◎熊本史雄著『外交官僚たちの大東亜共栄圏』(新潮選書)
大東亜共栄圏については以前、そのものずばりのタイトルを持つ新書本『大東亜共栄圏』(中公新書)を取り上げたことがある。その冒頭(新書本自体ではなく私めが書いたレビューの冒頭)に、「個人的には、広域主義的、普遍主義的な理念は、人々の生活が関わらざるを得ないインプリメンテーションの段階で必ずや挫折すると思っていて、その好例が「大東亜共栄圏」の思想だと考えている」と、さらには「個人的な考えでは、その根本的な原因の一つは、大東亜共栄圏なるものを連邦的な枠組みでとらえるのではなく、日本を中心とした拡張主義的、階層的な枠組みでとらえたことにあるのだと思う」と書いた。たとえば、左派では世界革命を目指すコミンテルン(『コミンテルン』参照)のロシア、共産主義革命の中国、原始共産制を理想としたポルポトのカンボジア、右派では第三帝国を掲げたナチスドイツなどとともに、戦前戦中日本の「大東亜共栄圏」の思想も二〇世紀に起こった広域主義的、普遍主義的な理念がとんでもない方向に展開した二〇世紀の例と見なしていた。そのような思想は、仮に当初の理念は純粋かつ崇高であったとしても、それを実際に実現しようとすると必ずや拡張主義的な側面が前面化して悲惨な結果をもたらす破目になる。それどころか、当初の理念が純粋かつ崇高なものであればあるほど、それだけそれがドグマ化して非現実的なゴリ押しのインプリテーションが発生してしまうとさえ言える。だから現在、普遍主義的なグローバリゼーションを称揚したり、国境のない世界を希求したりしている人たちは、戦前日本のこの失敗を繰り返そうとしているように私めには思える。
ところがこの選書本を読むと、大東亜共栄圏については、他の例とは少し違う、というよりむしろ逆の側面があることを教えられた。つまり最初に大東亜共栄圏という純粋な理想、理念が存在していて、それをインプリメンテーションする段階で理念が現実を恐ろしく歪曲していったというより、個々のまずいインプリメンテーションの積み重ねが最終的に非現実的かつ観念的な大東亜共和圏という非現実的かつ観念的な思想を生み出さずにはおかなかったということがわかったのですね。ところでこの新潮選書本のタイトルは「外務官僚たちの大東共栄圏」であり、オビには≪「無謀な構想」の本丸は軍部でも右翼でもなくエリート官僚だった!≫と書かれている。どうやらまずいインプリメンテーションを次々に重ねて、大東亜共栄圏という奇怪な思想を生み出した経緯には外務省のエリート官僚が関わっていたということらしい。そう言えば最近読んだ『「憲政常道」の近代日本』(NHKブックス)に、大東亜共栄圏には言及されていないものの当時の官僚に関する次のような記述があったのを思い出した。≪一九三四年七月号の『改造』に、若き憲法学者の宮沢俊儀は「官僚の台頭」という論考を寄せ、「非常時」に一番損をしたのが政党であるとすれば一番得をしたと言われるのは官僚であると(同書336頁)≫述べたのだそうな。
新潮選書本に戻ると、著者は「まえがき」の冒頭で、この本の目的を次のように述べている。≪本書は、日本が「大東亜共栄圏」という対外膨張策を構想し破滅するまでの過程を、日露戦後の外務官僚たちを主人公に論じるものである。¶これまで「大東亜共栄圏」と言えば、もっぱら軍部の膨張主義や、アジア主義さらには対外硬派のイデオロギーにその淵源を求められてきた。だが、本書では、この無謀な構想が、外務省という官僚組織において外交思想の集大成として準備されたものであったことを示したい。いわば、「大東亜共栄圏」を追求してきた〈本丸〉が、外務省だったことを明らかにする、という目論見を抱いている(3頁)≫。もちろん、このような見方が日本近代史の専門家の一般的な見解なのかどうかは私めにはわからん。でもなかなかおもろそうなので、買って読んでみることにしたというわけ。
なお本書の流れは時代を追いながら「大東亜共栄圏」思想の展開を検討していくというものだけど、「序章 拡大する権益、継受される思想」にそのあらましが述べられているので、その部分を少し長く引用しておきましょう。≪本書でいう「大東亜共栄圏」とは、権益の拡張・確保・維持をめぐって外務官僚により模索・継受された思想のうちにある、最大公約数的な秩序観(東アジア世界観)のことである。あるいは、別な言い方をすると、〈国益〉追求に邁進した外務官僚たちの思想的営為が、様々に折り重なり多くの要素をまといながら最終的に辿り着いた価値観、ということになろう。本書では、さしあたって、「大東亜共栄圏」をこのように定義づけたい。それは、次のような系譜をたどった末に、一大アウタルキー圏[自給自足経済圏]の建設理念となり、一九四三年の大東亜会議の開催理念にまで至った。¶源流は、日露戦後の満蒙権益の取得である。(…)日露戦争によって満州に権益を得たことが、日本外交にとって最初の画期となった。たしかに日清戦争の勝利によっても、台湾、澎湖諸島という領土を獲得して版図が拡がり、賠償金も得た。¶だが、(…)日本外交にとって大きな障壁となったのは、権益擁護と対米英協調という二つの外交課題の両立を迫られたことである。