◎福田充著『メディアとテロリズム』(新潮新書)

 

 

「新版」と銘打たれているけど、どうやら序章と、二頁しかない終章だけ新たに書かれたもので、それ以外の章はすべて2009年に刊行されていた本にすでにあったらしい。だから取り上げられている事例のほとんどは、2009年以前に起こった事件をもとにしている。昨今のマスメディアの問題については、私めも、わが訳書の訳者あとがきを含めて、いろいろと取り上げているんだけど(つい最近も『インド』で苦言を呈したばかり)、この新書本はとりわけテロリズムとメディアの関係にほぼ焦点が絞られており、そこに焦点を絞って考えてみたことはないので非常に興味深い。

 

新たに書かれた「序章 安倍元首相銃撃事件がもたらしたテロリズム新時代」では、誰もの記憶に新しい安倍元首相暗殺事件と、その後に起こった岸田首相襲撃事件が取り上げられている。最近起こったばかりのこれらの事件について特に説明する必要はないと思うが、岸田首相襲撃事件で容疑者を取り押さえた漁師のインタビューは、マスコミの本質をついていておもしろいので、やや長くなるけど引用しておきましょう。次のようにある。「自分たちはただの漁師で、これまでこの静かな漁港に首相のような偉い人たちが来たことなど一度もない。今回の選挙の応援演説も自分たちが頼んだことではなくて、天から降ってわいたことだ。そんな港でこんな大事件が起きてしまった。この事件が首相を狙ったテロかどうかなんて自分たちにはどうでもいい。自分は目の前で起きたことに咄嗟に反応しただけだ。ただそれだけなのに、その日から生活が変わってしまった。テレビカメラに追い回されて、いろんなところから野次馬や見物客がやってきて。事件の捜査のために漁港は一時閉鎖されて、何日も、自分たちは漁に出られなくなった。漁に出られなかったら自分たちはおまんまの食い上げだ。その間の生活の保障は誰がしてくれるのか。自分たちは注目されて英雄扱いされているように思われているかもしれないが、自分たちこそ事件の被害者だ。そのことをテレビも新聞も誰も報道してくれない。記者さんが聞きたいことだけ聞いてきて、マスコミにとって都合のいいことばかり切り取って報道する(18頁)」。あるいは「テレビや新聞の取材はつくづく嫌になった。あんたが記者さんじゃないと言ったから今日は皆話をしたが、大学の先生のような偉い人なんだったら、自分たち田舎の漁師たちが思っている本音を社会に伝えてほしい。自分たちにはそれを伝える方法がないから。自分たちの本当に思っていることを伝えてほしい(20頁)」。

 

つまり日本のメディアは当事者や関係者の本音を伝える意図などまるでなく、自分たちの枠組み(あとでフレームという言葉が出て来る)にのみ従って報道する姿勢を取っていることになる。今や、権利もないのに国会で勝手に発言する、勘違い平行棒も甚だしい「新聞記者」までいるらしいから、マスメディアの崩壊は救いようがない程度にまで達しているのかもしれない。事実を伝えるのではなく、自分たちが勝手にストーリーを作って、意のままに世論を誘導するのが仕事みたいに思い込んでいるんだろうね。でもネット社会となった今となっては、それは通用しない。「ネットはフェイクニュースの温床だ」などといくら叫んでみたところで、彼ら自身がフェイクニュースの温床になっていることは、この漁師ならずとも一般ピープルはお見通しだしね。わが訳書のタイトルにもあるように、とりわけ自分の命や生活がかかったものごとに関しては『人は簡単には騙されない』のですね。騙されるとすれば、よほど人のいいダマちゃんか、メディアと同じイデオロギーに染まっている人しかいない。愚かにもマスメディアはそのことがまるでわかっていないから、今や凋落の憂き目に会っているというわけ。

 

いつものように少し脱線したので新書本に戻ると、著者は次に現代のテロリズムの特徴を四つあげている。一つ目は「無差別テロ」で、「無差別テロとは、かつての古典的な要人暗殺テロのように国王や大統領のような権力者をターゲットにしたテロリズムではなく、無差別に一般市民を標的としたテロリズムである(23頁)」。二つ目は「ソフトターゲット」で、「ソフトターゲットとは、(1)メディアイベント、(2)ランドマーク、(3)公共施設・公共機関が含まれる。かつてのテロリズムは、政府機関そのものや軍隊、警察などのハードターゲットが直接狙われていたが、そうした標的も警備が強化され、作戦の実行が困難になったため、一般市民がたくさん参加する、集結するソフトターゲットが狙われるようになった(24頁)」。三つ目は「ホームグロウン・テロ」で、「自分が生まれ育った国においてテロリズムを実行する現象をホームグロウン・テロと呼ぶ(26頁)」。四つ目は「ローンウルフ・テロ」で、「一匹オオカミである個人が実行する(27頁)」テロをいう。そうすると安倍元首相暗殺事件や岸田首相襲撃事件は、一つ目と二つ目は当てはまらず、三つ目と四つ目は当てはまることになるね。

