ナショナリズムは強い自国政府の希求に直結する。他国の侵略を許さない、強い国家を求めるのは、彼らにとって自然な感情であった。政府が国の発展をデザインし、主導していく姿勢は、当時のソビエト連邦や中国が志向していた社会主義、ひいては共産主義に近かった。欧米や日本の支配から逃れて、新しい国を建設していこうとする開発途上国の人々にとって、社会主義や計画経済は強い国家という意味でも、理想社会という意味でも強い共感を覚える概念だったのである。したがって、多くの国が五年を単位とする経済発展計画を立て、民間企業を指導すると共に、主要産業を国営企業に任せるという社会主義的政策を採った(11頁)」。

 

左派メディアはよく「ナショナリズム=保守あるいは右翼」というプロパガンダを流したがるけど、この文章からもわかるように、ナショナリズムは社会主義や共産主義という左派イデオロギーとも親和性がある。いかに左派メディアの考えが偏向しているかがわかるというもの。ちなみに以前に『封じ込めの地政学』を取り上げたとき、「当時の東南アジアのナショナリズムは共産主義や社会主義と結びついていた側面もあって(それについては別の機会に詳述するつもり)、その意味でもハートランドに位置するソ連とつながる恐れがあった」と述べたけど、さっそくそれについてある程度の裏付けが得られたとも言える。また『封じ込めの地政学』によれば、ナショナリズムはグローバリズムとも融和する側面がある(ただしそれは、「グローバリズム」をどう定義するかにもよる)。

 

さて二〇世紀後半には、日本を先発隊として韓国、台湾、シンガポールなどのアジア諸国が「東アジアの奇跡」と呼ばれる経済的なテイクオフを果たしていくわけだけど、もちろん累積債務を抱える発展途上国も現れ始める。そのような国に対しては「(1)総需要抑制、(2)供給サイド強化、といったような構造改革(「構造調整structural adjustment」と呼ばれた)を支援するために、政府開発援助の一環として融資がなされた(26頁)」。なお、そのような融資は「構造調整貸付(SAL)」と呼ばれているのだそう。

 

ところが開発途上国がSALによる援助を受けるには、援助受入国が構造調整プログラムという経済改革計画を策定する必要があったんだけど、その計画はコンディショナリティと呼ばれる条件を満たさなければならなかった。その条件には、「外貨取引に変動相場制を導入して自国通貨安に導き、輸出競争力を高めること」「行政の効率化」「民営化を含む公企業改革」「賃金上昇抑制政策」「社会福祉支出の削減」などが含まれ「援助受入国政府にとって痛みを伴うもの」であり、「コンディショナリティに採用された政策は、マクロ緊縮政策と規制緩和、経済自由化、民営化で特徴づけられており、市場競争を通じた資源配分メカニズムを信頼する新古典派経済学に沿ったものとなっていた(27頁)」とのこと。そして「SALを供与するに当たっては、世界銀行やIMF(国際通貨基金)といったアメリカのワシントンDCに本部を置く国際金融機関の間でこれら市場メカニズム重視の政策をコンディショナリティとして援助受入国が認めることが必要である、という意見の一致があった(27頁)」のだそうな(これは「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれている)。

 

ではそのような構造調整を行なった途上国では、介入が功を奏したかというと、「世界銀行自身の評価によっても、その効果は明らかには見られなかった(28頁)」らしい。それどころか「この構造調整プログラムの実施が、援助受入国の中でも最も{脆弱/ぜいじゃく}な立場にある人々の生活を直撃したことが批判され(28頁)」ることになってしまう。要するに、グローバリズムの影響が色濃く見られる、中間粒度を無視したコンディショナリティを受け入れたために、まさにその中間粒度に属する国民の多くが疲弊してしまったということなのでしょう。この本にはそれに関する具体例はあげられていないけど、同じ中公新書の『IMF(国際通貨基金)』などを読めば、その実態がよくわかるはず。

 

