第2部:資本の流通過程
第1篇:資本の諸変態とそれらの循環
第1章:貨幣資本の循環

第1節
第一段階、G−W



一般的商品流通のこの過程を、同時に一つの個別資本の自立的循環のなかの機能的に規定された一部分にするものは、さしあたり、この過程の形態ではなく、それの素材的内実であり、貨幣と席を換える諸商品の独自な使用の性格である。[32]

この第一段階の過程の「素材的内実」「商品の独自な使用の性格」とは、購入された商品自体が、別の商品を生産するための「要因」となること。すなわち、貨幣額の一部分は生産諸手段を購入するために使われ、他の一部分は労働力を購入するために使われるということ。

したがって、G−Wは、その素材的内実に着目すると、つぎのように表わすことができる。

G−W<Pm、A〔Pm=生産諸手段、A=労働力〕

さらに、PmとAは、相互に量的な規定関係にある。

生産諸手段Pmと労働力Aとの間の規定関係

労働力の価値または価格は、労働力を商品として売りに出すその保有者に、労賃の形態で、すなわち剰余労働を含むある労働総量の価格として、支払われる。……購買されるべき生産諸手段の分量も規模も、この労働総量を使用するのに十分なものでなければならない。[32-33]

一定数の労働者によって支出されるべき余分な剰余労働の総量によってはじめから規定されている関係[33]

質的にも量的にも互いに関係をもっている、生産諸手段と労働力という商品。買い手である資本家は、これらの購買を“完了”した段階で、「剰余価値を含むある商品総量」を生産できる自由裁量を手にすることになる。

彼が貨幣形態で前貸しした価値は、いまや、それが剰余価値(諸商品の姿態での)を生む価値として具現されうる現物形態をとっている。[33]

この形態にある資本をマルクスは「生産資本」と呼び、文字Pで示した。

G−W<Pm、Aは、「貨幣形態から生産的形態への資本価値の転化」「貨幣資本の生産資本への転化」であるということができる。

第一段階におけるGの機能=“資本価値の最初の担い手”

ここでは、貨幣は、資本価値の最初の担い手であり、一般的購買手段と一般的支払手段の機能を果たしうる状態にある。

労働力は、確かにまずもって買われはするが、しかしそれが機能し終わったあとにはじめて支払われる限りでは、〔貨幣は〕支払手段。生産諸手段が既成のものとして市場に現存するのではなく、これから注文しなければならない限りでは、…やはり支払手段として機能する[34]

貨幣形態をとっている資本価値、貨幣資本は、この形態のままでは、貨幣としての機能は果たせても、資本としての機能を果たしうるわけではない。

この貨幣諸機能を資本諸機能にするものは、資本の運動のなかでの貨幣諸機能の一定の役割であり、それゆえまた、貨幣諸機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との連関である。[34]

循環運動のなかで、あるいは他の段階との連関のなかで、はじめて、貨幣形態をとる資本価値は資本としての機能をはたす。貨幣は商品に転換されることを前提されているし、転換されなければならない。

労働力の購買G−A

労働力の購買は、同時に労働者側からは労働力の販売だ。資本家が購買のために流通過程に投げ込んだ貨幣は、今度は労働者の生活のための購買行動によって、自然に、すんなりと、一般的商品流通過程のなかに溶け込んでゆく。

また同時に、この労働力の購買という局面は、貨幣形態としての資本価値を、剰余価値を生産する価値に転化するための本質的条件だ。

G−Aは、貨幣資本の生産資本への転化を特徴づける契機である[35]

このこと自体は、第1部で検証されているが、今回はとくに、資本価値の形態変換、形態形成がどのような過程をたどっているのかという観点から、考察がすすめられる。

労働力の購買G−Aの特徴はどこにあるか

第1部の考察のなかで、“労働力の購買”の本質が、つぎのような点にあることが明らかになった。

労働力の購買が、労働力の価格である労賃の補填に必要であるよりも多量の労働の提供――すなわち、前貸価値の資本化のための、または同じことであるが剰余価値の生産のための根本条件である剰余労働の提供――の、約定がなされる購買契約である〔ということ〕……。

……この〔形態の〕不合理さは……、価値形成要素としての労働そのものはなんらの価値ももちえないということ、したがってまた一定分量の労働は、その労働の価格――その労働と一定分量の貨幣との等価――で表わされるなんらの価値ももちえないということにある。しかし……、労賃は一つの仮装形態にすぎないのであり、この形態においては、たとえば労働力の日価格は、この労働力によって1日のあいだに流動化される労働の価格として表わされ、したがって、たとえば、この労働力によって6時間の労働で生産される価値が、この労働力の12時間の機能または労働の価値として表現される……。[35]

実際の“市場”では、労働力の購買という局面がもつ本質は意識されていない。むしろ、「労働が貨幣で売買される」という“見かけ”が了解されている。すなわち、「労働がその所有者の商品として現われ、貨幣が買い手として現われる」ということが、資本主義社会の特徴として捉えられる。このことは、第1部の労賃論で指摘されていた。

マルクスは、さらに別の角度から“確認”をしている。「貨幣が買い手として現われる」ということ自体は、貨幣が貨幣資本として機能する以前の、すでに自明の貨幣機能だということ。

