◎坂牛卓著『教養としての建築入門』(中公新書)
タイトルからもわかるように、この新書本は(建築家が書いた)建築に関する本であり、私めは特に建築に大きな関心があるわけではないので、いつものように章ごとにコメするというやり方は取らず、もっぱらもっとも私めの関心を惹いた「第5章 頭の中で考える」を取り上げることにする。ちなみにそこでは、建築における理念、ならびに「建築に内在する概念」「建築に外在する概念」という考えが提起されている。それらの概念が私めの関心を惹いた理由は、著者も以下の引用文中で述べているように、建築のみならず他のあらゆる分野・業種に当てはまると思われるから(もちろんこれから具体的に述べるように、わが仕事、出版翻訳にも当てはまる)。
まず建築における理念に関しては、次のようにある。「建築家の設計とは、継続的な創作活動である。建築家は建物が施工されて完成すると、使用者、鑑賞者から意見をもらい、反省し、次の建物を設計するための新たな方針を考える。その方針もまた次の建物の完成を見て、修正されていく。そうした設計活動の蓄積がどの建築家にもある。このサイクルは建築に限らず、創作活動全般にも当てはまるだろう。¶この蓄積された建築家の方針が、規範なき時代の建築家の判断基準になる。すなわち、理念である(100頁)」。ここで留意すべきは、著者の言う「理念」とは経験に先立ってアプリオリに存在している何ものかなのではなく、建築という業務を遂行する過程で、徐々に経験によって形成・蓄積されていくものであると述べられていること。そこから類推すると、経験が異なれば人によって理念も異なりうることは理の当然になる。そして、それが人々のものの考え方の多様性を担保しているわけであって、経験による裏づけのない多様性など絵に描いた餅にすぎない。ちょっと我田引水になるかもだけど、だから多様性の基盤には多様な経験を可能にする環境、すなわち私めが言う「中間粒度」が必須なのですね。
ここで、著者の言う意味での「理念」に関して、現在の私めにもっとも密接に関係する出版翻訳を例に取り上げてみる。ちなみにわが訳書は現時点で32冊あるけど、そのうちのほぼ半分はこちらから出版社に持ちかけた本であり、もう半分は出版社の依頼による本である。前者に関して言うと、現在ではいくつかの条件を適用して厳密に候補となる原書を絞り込んでいるため、実際に出版社に持ちかける本は年間多くて4冊程度にすぎない(もちろんその後版権がすでに取られていることが発覚したり、競合で負けたりして、実際にわが手で翻訳できるのは多くても年間2冊にすぎない)。ここでいう「いくつかの条件」とは、まさに私めがこれまで十数年間出版翻訳者として経験を重ねるうちに獲得してきた「理念」であって、現実とは無関係に妄想によって作り出したものではない。だから「理念」が形成されていなかった最初の頃は、単に気に入った本を何冊もまとめて出版社に持っていったこともあるけど、今ではこうして獲得したわが「理念」に適合する原書がきわめて少ないため出版社と相談する本もごく少数になっている。その代わり、もともとそうやって厳密に絞って網にかかった本なので、「理念」が合ういずれかの出版社に取り上げられる可能性はきわめて高く、まったくのハズレはほとんどない。また出版社から評価依頼された本に関しても、わが「理念」に適合しない本は引き受けないようにして、既存の訳書全体としての質の一貫性を保てるようにしている。だからけっちんすることも多い。ただし日本で出版するには問題があるように思われる、あるいは箸にも棒にもかからないなどといった明らかな理由がある場合には「この本の出版はあきらめたほうがいいですよ」と直截に返答するようにしているけど、単に自分の「理念」に合わないからという理由でけっちんする場合には「他の翻訳者にも相談したほうがいいですよ」と言い添えることにしている。
このように出版翻訳でも「理念」は非常に重要だと考えている。それがないと外国語から日本語(その逆は少ないと思われここでは一応除外する)に変換するだけの、いわば翻訳職人になってしまう。もちろんそう割り切ること(つまり出版翻訳者の仕事は外国語から日本語に翻訳することとし、それ以外の仕事は編集者に一任すること)が悪いと言いたいわけでもないし、独自の「理念」を持つ翻訳者は、出版社には扱いにくいヤツと見られるであろうことは当然予想されるけど、そもそも三流会社でもそれなりに実入りのあるIT業界からおじぇじぇがあああ!病に罹患しやすい出版翻訳に転向した理由は、「意義のある洋書を見つけ出してそれを日本に紹介する」ことにあったので、単なる翻訳職人では個人的には意味がない。わがツイ(X?)アカウントのプロフィールにある「トータル翻訳」には、そのような意味も含まれているのですね。