「第2章 二一世紀の貧困――開発の成果と課題」は現代における貧困が取り上げられている。著者はまず一九八〇年代初頭と比べると、二一世紀の現在においては貧困者比率がかなり低下したことを指摘している(45頁のグラフを参照のこと)。とりわけ東アジア・大洋州においては、「一九八一年には人口の八割が貧困者であったが、二〇一九年には同比率が〇・九%以下にまで低下(45頁)」したのだそうな。とはいえ現在でも深刻な貧困に覆われ(もちろん、アメリカが典型的なんだろうけど先進国においても深刻な貧困層は存在する)、それに起因するさまざまな差別が猖獗している国はたくさんあり、次にその実態が取り上げられている。要するにそれらの国では、もともと開発が遅れていたり、内戦、内乱、悪政などによって国民の生活が破壊されたりすることによって私めのいう中間粒度が崩壊していると見ることができるでしょうね。

 

この章の後半には難民に関する記述があり、77頁には表2−5として「難民流出・流入および国内避難民発生の上位10カ国(2021年末)」があげられている。それを見て一つ疑問に思ったのは。アメリカでは現在年間100万人を超える不法移民が流入している(2021年にはもしかすると100万人にはまだ達していなかったのかもだけど)にもかかわらず、難民流入国にアメリカが入っていないこと。したがって、難民流出国にはアメリカへの移民送り出し国は含まれていないことになる。73頁に難民の定義として「居住地に留まると「迫害」を受ける恐れがあることから、その地を離れる人を難民refugee)と呼ぶ(73頁)」とあるので、これはおそらく、アメリカに流入している人々は、定義上不法移民ではあっても難民ではないとされているからなんだろうと思う。でもアメリカへ移民を流出させている中南米の国々でも、本書に取り上げられているシリア難民やロヒンギャ難民のような「迫害」は受けていなかったとしても、内戦や悪政のせいで中間粒度が崩壊しているからこそ不法移民となってアメリカに押し寄せていることに間違いはない。

 

南米のコロンビアについて言えば、「コロンビアでは五〇年以上にわたる内戦のため、住まいを追われ居留地で暮らす人々が約五二〇万人に上る(78頁)」(これは77頁の表では国内避難民として分類されている)にもかかわらず、「コロンビアはベネズエラ難民の主要受入国(78頁)」であるとのこと。ちなみにコロンビアの内戦に関しては、わが訳書、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』(紀伊國屋書店,2023年)にも言及があり、「エル・カルメン[コロンビアの地方町]周辺の地域、とりわけマリア山地は、かつて非常に危険な場所だった。二〇〇〇年には、ここ数十年間でコロンビアでは最大の死者をもたらしてきた準軍事組織AUCが、地域のもっとも貧しい住民に対して攻撃を仕掛けるという、悪名高い「エル・サラドの虐殺が起こ(同書289頁)」り、そしてそれに続く暴力の時代に生きていた少女たちが解離性発作を起こしたとある。要するに国内暴力による中間粒度の破壊は、そこに住む住民のうちでも最も{脆弱/ぜいじゃく}な立場にある少女たちに大きなダメージを及ぼしたってことね。

 