 

メディアとテロリズムの関係でもっとも大きな問題は、「テロリストやテロ組織は自分たちの政治的主張を世界に宣伝(プロパガンダ)するために事件を起こしてメディアを利用する(29頁)」ことだと著者は主張する。そして「安倍元首相を殺害した山上徹也被告も同じ(29頁)」と著者は見ている。詳しくは述べないけど、その後の旧統一教会をめぐる無節操なメディア騒動を考えてみれば、「旧統一教会の社会問題化は、山上被告が望み、仕組んだものであった。メディア報道は、山上被告の捜査過程での供述によってコントロールされ、山上被告のテロリズムの目的達成に結果的に加担したのである(30頁)」という見解にも、山上が意図してそうしたのか否かは別として頷ける。著者はこのような状態を「メディアとテロリズムの共生関係(30頁)」と呼び、「テロリズムとは、社会や市民を巻き込んだ「劇場型犯罪」であり、テロリストが自分たちの政治的目的を達成するために実行する政治的コミュニケーションとみなすことができる(31頁)」と主張する。まあ政治がすでに「劇場型政治」と化しているわけだけど、それもマスメディアという舞台があってこその話だわな。要するにメディアはテロリストのために、この「劇場」を提供していると言えるのかも。と思っていたら、著者も第三章で次のように述べていた。「テロリズムという名の劇場において、テロリストは芝居をみせるパフォーマーであり、それをみるオーディエンスは大衆である。そして現代において、その舞台を提供しているのがメディアである。そのテロリストが設定するテロの舞台が、爆弾によって、人質拉致によって、ハイジャックによって、壮大な「スペクタクル」を創り出し、そのスペクタクルがメディア報道によって世界に伝えられることにより、メディアにとって強力なコンテンツとなり、世界中の人々がそれに目を奪われる。テロリストはテロ事件を発生させ、メディアを利用することでこの図式を作り上げるのである(87〜8頁)」。

 

次の第一章の章題「撃つなアブドゥル! まだゴールデンタイムじゃない!」は、このような「メディアとテロリズムの共生関係」をみごとに皮肉っていると言える。この言葉はJ・ボウヤー・ベルというテロリズムを研究するアメリカの歴史家が「テロ組織のリーダーがテレビニュースで放映される時間帯や視聴率を気にしながら、テロ作戦を実行している様子を揶揄して表現したもの(38頁)」なのだそう。「テレビのゴールデンタイムを待ってから人質を射殺せよ!」という意味であり、学者にしては随分とブラックなことを言うよね。第一章で取り上げられているのは、二〇〇八年にインドで起こった連続爆破テロ事件だけど、詳細は述べない。

 

次の「第二章 北京オリンピックは「テロの舞台」だった」では、おもに北京オリンピックが取り上げられているけど、個人的にはミュンヘンオリンピックの「黒い九月事件」のほうが興味深かった。というのも北京オリンピックをめぐる民族主義的テロはほとんど知られていないのに対し、「黒い九月事件」のほうは当時世界中に放映されて、12歳だった私めも朧気ながら覚えているから。ということで、北京オリンピックに関しては次の指摘を取り上げるだけにしておく。「テロリストを殺害して先手をとるだけでなく、ウイグル人=テロリストというラベリングのためにメディアを動員するというPR作戦でも中国当局は先手を打ったのである。ここに、国家とテロリズムの間の主導権争いの構造が見て取れる(55〜6頁)」。ミュンヘンオリンピックに関しては次のようにある。「[「黒い九月」グループは]イスラエル政府を直接攻撃するのではなく、なぜ西ドイツのミュンヘンで開催されているオリンピックを標的とし、そしてイスラエル選手団という一般市民を人質に取り殺害するという手段を選んだのだろうか。テレビが飛躍的に進化したこの時期に、オリンピックを狙ったテロリズムが発生したことには、訳があった。「黒い九月」グループは、このテレビというメディアとオリンピックというメディアイベントの持つアピール力を、よく把握した上で利用したのである(52頁)」。まさにテロリストは故意に「スペクタクル」を創り出したのですね。政府や政治家ではなくスポーツ選手をターゲットにしたのは、よく言われるように、現代のテロにおいては犠牲者が無実であればあるほど、マスメディアによってテロの現場がリアルタイムで世界中に放映されることで、それだけ有名人ではない一般ピープルの恐怖を煽る宣伝効果があがるから。まあ究極の逆張りをやっているとも言えるのかも。ちなみに『ミュンヘン』という、スピルバーグが監督した映画が取り上げられている。私めも映画館で観たことがあるけど、詳細は忘れてしまった。ただ、事件そのものより、実行犯に対するその後の報復に関するストーリーが主だったように覚えている。スピルバーグはユダヤ人だけど、「『ミュンヘン』では、テロリズムという手段を選んだパレスチナグループと、それに対して徹底的な報復攻撃を行ったイスラエル政府に対してともに批判的なアプローチがとられている(53頁)」のだそう。