さて次に「建築に内在する概念」「建築に外在する概念」に移りましょう。次のようにある。「建築家が理念を紡ぐにあたり、大きな前提が二つある。それは序章の最後に説明した、自律的建築と他律的建築に関連する。序章では、建築の外の世界から物語や伝説の付着した「装飾」を持ち込んでいた一九世紀までの建築を他律的建築、それを取り去ってのっぺりとした二〇世紀のモダニズム建築を自律的建築と呼んだ。しかし建築の外の世界は、伝説や物語に限らない。¶もう一度整理してみよう。建築の形、空間、素材など、建築を作るときに避けては通れぬ概念を「建築に内在する概念」と呼び、これらの概念で作られる建築を「自律的建築」と呼ぶ。他方、使用者、自然、社会、風土、物語など、建築に関わるものの建築それ自体とは一線を画す概念を「建築に外在する概念」と呼び、この概念で作られる建築を「他律的建築」と呼ぶ(101頁)」。
この「XXに内在する概念」「XXに外在する概念」という区別も建築以外の分野・業種にも適用可能に思える。ここでもわが職業、出版翻訳を持ち出せば、「出版翻訳に内在する概念」とは、「外国語の文章を、正確かつ読みやすく日本語に翻訳する」というものになるでしょう。「出版翻訳に外在する概念」とはそれ以外のすべて、たとえば「売れる本を見つける」「選択した本の質を一貫させる」「一定の範囲の本を選択することで、特定のトピックに関する全体像を見えやすくする(たとえば個人的に言えば、脳科学や進化論などがその対象になる)」などさまざまにあるはず。15年くらい前に出版翻訳業界に入ったときにまず驚いたのは、それまでは翻訳者は翻訳書を自分で探して持ち込んでいるものとばかり思っていたのに、そうしている翻訳者が非常に少ないと、つまり「出版翻訳に内在する概念」に的を絞っている翻訳者が大多数を占めているらしいと知ったこと。これは私めの思い違いなのかもしれないけど、翻訳者は「出版翻訳に内在する概念」を、編集者は「出版翻訳に外在する概念」をおもに扱えばよいという棲み分けが暗黙のうちに存在しているようにも思える。
その理由の一つとして、かつて別宮氏のような辛辣な批評家が、訳文の悪さをさんざんこき下ろしたために、出版社側も内容の専門家より表現の専門家に翻訳を任せるようになったことがあげられるように思われる。つまり表現より内容という極端が、内容より表現という逆の極端に振れてしまったのではないかと推測される。ちなみにこれは単なる私めの憶測などではなく、10年くらい前に、ある学術系出版社の編集者から、その種の辛辣な批判を受けたこともあって、最近ではなるべく一般翻訳者を採用するようにしていると聞いたことがある。あるいはわが訳書、ロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』を刊行してくださったみすず書房(先にあげた辛辣な批判を受けた学術系出版社ではない)の本でも、昔は翻訳書も大学教授などの内容の専門家が翻訳を担当していたように覚えているけど、現在では表現の専門家である一般の翻訳家が翻訳していることが多いように見受けられる。まあ昔は、内容の専門家が持ち込むのが普通だったということなのかもしれないし、別に本職を持っている内容の専門家に任せるといつ完了するかわからないなどという問題もあったんでしょうね。要するに現在では、そのような経緯もあってか、本の内容までもが、どちらかと言うと「出版翻訳に外在する概念」として扱われるようになっているような印象を受ける。ちなみに私めが、この読書ツイ書庫を始めた理由の一つも、「翻訳に外在する概念」として私めが前提としている考えを明確化することにある。
少し話が逸れ過ぎたので建築に話を戻すと、「建築に外在する概念」を重視した建築家兼都市計画家の一人としてクリストファー・アレグザンダーがあげられると思う。なお、この新書本にはアレグザンダーの名前は見当たらないけど、それは多分彼が主流建築家のあいだでは異端と見なされているからなのだろうと思う。では、「特に建築に大きな関心があるわけではない」私めが、なぜそのような異端的な建築家について知っているかというと二つの理由がある。一つは、彼の主著の一つ『パタン・ランゲージ』が、私めがかつて所属していたIT業界の、オブジェクト指向と呼ばれる技術を取り入れたSEのあいだで非常に有名だったから。『パタン・ランゲージ』はまさしくバイブルのように扱われていて、私めも他の彼の著書とともに何度も読んだ。