それは、日清戦後ではなく、日露戦後になって初めて、日本外交が味わった試練だった。本書が、日露戦争勝利による満州権益の取得を重視して、そこから話を説き起こすゆえんである。¶日露協約の締結を経て、権益の拡張・確保・維持を是とする見解が形成されると、それが日本外交方針の命題となり、以後の政策の基軸となる。¶次の画期は、一九三一年の満州事変を経た末の、三三年の国際連盟脱退に求められる。(…)三三年三月二七日に渙発された連盟脱退の「詔書」と同日発表された「国際連盟脱退通告文」には、連盟脱退の「根本義」である「禍根」という文言が繰り返し登場する。前者では「東亜の禍根」、後者では「紛争の禍根」とある。要は、連盟脱退の理由は、日本と中国との特殊な関係性を国際社会が一向に認めようとしなかったことにある、という見解である。¶これを契機に、三五年には「東亜」概念が表明され――これはワシントン体制の打破であり、「九ヵ国条約」の変更・改訂、さらにはそこからの離脱を企図したものだった――、「日満支」経済ブロックや広域経済圏を構想するなかで、三八年には、その実現可能性はともかく「東亜新秩序」声明や「東亜協同体」論が唱えられる。¶さらに日米関係が極度に悪化すると、「南方」へ資源を求めて進出し軍政を敷き、一九四〇年には日本を盟主とする「大東亜共栄圏」建設を唱えるも、最終的にはアジア諸国とのそれまでの垂直的な関係を見直し、四三年に至ると、水平的な関係の構築をめざして開催された大東亜会議の開催理念へと収斂していった(18〜9頁)≫。
さて、このかなり長い引用文のなかには肝心の「外務官僚」という言葉が冒頭に一度しか出て来なかった。もちろん、それについては「第一章 「満蒙」概念の誕生」から始まり本書を一貫して細かく述べられているわけだが、先の引用文のしばらくあとに外務官僚と大東亜共栄圏の関係に関して次のようにある。≪要するに、外務官僚たちは、様々な思想や概念を「大東亜共栄圏」という秩序観へ単線的に収斂させていったのではなく、もともと外務省内に存在した様々な政策的立場や潮流が、大戦間期の国際環境の変動に日本外交が取り込まれるなかで、外務官僚たちによって選別・淘汰され、紆余曲折を経ながら、最終的に「大東亜共栄圏」に至った、という仮説が設定されうるのである。それは、本来あったはずの理想型から逸脱していったというよりは、時機に応じて外務官僚が主体的に選択していった末の結果だったのではなかろうか(20頁)≫。最後の一文はまさに、先に大東亜共栄圏という理念があってそれがインプリメンテーションの段階であらぬ方向に展開したのではなく、外務官僚による個々の政策の遂行がよじれて大東亜共栄圏という理念に煮詰まっていったことを示している。ということで本論に入りましょう。実を言えばこの本は外務官僚というより、小村寿太郎、幣原喜重郎、重光葵、松岡洋右ら著名な外務大臣を中心に話が展開されるので(外務大臣は外務官僚の範疇には入らないのかもしれないが、ときの外務官僚の見方をある程度反映していることに間違いはないのでしょうね)、ここでも個々の外務大臣に関する記述を追っていくことにする。
最初に登場するのは小村寿太郎。彼は一般に、次のような業績によって知られている。≪小村寿太郎(一八五五年生/八〇年司法省・八四年外務省出仕)は、日本外交史上、もっともよく知られた外交官・外務大臣の一人といってよいだろう。日露開戦外交を主導し、戦勝後の一九〇五年には、日露講和条約締結交渉の全権として活躍した。一九一一年には、関税自主権喪失という、幕末以来の長年にわたって日本の貿易・通商事業を苦しませてきた状況を是正し、時の外務大臣として不平等条約の改正に成功している。小村のこうした事績は、すでに教科書に記述され、広く知られている(23頁)≫。その小村の満州観が≪満州支配ひいては「大東亜共栄圏」の「一里塚」を図らずも築いた(24頁)≫経緯が「第一章 「満蒙」概念の誕生」で論じられている。ここでその細かな経緯を追うことはしない。章の最後の記述のみ引用しておく。次のようにある。≪日本の「勢力範囲」は、一八九〇年当初の朝鮮半島から、日露戦争後の一九〇五年に満州へ移り、さらに七年後の第三次日露協約で東部内蒙古へと拡大した。これを機に、満蒙権益の拡張・確保・維持は、日本外交にとっての宿命的課題へと上昇した。と同時に、中国市場での巻き返しを狙うアメリカとの協調という、相矛盾する課題を背負い込んだこともまた、日本外交の宿命となったのである。¶そうした矛盾をはらんだ両義的な外交政策を生み出したのが、ほかならぬ小村であった。それは同時に、満蒙権益を第一義的に追及する、日本外交の誕生を意味した。これが後の「霞が関外交」の基盤となり、正統ともなっていく。¶しかし、満蒙権益を確保するという〈国益〉の追求方法の礎を築いた小村外交は、満蒙権益への執着の種を蒔いたということでもある。そうした執着の種が、やがて日米対立の種にもなり、両国の関係は抜き差しならないものへと発展していく。それは、本書を通じたテーマである「大東亜共栄圏」という価値観・世界観を形成するうえでの「一里塚」になったといえるだろう。日露戦勝という成功体験は、日本外交にとっての暗い影を同時に投げかけもしたのである(46〜7頁)≫。当然、小村寿太郎が活躍していた時分には、「大東亜共和圏」などという言葉も、それに対応する思想も存在していなかった。著者によれば、むしろ彼の外交方針がその後継承されて、のちの「大東亜共栄圏」思想を生む「一里塚」になったのですね。