 

「第三章 テロリズム時代の到来――9・11テロ事件とオウム」では、副題が示すとおり同時多発テロと地下鉄サリン事件が取り上げられている。どちらも比較的最近の事件なので、覚えている人は多いはず。9・11については次のようにある。「グローバル・メディアであるテレビやインターネットの存在こそが、国際テロ組織によるこうしたグローバル・テロリズムを可能にしているという矛盾がある。ある国においてテロ事件を起こすことによって、現代のテロリストは全世界に対して犯行声明としてそのメッセージを発信することができるのである(74頁)」。ハイジャック機がツインタワーに突っ込むシーンが、何度も何度も放映されていたのは記憶に新しいよね(そして突如としてまったく放映されなくなった)。この章は2009年以前に書かれているので、当然言及されていないんだけど、その意味では、イスラム国はグローバル・メディアを実に巧妙に利用していた。

 

次は地下鉄サリン事件。この事件でもオウム真理教はメディアを利用し、メディアはオウムを利用した。『朝まで生テレビ!』や他のバラエティ番組に麻原彰晃が出演していたとは知らなかった。著者によれば、「どんどん社会現象化していくオウム真理教を、その視聴率稼ぎのためにメディアが利用した側面は否定できないだろう。このような時代背景の中で、TBSは坂本堤弁護士殺害事件に関連した坂本弁護士ビデオテープ事件を起こし、ジャーナリズム倫理の問題としてその社会的信用が問われた。このオウム問題に関しては、日本のどのテレビ局もその罪は免れない(86頁)」とのこと(この事件については最後で述べる)。そう言えば、細かくは覚えていないけど、コピーキャットによる便乗事件が多発していた頃に、化学兵器によるテロが新宿で起こるとかいう警告が発せられたことがあった。銀河系一のヘタレを自認する私めは、ビビりまくってその日ばかりはいつも通っていた新宿の地下街を抜けることはやめて地上を歩いたことを覚えている(会社が西新宿にあった)。

 

第三章の最後で論じられている「恐怖コミュニケーション」という見方は、なかなか興味深い。それに関して次のようにある。「テロリストが起こしたテロ事件が映像情報として、そしてその犯行声明が活字情報としてメディアを通じて受け手である一般市民に伝えられる。そのテロリスト(送り手)の発した「刺激S(Stimulation)」と、その一般市民(受け手)が示した「反応R(Response)」の関係が問題となる心理学的SR反応としてとらえることができる。そのSR反応を媒介しているのがメディアの役割である(93頁)」。要するに「メディアとテロリズムの共生関係」はSR反応のようなきわめて原始的なメカニズムに依拠していることになる。これを日本語で「煽り」と言う。その意味でも、メディアは、一部の人々が考えているような、高尚な媒体などではまったくなく、昨今のマスメディアがまったく信用ならない理由の一つもこの点にある。

 

お次は「第四章――政治的コミュニケーションとしてのテロ――一九七〇年代以前」で、この章では一九七〇年代以前の要求型テロリズムについて論じられている。要求型テロリズムの嚆矢としては、一九六八年に起こったパレスチナ解放人民戦線(PFLP)によるハイジャック事件が取り上げられている。著者によれば、「このハイジャックには、新しいテロリズムの時代をもたらした三つの側面がある(104頁)」のだそう。三つの側面とは次のとおり。「@要人ではない一般市民の乗客を人質にとった無差別テロである点。¶Aパレスチナ人が、ロンドン発のイスラエル機をハイジャックし、衛星中継によって世界にテレビ放送されたという国際テロリズムの始まりであるという点。¶B人質を取り他国政府に対して要求を行う要求型テロリズムであるという点(104頁)」。