専門的になるのでここでは詳述しないけど、オブジェクト指向を用いたシステム設計には、アレグザンダーの提唱する「パターン」の概念が非常に有効なのですね。もう一つの理由は、わが未来都市入間には、アレグザンダーが設計した東野高校があるから(たとえばこの記事を参照)。また埼玉が世界に誇る丸広百貨店から西武池袋線入間市駅にかけて、沿道に野外小劇場があるレンガ道があり(ただし数年前に一部はアンツーカー舗装に変えられた。たぶんレンガは自然に浮き上がってくることがあるので、高齢者や子どもや足元のおぼつかない私めのような輩が躓いてコケるとまずいからでしょうね)、またわが8階建て超高層マンション、丸広百貨店、ショッピングプラザ・サイオス、ユナイテッド・シネマ入間の周囲にはペデストリアン・デッキが張り巡らされているんだけど、おそらくこれらは、アレグザンダー本人の設計ではなかったとしても、入間の都市開発計画においてクリストファー・アレグザンダーの、とりわけ主著『パタン・ランゲージ』の影響があるようにも思える。事実アレグザンダーは、建築家であるとともに都市計画家でもあったから、環境という「建築に外在する概念」を非常に重視していた。ウィキには彼に関して「都市は階層的に構成されるツリー構造ではなく、様々な要素が絡み合って形成されるセミラチス構造(Semilattice)であることを説き、磯崎新、多木浩二など(ポストモダンの)都市論に大きな影響を与えた」とあり、これはこの新書本にある、「内在する概念はモダニズム思想の中軸をなし、外在する概念はポストモダニズムをサポートするものであることがわかる(103頁)」という記述に合致する。
もちろんこのような「建築に外在する概念」の重視は、ときにバックファイアーすることがある。その問題が「第11章 政治と経済が[建築を]利用する」で取り上げられており、もっとも典型的な例は、ナチス御用達建築家アルベルト・シュペーアだよね。いずれにせよ、政治プロパガンダによる建築の利用に関してはここでは詳細に述べない。新書本を参照されたい。以上述べた部分以外は、たとえば建築家の仕事のあり方など、個人的にはあまり興味が持てなかった。
ただ些細なことで一点気になったことがあるので、それについてだけ取り上げておく。それは「第2章 美の器」にあるカントに関する記述で、次のようにある。「カントは三批判書を書き人間の能力を批判的に構築するなかで、人間による対象の理解とは、物自体を認知することではなく、あらかじめ人の心に具わった枠組みを通じてはじめて物は理解されうると考えた。認識論の「コペルニクス的転回」と呼ばれる、哲学上の画期である。しかしこれを徹底すると、物は人の心の中に現れて初めて存在が認められるということになり、人間がいなければ物もないことになる(56〜7頁)」。これは少し誤解を招きそう。「しかしこれを徹底すると」とあるので、カント自身が「人間がいなければ物もない」と主張したと著者が言っているわけではないのは確かとしても、哲学に関心のない新書本の読者はカントがそう主張したと誤解しそうに思える。ググると「《〈ドイツ〉Ding an sich》カント哲学で、感官を触発して表象を生じさせることによって、われわれに現れた限りでの対象(現象)の認識を得させる起源となるが、それ自体は不可知であるもの。現象の背後にある真実在。本体」とあるように、カント自身は不可知論的立場を取っていたのであって、存在可否を含めて物自体については人間の認識能力ではとらえられないと主張しただけだよね(間違いだったらすんましぇん)? 一般読者が読む新書本である点を考えて、もう少し補足したほうがよかったのではないかと思った。ちなみにわが訳書、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』も、そのようなカントのコペルニクス転回の系譜の末端に位置するものとしてとらえられると思うけど、ホフマンは、「外界とのインターフェースとして機能する知覚系の役割は、実在の真の構造やメカニズム(実装)を開示することではなく、生き残って子孫を残す可能性を示す適応度を報告することにある」と主張する点できわめて現代的、進化生物学的なのですね。そのホフマンも、「物自体」という言い方こそしていないものの、それに該当する概念として「コンシャスリアリズム」を導入している。
ということで、建築に大した関心のない私めはこの本全体を興味深く読むことこそできなかったものの、とりわけ第5章の記述は参考になった。
※2023年8月19日