小村寿太郎の次に登場する外務大臣は、彼の長男の小村欣一で、まず次のように紹介される。≪小村[欣一]は、第一次世界大戦期をカバーする一九一四年八月から一九年一二月までの間、外務省政務局第一課長を務め、さらにその後も参事官として政務局、後継の亜細亜局に兼勤し、対中国外交に関与し続けた。特筆すべきは、政務局第一課長在職時に、実父・寿太郎の満蒙権益保護の精神を引き継ぎつつも、それとはベクトルの異なる、「満蒙供出」論と呼びうる政策論を打ち出したことである。それは、中国市場の利用のあり方、とりわけアメリカとどう向きあうべきなのかという重要な政策課題への、小村なりの回答であり、権益保護を論じた同時代の様々な言説のなかでも例をみない、大胆で独自性に富む政策論だった。もし、この「満蒙供出」論が日本外交の基軸になっていれば、日本外交がその後に辿った軌跡は、違ったものになっていたかもしれない(51〜2頁)≫。どうやら「満蒙供出」論とは著者独自の用語らしい。ではそれはどんな論なのか? 次のようにある。≪その特徴を一言すれば、それは「支那全土を開放する」というフレーズに尽きる。これは、一九一八年末から一九一九年初頭にかけ、小村により数次にわたって提示されたものである。注意すべきは、「支那全土」が、満蒙地域(万里の長城以北:関外)と「支那本土」(同以南:関内)の双方とを統合した地域を指していたことだった。¶「満蒙供出」論は、日本外交のあり方に転換を迫る、画期的な政策観に裏打ちされていた。当時の日本の対中外交の王道は、小村の実父・寿太郎が築いた路線、すなわち満蒙権益の確保を柱とするものだった。(…)それゆえ、日本の権益が集中する「勢力範囲」たる満蒙地域を「開放する」などという発想を、当時の外交当局は、小村を除いて誰も持ち合わせていなかったのである(53頁)≫。では具体的にどのような政策が含まれていたかに関しては、細かくなるのでここでは述べない。いずれにせよ、この「満蒙供出」論は、外務省の主流からはずれていたため、結局は≪大蔵省と対立した結果、外務次官の幣原喜重郎のイニシアティブにより、修正を迫られることになる。その修正過程と、そうした修正を主導した幣原がやがて「満鉄中心主義」を追求していく(73頁)≫ことになるのだそう。すなわち、小村の「満蒙供出」論は、一時のあだ花に終わったということ。それについてはこれから取り上げる幣原喜重郎に関する記述にも見て取れる。
ということで次に登場するのが、その「満蒙供出」論の修正を主導した幣原喜重郎。なお著者の熊本氏は、幣原喜重郎に関して『幣原喜重郎』(中公新書)というまんまのタイトルの新書本を著している。幣原の満蒙に対する考え方は次のようなものであったらしい。≪幣原は、満蒙を「開放」の対象ではなく、(…)個別に権益を確保すべき対象とみなしたのである。事実、幣原は満蒙権益を、ことに満鉄を重視した。そうした幣原の満鉄観は、やがて幣原が「満鉄中心主義」に取り込まれていく要因となった。同時にそれは、外相として満州事変に対応した幣原が、ダークサイドに転落していく大きな要因でもあった。¶こう考えると、小村の提唱した「満蒙供出」論は、長い目で見れば、「大東亜共栄圏」への転落を防ぐ可能性を秘めていたとも評価できる。それは、「満蒙供出」論が市場開放原理を重視し、満蒙地域への過度な固執と特殊性を追求しなかった点に看取できる。対米追従の度合いが強いとはいえ、それこそが「転落」を回避する、重要な要素になりえたと考えられるのである(88頁)≫。
では、満州事変が勃発した際に幣原喜重郎は外務大臣としてどう対応したのか? それに関して次のようにある。≪幣原は、外相として事変対応の陣頭指揮を執るべき立場にありながらも、事変勃発一カ月後には、[満鉄]並行線問題の解決を盛り込んだ「五大綱目」を発して撤兵条件を吊り上げ、事変の解決を困難にした。さらには、その一カ月後に、満州事変の原因と責任を中国側に求める見解を示し、事変の解決を実質的に放棄したのだった(102頁)≫。「満鉄並行線」とは、敢えて説明する必要はないと思うが、一応ひとことで説明しておくと≪文字どおり、満鉄に並行して走る中国民族資本による鉄道のことである(94頁)≫。また≪撤兵条件を吊り上げた≫とは、「五大綱目」に掲げた撤兵条件の一つに満鉄並行線問題の解決を含めて、≪在留邦人の生命財産の確保と安全が保証されれば撤兵するという従来の撤兵条件を変更し、それを大きく吊り上げた(100頁)≫ことを指す。このような幣原の政策が「大東亜共栄圏」の着想につながったことを著者は次のように述べている。≪なぜ国際協調主義で知られる幣原が、満州事変という重大な局面において、このような「悪手」を繰り返したのか。その背景には、なかばイデオロギー化した「満鉄中心主義」と、それと補完的な関係にあった満鉄並行線への異様なまでの危機感があった。幣原は、北満進出を説く「満鉄中心主義」の性格と意義とを早くに感得していた。それゆえ、満鉄並行線問題の解決が行き詰まると、それを深刻に捉え、憂慮した。そうした憂慮は、満州事変への対応の際、焦慮となって幣原を襲うことになったのである。と同時に、そうした思考様式と行動様式からは、満蒙利権に対する排他的な価値観がうかがえる。小村の「満蒙供出」論を斥け、「満鉄中心主義」に取り込まれた幣原は、図らずも後の「大東亜共栄圏」の排他性や独善性へと繋がっていく重要なアクターの一人になってしまったと言わざるを得ない(102頁)≫。
