◎山口裕之著『現代メディア哲学』(講談社選書メチエ)

 

 

この本のアマゾンページのユーザーコメントにも書かれているように、「現代メディア哲学」と言っても、おもにヴァルター・ベンヤミンの有名な『複製技術時代の芸術』が取り上げられていて、それ以外ではメディア論として取り上げないわけにはいかないマーシャル・マクルーハンへの言及がそれなりにある程度だった(もちろん、オングなど他の何人かのメディア論者の名前もいくつかあがってはいるけど詳細な説明はない)。

 

個人的には、マクルーハンの著書は鮮明に覚えているのに対して、『複製技術時代の芸術』は読んでいるはずなのに何が書かれていたのかがまったく思い出せない。したがってこのメチエ本で新たに知ったと言ったほうが正しい。この本を読めばわかるようにベンヤミンのメディア論の基盤にはマルクス主義があるらしいから(しかもマルクスの言う「下部構造」を、「経済」から「技術」にすり替えて解釈しているとのことらしい)、どうにも馴染まなかったというのがその原因なのかもしれないと思った。

 

今回このメチエ本を読んでベンヤミンの見方にとりわけ違和感を覚えたのが、「第W章のメディアの政治性」で取り上げられている映画論なのよね。たとえば次のようにある。「技術的複製可能性のメディアとしての映画では、伝統的な芸術の連関のうちに織り込まれていたオーラは消失してしまうというのがベンヤミンのテーゼである。このことは、伝統的芸術の連関のうちにある「演劇」では存在していた人間的な全体的有機性が、映画では失われ、人間的な要素が疎外されているということにも対応する。その失われた人間的なものが、いわば誤ったかたちで回復されているのがこの「スター崇拝」という現象だということになるだろう(253頁)」。

 

メチエ本の最初のほうで解説されていたように、「オーラ」は「魔術性」という意味とほぼ等しいととらえるとすると、テレビや写真などのメディアではなくまさに映画というメディアにおいて「オーラが消失」しているととらえるのは、何か直観的ではない気がする(あとで言及するエドガール・モランなどはまさにこの映画の「魔術性」を重視している)。まさに映画は「魔術的な夢の世界」を再現するメディアであるというのが、普通の直観的感覚であるように思えるしね。

 

でもベンヤミンがそのような主張をしている理由は、本書によれば彼の言う映画とは、エイゼンシュタインなどの特定の時代の特定のソビエト映画を指すかららしい。つまり映画は一部の特権階級向けの芸術なのではなく、労働者が演じて労働者がこぞって観るべきものというマルクス主義的な思考がその根底にあるっていうこと(だから「疎外」や「スター崇拝(の否定)」に言及されているのでしょう)。でもまさにマルクス主義に基づいて論じているがゆえに、映画論としては著しく普遍性を欠いているという印象をどうしても受けざるを得ない。

 

だから彼の映画論よりはやや新しいけど、ベンヤミンと同じく映画の専門家などではない社会学者のエドガール・モランや、メチエ本にも一か所言及のあるジークフリート・クラカウアーらの映画論のほうがはるかに普遍的であるように思える。

 

ちなみに「演劇」との対比に関して言えば、「人間的な全体的有機性」などといったことより「偶然性」を軸に論じるクラカウアーの映画論のほうがはるかにすっきりしているし普遍的に妥当するように思える。またモランはベンヤミンとはまったく逆に映画の魔術性を重視する御仁で、それについてここに書くと長くなるので、詳細を知りたい人は、私めが映画に関する映画、すなわちメタ映画と見なしているヒッチコックの『めまい』に関して、モランの映画論を引用して述べたこのレビューを参照してください。

 

それからベンヤミンの映画論における「集合的受容」という概念も、一時期の映画にしか通用しないと思う。たとえばチャップリンの映画を見るベンヤミンの視点に関して次のような指摘がある。「例えば、チャップリンの映画を見て映画館全体が笑いに包まれるとき、その笑いの渦は一人一人の笑いの総和として生じている。しかし、その一人一人の笑いは、その結果としての集団としての笑いによってあらかじめ条件づけられているということにベンヤミンは注意を向けようとしている。そのようなシーンでは、映画館全体が笑いに包まれることを経験的に知っているからこそ、一人一人は安心して笑いに参加することができる。そのように映画館では個人の笑いと集団としての笑いが、確かに相互に作用し合っている(276〜7頁)」。

 

その直後に著者が括弧書きで「ちなみに、映画館のなかでどの程度そういった笑いを解放できるかは、それぞれの国の文化や時代によってかなり異なる。ベンヤミンの時代のヨーロッパの映画館では、おそらく現代の日本の映画館よりもはるかに、観客たちが一緒に映画を楽しむ雰囲気が一般的だったのではないかと思われる(277頁)」と正しく指摘しているように、そのようなベンヤミンの考えはとても普遍的とは言えない。

 

このメチエ本の著者の指摘はまったく正当であり、かつてのヨーロッパの映画館における笑いの集団的受容がいかなるものであったかが如実にわかる映画として、ピーター・「クルーゾー」・セラーズの初期の出演作『The Smallest Show on Earth』をあげておきましょう。

 

よく考えてみればわかるように、現代の映画館でじっとすわって映画を観ている人たちは、基本的に(カップルで観ていたとしても)一人で魔術的空想の世界に浸っているのであって「集合的受容」を体験しているわけではないはず。それよりも何よりも、アマプラとかネットフリックスとかフールーとかは個人消費のためのものであって、(家族で観る場合もあるとしても)基本的に集団で観るものではないにもかかわらず、映画の本質が著しく損なわれているようには思えない。

 

一世紀近く前に生きていたベンヤミンにアマプラやネットフリックスを予見しろと言えば、そこには無理があるのは確かだけど、私めがここで言いたいのは、繰り返すと彼の言う映画の「集合的受容」という概念は、まったくもって普遍的ではないってこと。

 

メチエ本の著者自身「ただし、労働者が実際に映画をどのように受容していたかという状況を考えるとき、ベンヤミンの思い描いていたような技術的身体空間における政治的意識の形成や、そこを駆けめぐり「革命」へと結びつく「神経刺激」といった発想は、あまりにも理想化されすぎた左派知識人の夢のようにも見える(296頁)」と指摘しているように、とりわけベンヤミンの映画論に関しては、時代限定的な、政治的、もっと言えばイデオロギー的な意図が強すぎるという印象を受けざるを得ない。

 

全体的には、ベンヤミンのメディア論には「マクルーハン+マルクス主義」という印象があるように見受けられたけど、マクルーハンよりベンヤミンのほうが先であるにもかかわらず、少なくとも私めにはどうにもメディア論者としてのベンヤミンの影が薄いのは、イデオロギー性が強くて普遍性が損なわれているからのような気がしないでもない。もちろんメチエ本の著者はベンヤミンを専門としているようなので全体的には肯定的にとらえていると思うけど、私めの印象ではネガティブな側面のほうが際立っているように感じられた。

 

 

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※2023年4月28日