 

また「メディア報道が作り出すテロリズムのメディア・フレーム」という項では、メディア研究者シャント・アイエンガー(シーナ・アイエンガーではないよ!)の「フレーム効果」という概念が説明されていて興味深い。「フレーム効果」とは、「社会的諸問題に関するテレビニュースの報道が、一般の視聴者に対し、その問題の「フレーム」を提供し、そのテレビニュースのフレームが、視聴者の判断に影響を与えることを(114頁)」いう。そう言えば高名な社会学者アーヴィング・ゴフマンの著書に『Frame Analysis』という重要な本があるよね。何十年も前に読んだのでうろ覚えだけど、ゴフマンの言う「フレーム」は個人の役割を成立させるフレームだったのに対し、アイエンガーのそれは個人の思考を成立させるフレームととらえればよさそう。余談になるけどゴフマンのこの本は、非常に重要であるにもかかわらずいまだに邦訳が出ていないように見受けられる。10年くらい前に版権を取った出版社の編集者から、訳す人がいないから塩漬けにしているみたいなことを聞いた。それからしばらく経って、別の出版社の編集者から、誰かが訳しているという話を聞いた。でも、それからかなり年月が経っているのに現在でもまだ出ていないみたいね。新書本に戻ると、「フレーム効果」についてさらに次のようにある。「アイエンガーによれば、ニュースのフレームには、「テーマ型フレーム」と「エピソード型フレーム」がある。テーマ型フレームとは、社会問題のマクロで抽象的、全体的、データ的な描写を指し、さきのTWA847便ハイジャック事件[一九八五年に起こったハイジャック事件]でいえば、テロリストと交渉するアメリカ政府の対応などのハードニュースである。それに対し、エピソード型フレームとは、ミクロで具体的、個別的事例やエピソードを中心にした描写のことで、先の事件で言えば、人質やその家族の個人的なエピソード、談話などのソフト・ニュースがそれにあたる(114〜5頁)」。この「フレーム」に関する次の指摘はとりわけ重要だと思う。「メディアが設定したフレーム次第で、視聴者がもつ印象や心理的反応を操作することが可能なのである。このテロ事件[TWA847便ハイジャック事件]において、マスコミがエピソード型フレームの報道を開始した時点で、事件の結論[当時のレーガン大統領は、人質三九人を救うために収監中の七五六人のテロリストを釈放させた]は決まったと言っても過言ではない。それほど、テロ事件におけるメディアの果たす役割は大きいのである(115頁)」。メディアは、印象操作がお手の物だからね。しかも当時は今日で言うところのインターネットなどというものは存在しなかったから、欺瞞があってもそれを暴露することはむずかしかった。本書でも言及されている朝日新聞が捏造したサンゴ事件も、直前に地元のダイバーが潜っていなければバレなかったはず。

 

「第五章 恐怖と不安を充満させるテロリズム――一九八〇年代」では、タイトル通りのことが書かれているので詳しくは取り上げないけど、恐怖を煽るテロの起源をフランス革命に求めている次の冒頭の文章のみをあげておきましょう。「テロリズムという近代的な概念が誕生したのは、(…)フランス革命の時代である。(…)ジャコバン派のマクシミリアン・ロベスピエールによる恐怖政治こそが、このテロ、テロリズムという概念を生み出したというのが通説である。ロベスピエールは、「民衆を理性で導き、民衆の敵を恐怖で圧すること」が必要であると演説で述べている(121〜2頁)」。現代の日本の自称知識人のなかにも、ロベスピエールのこの態度と似た、エリート主義と全体主義が合わさったような態度を取る人々がいるように見受けられる。いずれにせよ、私めはあちこちで、フランス革命にはプラス面もあったものの、それ以上に大きなマイナス面があったと述べてきたけど、テロリズムも後者の一つだと言えるでしょうね。

 