さて次に取り上げられているのは、外務大臣ではなく傍流外務官僚たちが提起した「精神的帝国主義論」について。ではいったい「精神的帝国主義論」とはいったい何なのか? それについてまず次のようにある。≪本章[第四章]で採り上げる「精神的帝国主義」論は、(…)満州事変勃発の直前である一九三一年五月に外務省文化事業部によって提唱された、「対支文化事業」という文化交流事業を遂行するための論理である。(…)「精神的帝国主義」なるいささか聞き慣れないこの政策論は、階層的で支配的な秩序観の「大東亜共和圏」構想とは位相を異にした。というのも、従来の日本外交のあり方を反省しつつ中国との新たな向き合い方を提案する一方で、西洋文化に対する東洋文化の優位性を説くという、両義性を宿していたからである。いうなればそれは、〈遅れてきた「新外交」呼応論〉とでもいうべき性格と、〈東洋文化優位論〉といい得る性格とを併せ持つ政策論だった。そうした政策論のもとで、外務省文化事業部は、「対支文化事業」を通じ、新たな日中関係の構築と世界のなかの日本の位置を模索しようとしたのである(103〜4頁)≫。
では具体的には「精神的帝国主義」とはいかなる政策だったのか? それに関して次のようにある。≪では、「精神的帝国主義」とは、どのような政策論だったのだろうか。¶それは、国際社会との繋がりにおいて文化事業を如何に位置づけるべきなのかを問う、未来志向の政策論だった(113頁)≫。≪未来志向の政策論≫であったのなら、すぐれた政策であったと考えてもよさそうに思える。だがほんとうにそうなのか? 次に外務省文化事業部が作成した「趣意書」をもとにこの未来志向の政策論の内容が説明されている。そこでまず、「趣意書」の一部が次のように引用されている。≪一般文化事業は〔中略〕、{結局世界全体を一全の文化/傍点}に帰せしめ、全人類の向上に貢献せしむ、彼の一般に公理として認められたる「思想学芸に国境なし」との語は文化的財貨の全人類的本質を指示するものにして、従て又文化事業の全人類的意義を闡明するものなり(114頁)≫。これを読んだ私めは、まさにこれこそ冒頭で述べた普遍主義的な言説であり、「世界全体を一全の文化に帰せしめ」「全人類の向上」「国境なし」「全人類的本質」などといった、現代のグローバリズムや左翼過激思想にさえ通じる実に危険な発想の断片が含まれていると思ってもた。ここまでの本書の記述には、その手の観念的、理想主義的な思想はほとんど見出せなかった。ここで初めて出現したと言ってよいように思う。むしろ、ここにこそ後年の「大東亜共栄圏」の思想が芽吹いていたとさえ言えるかもしれない。個人的にはそう思ったのですね。著者はこの引用の直後で、次のように述べている。≪注目すべきは、「結局世界全体を一全の文化に帰せしめ」というくだりだろう。それは「思想学芸に国境なし」という謂われを逆用し、「全人類の向上に貢献」する「公理」として文化事業を位置づけようとする見解に他ならなかった。¶とはいえ、全人類を覆う「一全の文化」として文化事業を高めることなど果たして可能なのだろうか。「趣意書」は、そのための方法論を(…)「精神的帝国主義」論に求めたのである(114〜5頁)≫。私めは≪全人類を覆う「一全の文化」として文化事業を高めること≫など不可能だと考えている。というのも、その手の普遍主義を掲げた途端に、拡張主義的な傾向が色濃くなるからで、結局あっという間に帝国主義的政策に堕してしまうのがオチだから。だから「精神的帝国主義」論を持ち出さざるを得なかったとも言える。
少しあとにさらに次のようにある。≪人類が本来もつ「闘争本能」を戦争に振り向けずに、文化事業へ振り向け発揮させる。戦争が「物理的帝国主義」「腕力的帝国主義」の発現であるとするならば、文化事業は「精神的帝国主義」によって平和的に実施される、次代を担うべき新たな政策である、というわけである(116頁)≫。腕力でなければよかんべさという発想だけど、これはまさに「文化帝国主義」であり、現代で言えば中共が世界各国に仕掛けている「サイレントインベージョン」と大して変わらない。だから著者の次のような指摘は正鵠を射ていると言える。≪「文化立国策」を掲げる「精神的帝国主義」論には、東洋文化の価値を世界に発信することによって、西洋文化に対する東洋文化の優位性を説明するとともに、そうした価値を発信する日本の優位性をも主張する意図が含まれていたとみるべきだろう(120頁)≫。