「第3章 より豊かになるために――経済成長とイノベーションのメカニズム」では、開発途上国における経済成長とイノベーションの影響が論じられている。イノベーションに関する記述はなかなか興味深かった。まず著者は、「先進国の成長は、常に開発途上国の犠牲のうえに成り立っているのであり、先進国が成長する以上、開発途上国に発展の見込みはない(94頁)」とする従属論に基づく考えが正しくないことを各国の経済成長の推移を示すグラフ(95頁の図3−1)をもとに示す。そしてその理由の一つとしてイノベーションの影響をあげる。もちろんイノベーションは、先進国にも経済成長をもたらすけど、ただし発展途上国(後発国)が先進国(先発国)を飛び越える(リープフロッギングする)場合があると指摘する。次のようにある。「カエル飛び型の技術進歩は、それぞれの国において支配的となる技術の選択に関しても生じている。例えば先発国がいずれかの技術を採用して、その技術に対して最も合理的な社会・生産基盤(…)を構築したとしよう。その社会・生産インフラは、採用した技術に最も適合したものであり、一度建設されれば長期間、その技術を支えることができる。また、法制度もその技術やインフラと整合的に構築され、制度インフラとしてその技術を支持することとなる(125頁)」。著者はその理論的根拠を、国家ではなく企業を対象にした、(「技術革新は創造的破壊」だと主張した)シュンペーターと、ケネス・アローの技術革新論に求めているけど、その詳細はここでは述べない。またアセモグル&ロビンソン著『国家はなぜ衰退するのか』(早川書房、2013年)を引き合いに出して、「(…)新しい技術は、既存の技術の下で構築された経済インフラや制度インフラの価値を無にすることがある。それは、既存の技術やインフラの下で繁栄や平和を築いている為政者や、そのシステムの下で地位を築いた既得権益保持者には容認しがたいことである(132頁)」と述べている。まあ言ってみれば、革新技術の流布にもステータスクオ・バイアスがかかるってことなんだろうね。

 

それから130頁から始まる「適正技術・中間技術」という節は、非常に重要だと思う。適正技術とは「現地の環境やニーズに即した技術(130頁)」を指す。また「適正技術は、先進国における先端技術である必要はなく、むしろ先進国において過去から現在まで用いられてきた一連の技術の中で中間に位置するものが適切なのではないかという発想から、中間技術(intermediate technology)とも呼ばれ(130頁)」るとのこと。なぜ非常に重要だと思うかというと。まさにこれは私めがいう中間粒度を重視した技術の普及を意味するから。この章の最後は、知的財産権制度の恩恵と、それによって開発途上国にもたらされる問題、ならびにその解決策がワクチンの例をあげながら説明されているけど、その詳細はここでは述べない。

 

ところで余談になるけどこの章に、これまで私が疑問に思っていたことに対する答えがあってナルヘソと思ったことがあった。というのも、開発途上国の人々は携帯を使って親などに仕送りをしているということを何度か読んだことがあったんだけど、携帯など持ったことのない引き籠り翻訳者の私めは、「携帯でどうやって送金するの?」「なんで銀行口座に振り込まないの?」とずっと思っていたから。その答えは次のようなものだった。「(…)開発途上国においては銀行口座を持っている人が少ないため、携帯電話の使用料は前払い方式である。安ければ一〇〇〇円くらいで電話機を購入し、数百円くらいで電話番号(の入ったSIMカード)を購入する。そして利用料金として一〇〇円を前払いすれば、その一〇〇円分だけ通話やメッセージ通信ができるというわけである。利用料の一〇〇円は電話番号にチャージされるので、電話番号が銀行口座番号の役割を果たす。例えば前払いした一〇〇円のうち五〇円を親に送金したいと思ったら、自分の電話番号にチャージされている五〇円を、親の電話番号に付け替えれば、親への送金は完了する。親は最寄りの携帯電話取扱店(どこの市場にでもある)に行って手続きすれば、五〇円を引き出すことができる(111頁)」。まあ私めのようなガラパゴス人間だけのことなのかもだけど、これでこれまでの疑問が晴れた(ただそれが有効な範囲はどの程度なのか、一国内に限られるのかという疑問は残るけどね)。

 

「第4章 国際社会と開発途上国――援助と国際目標」では、先進国による開発途上国の援助について述べられている。長くなってきたので、ここでは「4−3 中国のプレゼンス拡大とドナー関係再編」では、中国による発展途上国開発援助の実態について、また「4−4 SDGsとその国際開発離れ」では、発展途上国援助と、最近大はやりのSDGsの裏腹な関係について述べられているので、「ぜひご一読を」とだけ述べておく。ということで、開発経済学というなにやら耳慣れない学問に関する入門書と銘打たれているけど、実践的な意義も高く、なかなかおもしろい本だった。

 

 

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※2023年5月3日