さて「第六章 テロとメディアの共生関係――一九九〇年代」に参りましょう。「テロとメディアの共生関係」という言葉は、すでに序章で導入されていたので二点だけコメントしておく。まず次のように述べられている点。「九〇年代中盤以降のこれらのテロ事件[地下鉄サリン事件やその便乗事件]、阪神淡路大震災、北朝鮮不審船事件、テポドン発射事件、拉致問題、JCO臨界事故、こうした事件がメディアにおいてすべてこのフレーム[治安問題として扱うフレーム]で語られたことによって、それまで、研究者が大学で決して口にすることさえできなかった「危機管理」、「有事」、「テロ対策」という言葉は日本においてはじめて研究対象として解禁された。一般社会においても日本国憲法と戦後民主主義の名のもとに、「有事」という概念は戦争の準備を意味し、アジア近隣諸国を刺激するものとして、左翼勢力やメディアによってタブーとされ、「危機」や「テロリズム」を想定して対策すること自体が国家の統制を強化する危険思想と認識される時代が長く続いた(147頁)」。「「危機」や「テロリズム」を想定して対策すること」とは、「安全保障」という言葉で言い換えられると思うけど、それを軽視する風潮は左派メディアを中心として現在でも続いているように思える。確かに20世紀のあいだはそれでよかったのかもしれないが、テロが頻繁に発生し、中国は大軍拡をし、ロシアは戦争をおっ始め、北朝鮮はミサイルを撃ちまくる現在にあっては、そのような態度は通用しない。たとえば「治安維持」と言っただけでかつての「治安維持法」を持ち出して、それはまかりならんと言い張るのは現在では通用しない。確かにかつての「治安維持法」は大問題だったとしても、だからと言って「治安維持」の必要性がなくなったわけではない。それどころかその重要性はますます増しているように思われる。治安維持をもっぱら政府の権力強化に結びつけて考えたがる人は(もちろん、中国やロシアなどの独裁国を見ればわかるように、その側面が皆無だと言うつもりは毛頭ないが)、治安維持とは本来、人々の生活がかかる中間粒度の安寧を守ることがその目的であるという点を完全に忘れ去っていると言わざるを得ない。

 

最近の海外の例をあげておきましょう。アメリカのバイデン政権が国境の壁建設を一部再開するというニュースが先日あがっていた。これまでバイデン政権は国境をユルユルにしていたため、不法移民が大量に流入し、それが民主党のお膝元とも言えるニューヨークなどの大都市に送られ、にっちもさっちもいかない状況になってそのような指示を出さざるを得なくなった(ニューヨークの現状については、たとえばこのロイターの動画を参照されたい)。もとよりテキサス州などの南部の州では不法移民で溢れかえってわちゃわちゃになっていたわけだけど、自分たちのお膝元に火がついてようやくそのようなお触れを出したことになる。その意味において、バイデン政権はアメリカ国民一般のためではなく、民主党と民主党支持者のために政治をやっていることになり、民主党ではなくアメリカという一国家を担う政権がそれではまずい。要するにニューヨークのようなお膝元の大都市の治安が維持できなくなったから、その問題の根源にあるユルユルの国境を閉鎖するために壁の建設を再開せざるを得なくなったというわけ。壁の建設が妥当か否かは別としても、国境をユルユルにしておけば不法移民だけでなく、テロリスト、犯罪者、麻薬や人身売買のトラフィッカーなどの、まさに「治安を紊乱する」とんでもない輩も次々に国境を越えてアメリカ国内に入って来る。ヨーロッパもそうだけど、これまで国境を開放する政策を取ってきた米民主党でさえ、ようやく「治安維持」の重要性に気づいたらしい。とりわけメディアや政治家や知識人が、21世紀とはそのような時代であることを忘れて手前勝手な主張を始めると、現在のニューヨークがなりつつあるように中間粒度が破壊されて、とんでもない結果を招き寄せることになる。

 

まさにそのことは、前述の動画にある「この問題[移民問題]は、ニューヨーク市を破壊するだろう。毎月一万人もの移民がやってくるのだから」という、エリック・アダムス市長(民主党)の言葉に如実に見て取ることができる。他でも述べたけど、人権などの普遍的な理念は、それをインプリテーションしようとすると特定の集団に適用せざるを得ないから、どうしても齟齬が出る。たとえばニューヨークの例で言えば、(不法)移民の人権を最優先すれば、アメリカ国籍を持つ人々で構成されるマイノリティ集団や貧者にそれまで適用されていた支援の少なくとも一部は、(不法)移民に回さなければならなくなる。だから最初に影響を受けるのは弱者たる彼らであって富裕層に影響が及ぶのは最後になる。かくしてアメリカ国民のあいだの格差もさらに拡大してしまう。バイデン政権などの理念だけで(それが言い過ぎなら理念を中心に)ものごとを考えている人々は、なかなかそこに気づかず、アメリカという国や大都市、つまり中間粒度が崩壊する寸前になってようやくそのことに気づく。アダムス市長は当事者だから、つまりナシブ・タレブ流に言えば身銭を切らねばならない立場に置かれているから、民主党員でもいち早くそのことに気づいたのですね。