その結果どうなったか? それについて、次のようにある。≪「趣意書」が射程に収めたはずの中国との協調さらには国際社会との協調を目指す精神はすっかり失われ、アジア盟主論の要素を包含する理念へと変貌を遂げていた。(…)文化事業部で模索された「精神的帝国主義」論は、その実践をみるまでもなく、自らの手によって新たな論理に取り替えられたのである。それは、アジア諸国との共存共栄を目指すはずの「大東亜共栄圏」が、日本によるアジア支配を正当化するロジックへとすり替わっていく道筋を想起させる(126頁)≫。これを読むと「大東亜共栄圏」の思想的なルーツは、まさにこの「精神的帝国主義」論にあったようにも思える。要するに「全人類の向上」「国境なし」などといった非現実的な理想主義が、結局「大東亜共栄圏」のような広域主義的、拡張主義的な思想へと変貌してしまうことをこの経緯は示唆しているとも言えよう。リベラルを自称する日本の左派はよく、戦前の日本の過ちに学べと連呼する。でも、それならなおさら「国境のない世界」「世界政府」「グローバリズム」などといった自滅的な妄想にふけることをただちにやめなければならない。そのことこそが戦前戦中の「大東亜共栄圏」の失敗から学ぶべきことなんだからね。
さて次に登場するのは重光葵で、まず次のようにある。≪外務官僚たちが「大東亜共栄圏」なる秩序観へ転落していった過程で、回帰不能なポイントがあったとしたら、いったいそれはどの時点だったのだろうか。¶これまで述べてきたとおり、外務官僚たちは、いくつかの段階や曲折を経ながら「大東亜共栄圏」への道を漸進的に選択していった。要は、ある時期を境に突如として「大東亜共栄圏」へと向かったわけではなかったのである。だがその一方で、ポイント・オブ・ノー・リターンは存在したのではないだろうか。「大東亜共栄圏」へと転落していくうえで、国際協調の枠組みから離脱し、引き返すことができなくなった決定的なポイントはあったのではないか、と。¶ならば、それはいつだったのか。それは他ならぬ、(…)重光葵(一八八七年生/一九一一年第二〇回試験合格)による「第一〇九号電」の発電とそれを基にした「{天羽/あもう}声明」(後述)の発表、およびそれらを発展させた「東亜」概念の提唱のときであった、というのが筆者の見立てである(129〜30頁)≫。どうやら外交上では、重光葵が重要な役割を果たしたということらしい。
ここでは実質的に重光葵が作成した「第一〇九号電」を基にした「天羽声明」とは何かについてだけ述べておく。それに関して次のようにある。≪「天羽声明」とは、一九三四年四月一七日に外務省情報部長の天羽英二が定期記者会見で日本の東アジア政策について述べた、非公式談話のことである。記者会見の場には外国人記者・特派員もおり、その内容がセンセーショナルだったために国際問題化した。その内容を要約すれば、以下の三点になる。¶@日本は「東亜に於ける平和及秩序を維持すべき使命」を負っている。¶A列国による中国への共同動作はその名目が財政的であれ技術的であれ、結果的に政治的意味を包含し中国の統一および秩序回復を阻害することになるので、日本はこれに反対する。¶B各国個別の経済活動であっても、「東亜の平和及秩序を攪乱する性質」のもの「例えば武器、軍用飛行機等を供給し、軍事教官を派遣し、政治借款を起すが如き事」に対しては反対せざるを得ない(145〜6頁)≫。著者によれば、@はアジア・モンロー主義の表明だとのこと。Bについては、≪諸列国の対中国援助を「東亜の平和及秩序」の「攪乱」要因と位置づけた点が重要(146頁)≫らしい。要するにそれらは≪各列国による対中国援助を真っ向から否定し、対中国政策での各列国との協力・連携を完全に断ち切ろうとする排他主義だった(147頁)≫ということになる。
その結果、次のようなヤバい流れが生じてしまったというわけ。≪三四年四月から七月にかけて、対中国政策での列国との協調を放棄し、単独で中国との折衝に当たろうとする政策、さらには列国による対中国援助策を敵視するアジア・モンロー主義的な政策が前面に出てきた。この時の対中国政策を特徴づけた「重光路線」と称すべき方針は、翌三五年に至ると、「東亜」概念としてより明確に語られることになった。有吉[在中国公使の有吉明]が懸念した「大亜細亜主義を強行する意図」の輪郭線が、重光によって次第に克明に描かれていく(151頁)≫。ここに至って日本の政策に拡張主義的な広域主義の傾向が色濃く見られるようになったということでしょう。引用文中の「東亜」概念については次のように説明されている。≪「東亜」概念は、(…)地理的な広範さを単純に説くものではなかった。そうではなく、各列国を中国市場から駆逐し、日本が排他的かつ主体的に「安定」を追求するための概念として、一九三三年三月の連盟脱退以降、翌三四年四月から五月にかけて外務省内で形成され、同年夏頃には日本の対外政策の基本路線になったものだったのである。(…)「東亜」概念の提唱によって、日本が各列国と対中国政策において協調することは実質的に不可能となった。これは、従来の日本外交の根源的なレベルでの変質・転換だった。日本外交は、この瞬間に、ポイント・オブ・ノー・リターンを通過したといえるだろう。その後の日本外交は「興亜」に取り憑かれ、「大東亜共栄圏」なる秩序観へと転落していくことになる(153〜4頁)≫。
次に登場するのは有田八郎で、彼の広域経済圏構想が取り上げられているけど、少なくとも私めにとってはビッグネームではないので次の記述を引用するに留めておく。≪有田によって構想された広域経済圏とは、世界を米・英・ソ・欧州・日満支の五つのグループに分け、このグループ間での経済や文化の交流を通じて、国際的な協調関係を構築しようというものだった。要は、五グループで棲み分けながら世界市場を管理しあうことによって、共存可能性を担保しようとしたのである。それは、かつての「東亜新秩序声明」が依拠した「共同防共」という外交上の価値とは異なる、地政学的な価値観から唱えられた新たな秩序論だった。¶ただし、この棲み分けにはある前提が必要だと、有田は考えていた。その前提とは、@日中関係を改善して経済提携を図ることであり、Aそのために、中国市場から英米を排除することだった。有田が中国市場からの英米排除を訴えたのは、英米による中国支援が中国国民政府の反日的態度を促している、と考えたからである。この点は、重光の「東亜」概念と近似していた(192頁)≫。まあ「棲み分け」とはずいぶんと響きがよく聞こえるけど、実態は日本主導のブロック経済圏を作ろうとしたということなのでしょう。著者も、有田の広域経済圏構想は、結果的に≪松岡洋右外相が公言した「大東亜共和圏」構想への道を準備したに過ぎなかった(203頁)≫と述べているしね。
ということでお次はその松岡洋右。まず次のようにある。≪「大東亜共栄圏」という構想を日本の政治・外交史上で初めて公式に使用したのは、第二次近衛内閣で外相を務めた松岡洋右(一八八〇年生/一九〇四年第一三回試験合格)である。一九四〇年八月一日の「外相談話」における発言だった(205頁)≫。では彼の「大東亜共栄圏」の考えとはいかなるものか? 著者は松岡の著書『興亜の大業』から引用したあとで次のように述べている。≪イデオロギー的かつ観念的に過ぎる言説だと切って捨ててしまえば、それまでなのだが、重要なのは、もはや松岡がこのような言説でしか「大東亜共栄圏」の意義を語れなくなっていた点である。本来の松岡は、こうした観念的な言説を好まなかった(225頁)≫。≪観念的な言説を好まなかった≫というくだりは、イデオロギー的にではなく外交的にものごとを考えていたという意味なのでしょう。この選書本を読んでいるとわかることなんだが、小村寿太郎ら初期の外交官はイデオロギー的にではなく外交戦略として対外政策を行なっていたのに、その後の外務大臣や外務官僚の考えは次第にイデオロギー性を帯びていくのですね。その頂点が「第八章 「大東亜共栄圏」構想の虚実」で取り上げられている、一九四三一一月の大東亜会議で採択された「大東亜共同宣言」だと言える。この宣言は一見すると非常に進歩的に映るものの、普遍主義的イデオロギーが煮詰まったような内容を持っていると言える。左派的とさえ言えるかもしれない。いずれにせよ、それについてはあとで述べる。要するに、歴代の外務大臣や外務官僚が現実的な外交政策を展開していくうちにあちこちで矛盾が発生し、その矛盾に対処するためにものごとの見方が次第に観念化、イデオロギー化していったというのがほんとうのところなんだろうと思う。冒頭で述べたように、観念的で、普遍主義的なイデオロギーが先に存在していてそのインプリテーションの段階で、普遍的な理想を無理やり現実に押しつけた結果、現実がボロボロになっていくというのが一般的な展開なのに対し(現在の日本政府がやっていることもこれに近いがそれについては最後に取り上げる)、「大東亜共栄圏」思想はむしろ逆の経緯を経てイデオロギー的に煮詰まっていったという印象を受ける。ここでもう一度著者が二〇頁で述べていた、≪要するに、外務官僚たちは、様々な思想や概念を「大東亜共栄圏」という秩序観へ単線的に収斂させていったのではなく、もともと外務省内に存在した様々な政策的立場や潮流が、大戦間期の国際環境の変動に日本外交が取り込まれるなかで、外務官僚たちによって選別・淘汰され、紆余曲折を経ながら、最終的に「大東亜共栄圏」に至った、という仮説が設定されうるのである。それは、本来あったはずの理想型から逸脱していったというよりは、時機に応じて外務官僚が主体的に選択していった末の結果だったのではなかろうか≫という見立てを思い出されたい。