 

第六章で興味深かったもう一つの点は、「メディアがテロリズムによって利用されるプロパガンダ機能(160頁)」が四つほど挙げられていること。その四つとは次のようなもの。「@テロリストが自らの暴力行為の正当性を主張する手段(自分たちは解放のための正義の戦争を戦う自由の戦士であると主張)。¶A敵対するものは、堕落した圧政者、邪悪な存在であるとするラベリング機能。¶B二元論的な闘いの中で中立を認めない。観客をも巻き込む。問題の無差別性の提示。¶Cテロリストの力を過大評価させる効果。テロへの恐怖心を発生させる機能(160頁)」。何が興味深いかというと、「テロリスト」を「自分たち」に置き換えれば、以上の特徴のほぼすべてを体現するような人が、知識人を自称する人々に実に多いことで、さらに言えばそのような特徴を助長しているのがメディアであることが示唆されているから。はっきり言えば、現代のメディアは、「われわれこそは正義で、われわれれに逆らう邪悪な輩は滅ぼさねばならない」と考えるファシスト的心性を持つ人々を量産しているような印象がある。その極端な例がテロリストと言えようが、現代のマスメディアのおかげでぷちテロリストが至るところにはびこっているように思える。第六章の残りは、「メディアの側にある諸問題」として、「視聴率競争・部数競争」「センセーショナリズム」「スクープ合戦」「報道の横並び」「メディアスクラム(集団的過熱報道)」「誤報・虚報」「情報源の保護・取材源との関係」「記者クラブ制度」の八つが指摘されている。ここでは項目だけを取り上げたけど、詳細についてはこの新書本を読んでみて下さいな。

 

「第七章 政府・企業による監視社会へ――二〇〇〇年代」は、ウルリッヒ・ベックなどにも言及して、現代がリスク社会であり監視社会であることを論じている。したがって必ずしもメディアやテロリズムに限られる話ではなく、またリスク社会や監視社会については別の本で取り上げる機会が必ずやあるはずなのでここでは省略する。

 

次の「第八章 テロリズムに対してメディアはどうあるべきか」は、章題のとおりのことが論じられているわけだけど、イギリスとアメリカにおける具体例が紹介されている。詳しくは述べないが、イギリスではDAノーティスと呼ばれる、政府とメディアの調整的アプローチが取られ、アメリカではメディア内部の自主規制的アプローチが取られているとのこと。他の国については書かれていなかったのがちょっと残念だけどね。日本では残念ながら「未だ何も確立されていない状態であるといわざるを得ない(198〜9頁)」のだそう。それどころか、テロリズムや戦争などの有事においてさえ、「報道の自由」を連呼して、人命が危うくなるケースですら自由に報道しているというのが実態でしょうね。だから前述の坂本堤弁護士殺害事件のような事件が起こる。この事件に関しては、この日本弁護士連合会の声明を参照されたい。そこには最後に「また、今回のような一放送メディアの倫理性を欠いた不適切な対応が権力の介入に口実を与えないためにも、マスメディアは、当連合会が1987年第30回人権擁護大会での「人権と報道に関する宣言」で提唱したように、調査機能を備えた自主的解決機関(報道評議会など)の設置を真剣に検討するべきである」とあるけど、そのような機関は設立されているのだろうか? テレビに関してはBPOがあるようだが、まともに機能しているのだろうか? いずれにせよ例として挙げられているイギリスにせよアメリカにせよ、民主主義国家なのだから基本的に「報道の自由」は認められているけど、その基盤にDAノーティスや自主規制などの「報道の倫理」の遵守を求める仕組みが存在していることを忘れてはならない。それなくして「報道の自由」だけを連呼するなら、無責任としか言いようがない。だから他の民主主義国、とりわけヨーロッパ諸国の現状が知りたかったわけ。ということでテロリズムとメディアの意図せざる結託がよくわかる本なので、ぜひ一読されたい。

 

 

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※2023年10月8日