選書本に戻ると、『興亜の大業』で提起されている「大東亜共栄圏」に関する松岡洋右の見方についてさらに次のようにある。≪「新世界文化の建設」を「皇国日本の大理想」と位置づけ、日本は「満支両国」を「会同」させてそれを達成すべきだという。それは「東亜共同意識の育成」に他ならず、「東亜諸国間に於ける各民族の融和結合運動、乃至文化並教育の隔意なき交換運動」へと昇華させていくべきだと、結論づけられた。結局のところ、自著『興亜の大業』で松岡が辿り着いたのは、西欧による物質文明への決別と、その反動で語られる「大東亜の諸民族」による文化的・精神的紐帯の重要性だった。それが「大業」の中味だった。これを外務官僚たちによる思想の継受の問題として捉えるならば、「精神的帝国主義」論(第四章参照)の最終形態だということになろう(226頁)≫。≪新世界文化の建設≫だとか≪皇国日本の大理想≫だとか最初からイデオロギー性が全開になっているけど、最後にある「「精神的帝国主義」論の最終形態」という文言に注目されたい。これを読むと、「精神的帝国主義」論を取り上げたときに書いた「「大東亜共栄圏」の思想的なルーツは、まさにこの「精神的帝国主義」論にあるようにも思える」という私めのコメントが当たっていたことがわかる。その結果、松岡洋右の提唱する「大東亜共栄圏」がどうなったかに関して著者は次のように述べている。≪「大東亜共栄圏」を観念的なレベルでしか追求し得ないところにまで追い込まれた時点で、秩序観たる「大東亜共栄圏」の構築は破綻したのだった。日露戦後、日本外交が追及してきた東アジアにおける磁場形成の試みは、観念的にしか語れない境界へと堕したのである。日独伊三国軍事同盟の締結だけでなく、「大東亜共栄圏」構想を公言したこともまた、松岡にとって「一生の不覚」だったというべきだろう(227頁)≫。
ところが実質的に松岡が退場しても、もう一度重光葵が登場して、さらにぶっ飛んだ観念的なレベルで大東亜共栄圏を構想し始めるのですね。よって次は再度重光葵を取り上げる。まず第九章の冒頭で、大東亜会議とそこで採択された「大東亜共同宣言」がいかなるものであったかが次のように説明される。≪この大東亜会議で採択されたのが、「大東亜共同宣言」である。同宣言では、それまで第二義的にしか扱われていなかった、アジアの解放と復興を戦争目的の正面に据え、「自由」と「民族自決」の重要性が訴えられていた。それはある意味で、アジア諸国との「水平」的な関係構築を企図したものであり、それまでの「垂直」的で、アジアの盟主たる位置を占めようとした日本の「大東亜共栄圏」の建設路線を転換したものだった。(…)会議開催と「大東亜共同宣言」の発出を主導したのは、東條英機内閣の外相・重光葵だった。先にみたとおり、重光は一九三四年四月には「天羽声明」の原型となった電報案文を起草し、三五年三月には「東亜」概念を唱え、その後のアジア・モンロー主義を方向付けた張本人だった(第五章参照)。その重光が「自由」と「民族自決」を盛り込んだ「大東亜共同宣言」を起草したのである。「東亜」概念と「大東亜共同宣言」とでは、そこに内包される主張や理念は真逆で、矛盾しているようにみえる。この点をどのように理解すれば良いのだろうか。重光の東アジア秩序観が変化したとみるべきなのか、それとも、矛盾するようにみえる両者間にも、一貫して通底する理念や世界観が実は潜在している、とみるべきなのか(229〜30頁)≫。
さてここで、以上の問いを考えるにあたって重要なので「大東亜共同宣言」なるものの具体的な内容を抜き書きしておきましょう。次のようにある。≪大東亜を他の侵略又は搾取より永遠に解放し、道義に基き大東亜に於ける和親の関係を建設し、惹て万邦共栄の世界的建設と人類の平和的発展に寄与せんが為、大東亜各国政府代表は左の通り宣言す。¶一、大東亜各国は大東亜を永遠に解放し大東亜諸民族の自主的向上発展を基調とし、大東亜全体の安定保衛と共存共栄とを確保すべき堅き決意を有す。¶二、大東亜各国は相互に自主独立及領土保全を尊重すると共に善隣として平等互助の友好関係を確立せんことを期す。¶三、大東亜各国は民主の向上を促進し、衡平互恵の原則の下相互に緊密なる経済提携を行ふことにより、大東亜全体の経済発展を図ると共に進んで資源を開放し、交易を増進し併せて国際交通に対する障害を除去し、以て経済の発展及繁栄に協力せんことを期す。¶四、大東亜各国は相互に固有の伝統、宗教、文化を尊重し、更に「アジア」本然の精神的文明の昴揚を図り広く文化の交流を期し、以て世界人文の発展に寄与せんことを期す(243頁)≫。「大東亜共栄圏」と言うといかにも右翼的な概念に聞こえるけど、これを読むと左翼的な響きが強烈にあることがわかる。「大東亜」を「アジア」と置き換えれば、≪固有の伝統、宗教、文化≫に言及している「四」を除けば、現代の日本の自称リベラルがこれと同じことを言ってもさほど不思議ではないように思えるよね。いずれにせよ、きわめて理想主義的だと見ることができる。
ではこの大東亜共同宣言について著者はどう見ているのか? 次のようにある。≪しかしながら、「大東亜共同宣言」の背後に、対英米戦争を遂行するためにアジア各地域からの協力と資源を調達したいという本音が隠されていたことは否めない。外務省が「大東亜」の各国・各地域との間で最終的に築きあげたのは、信頼に基づく友好関係とは言えなかった。宣言で平等や互恵の精神を語りつつも、その根底には、アジアの各国・地域を資源調達の「場」とみなす見解も含まれていた。そうしたある種の欺瞞性、隠蔽性は、次の言説からうかがえる。¶¶大東亜宣言と云う問題に根本的に疑問を有す。米英の大西洋憲章は戦後の目的、戦後の処理を規定するものなるが、大東亜のものは、戦力増強に直接役立つものたらざるべからず。大東亜の結集と云うも結局は勝利の為の結果なり(248頁)≫。端的に言えば、これでは本質的に「天羽声明」の頃の考えと何ら変わらない。変わったのは、内容がより理想主義的になったことだけだと言える。結局、悪化する情勢から現実逃避を重ねてきた結果が、恐ろしく理想主義的な考えに煮詰まってしまったように個人的には思える。
翻って現代の日本を考えてみると、非常に似たような状況が生まれているようにも思える。左傾化どころか極左化した日本政府が、「共生」という大東亜宣言並みの理想主義的概念を持ち出して、外国人優先の政策を取っている。かつては、この大東亜共同宣言に見られるように理想主義で糊塗して日本が他のアジア諸国を簒奪することを正当化していたのと同じように、現代の日本政府は「共生」という理想主義を掲げることで日本国民を簒奪していると見ることができるのではないか。なお「共生」それ自体が間違った考えだと言いたいわけではない。そうではなく「共生」するためには現実的に何をしなければならないかをまったく考えずに、ただ「共生」を連呼しながら現実をまったく無視した政策を続ければやがて日本は破綻せざるを得ないと言いたいのですね。その徴候はありとあらゆるところに見て取れる。しかも自称リベラルはなぜか日本人側には共生の努力を求めても、治外法権に近い状態を生み出そうとしている外国人もいるのに、外国人側には求めない。それどころか外国人にもそれを求めれば「外国人差別だ!」とレッテル貼りをして騒ぎ始める(こんなケッタイな連中は世界の他の国にもいるのだろうか?)。ネット民はよく「それは逆差別、すなわち日本人差別だ!」と言いたがるけど、日本人が服している法に服する必要はないとして外国人を一人前に扱わないパターナリズムと呼ばれる差別であるという点を私めは特に強調した。さらには非現実的な理想主義に凝り固まった日本の左派メディアはこの問題をまったく無視しているように思われる(ネットにあがっている各テレビ局や新聞社の動画や記事を見た限りではあるけどね)。まさしくかつての大東亜共栄圏のような非現実的な理想主義(共生思想)がまかり通っているにもかかわらずそれを無視しているということは、大手メディアは、戦前においても現代においても、擁護する思想が右から左へ変わっただけで、どうしようもない大政翼賛機関でしかない(なかった)ことを如実に語っているとも言えよう。
以上はあくまでも「大東亜共同宣言」に対する私めの個人的な感想だけど、著者は第九章の最後で「大東亜共同宣言」を評価して次のように結論づけている。≪アジア諸国との連携・連帯は、本来であれば第一義的に達成されるべき日本の外交課題であるべきだったにもかかわらず、その追求において語られる意義や普遍的価値とは裏腹に、それを実現するだけの熱量と力量とを、日本外交は十分に持ち合わせてはいなかったのである。¶そうした世界と秩序を作り上げたのは、他ならぬ外務官僚たちであった。「大東亜共栄圏」という秩序観と世界観は、日露戦後から約四〇年間を通じて外務官僚たちが連綿と継受してきた、権益をめぐる戦略的思考の集大成であった。それは、アジアの「解放」と資源の「開放」という両義性に揺れる、虚実の入り交じった、砂上の楼閣だったのである(250頁)≫。理想主義に走る現代の日本政府も、まさに砂上の楼閣を築こうとしているように見えるのは私めだけかな? 砂上の楼閣は崩れる時には一気に崩れてあとには何も残らなくなることを考えれば、現代の日本は敗戦直前の頃の日本とヤバさが大して変わらないように思える。
ということで、これで第九章までが終わったことになる。「終章 求められる「慎慮」、問われる「外交感覚」」がまだ残っているけど、それに関しては次の重要な指摘を引用するに留めておく。≪そもそも外交とは、〈国益〉を追求しつつ、一方では国際社会との協調を模索せねばならないという、矛盾を抱える活動である。よって、矛盾した目標や課題を設定すること自体が、問題なのではない。重要なのは、矛盾を抱えねばならない外交のそうした性格や原理について認識を深め、時代の変化の性質を正しく認識し、自らの国益と国際社会との協調を調整する仕掛け(組織・制度)を設計して運用していくことである(264頁)≫。個人的にはこれは「外交」のみならずあらゆる政治的側面に当てはまると考えている。このことをまったくわかっていないのが、最初から答えを一つに決めてかかる理想主義を掲げ、(意図しているか否かは別として)現実を破壊しようとしている政治家や自称知識人たちなのですね。だから政治家や自称知識人、さらにはどうしようもないオールドメディアは、この本を読んで大東共栄圏思想の何が問題なのか、そしてまさに現代の日本も類似の状況に置かれていることを認識したほうがいいと思う。大東亜共栄圏のような思想は、いつの時代にも生まれうるのであり、現在でもそれが形を変えて跳梁跋扈していることを誰もがよく考えてみるべきだと思うべさ。
※2025年6月17日