貨幣がどんな種類の商品に転化されるかは、貨幣にとってはまったくどうでもよいことである。貨幣はすべての商品の一般的等価形態であり、すべての商品は、それらが観念的に一定額の貨幣を表わし、貨幣への転化を期待し、そして貨幣との場所変換によってのみ、商品所有者にとっての使用価値に転換されうる形態を受け取るということを、すでにそれらの価格において示している。[36]

このことも、すでに第1部で展開された貨幣論のなかで指摘されていた。

だから、労働力の購買という局面の特徴として、まずここで確認されるのは、「買い手」の機能ではなく、「買われる側」「売り手」の商品の特異さであり、労働力がその持ち主の商品として市場に登場しているということだ。

階級関係の定在が労働力の購買G−Aの前提となる

マルクスは、労働力が商品として現われるということ、労働力が売買されるということが市場で成り立つ上での、前提条件を指摘している。これらの前提がなければ、労働力の売買が市場で行なわれることはない。

貨幣がはじめて生産資本に転化されるとき、または貨幣がその所有者のためにはじめて貨幣資本として機能するときには、その所有者は、労働力を購買するまえに、まず生産諸手段、すなわち、作業用建物、機械などを購買しなければならない。というのは、労働力が彼の支配下に移るやいなや、それを労働力として使用しうるためには、そこに生産諸手段が存在しなければならないからである。

……〔労働者〕の労働力の生産的活動は、その労働力が販売されて生産諸手段と結合される瞬間からはじめて可能になる。すなわち、労働力は、その販売以前には、生産諸手段――活動の対象的諸条件――から分離されて実存する。この分離状態にあっては、労働力は、直接にその所有者のための使用価値の生産にも、またその所有者が生活しうるために販売する商品の生産にも、使用されえない。[36]

買い手である貨幣所持者は、労働力という商品を機能させる条件を前もって整えておかなければならず、労働力を商品として提示するその所有者は、その労働力を売ったカネで生活する以外、自分自身の労働力をどうにも使用できないような状態で、すでに存在していなければならない。

それゆえ、G−Aという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、買い手および売り手として関係し合い、……この面から見れば互いに単なる貨幣関係にあるにすぎないとはいえ――それにもかかわらず、買い手は、最初から同時に生産諸手段の所有者として登場するのであって、この生産諸手段は、……労働力の所有者にたいして他人の所有物として相対する。他方では、労働の売り手は、その買い手にたいして他人の労働力として相対するのであり、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として自己を発現するために買い手の支配下に移り、彼の資本に合体されなければならない。したがって、資本家と賃労働者との階級関係は、両者がG−A(労働者の側から見ればA−G)という行為で相対する瞬間に、すでに現存し、すでに前提されている。……この関係は、労働力の具現のための諸条件――生活諸手段および生産諸手段――が他人の所有物として労働力の所有者から分離されるとともに、与えられている。[37]

さきにマルクスは、

貨幣諸機能を資本諸機能にするものは、資本の運動のなかでの貨幣諸機能の一定の役割であり、それゆえまた、貨幣諸機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との連関である。[34]

と指摘していたが、さらに、ここでは、G−Aという“連関”が、貨幣資本の貨幣諸機能によってではなく、階級関係という前提によって成立しているということが確認された。

奴隷の販売も、その形態から見れば、商品の売買である。しかし、奴隷制が実存しなければ、貨幣はこの機能を果たしえない。奴隷制が現存すれば、貨幣は奴隷の購入に投じられうる。逆に、貨幣が買い手の手中にあるだけでは、決して、奴隷制を可能にするのに十分ではない。[38]

“階級関係の定在”=“生産諸手段としての商品と貨幣の偏在”

労働力が商品として存在する条件とは、生産諸手段と労働力との結合を解体させた諸過程そのものだ。

G−W<Pm、Aという行為の基礎になっている事実は分配なのである。といっても、消費諸手段の分配という普通の意味での分配ではなく、生産の諸要素そのものの分配であって、これら諸要素のうち、対象的諸要因は一方の側に集中しており、労働力はそれとは離れて他方の側にある。[38]

労働力の購買という行為が、貨幣資本が生産資本に転化するうえで規定的本質的条件であることにちがいはないが、歴史的には、生産諸手段としての商品(そして貨幣)が社会成員のある一部分に集中するという過程が、労働力の購買という行為に先行する。

生産資本の対象的部分である生産諸手段は、G−Aという行為が一般的社会的行為となりうる以前に、すでにそういうものとして、資本として、労働者に相対していなければならない。[38]

この歴史的過程をめぐって、マルクスは商品流通の発展と資本の流通の発生(あるいはその条件の成立)との関係について言及している。

資本が形成され、それが生産を支配できるようになるためには、商業の――したがってまた商品流通の、それとともに商品生産の――ある一定の発展段階が前提される。というのは、物品は、販売のために、すなわち商品として、生産されない限りは、商品として流通にはいり込むことはできないからである。ところが、商品生産は、資本主義的生産の基礎上ではじめて生産の正常な支配的な性格として現われる。[39]

生産諸手段としての商品と貨幣が社会成員の一定部分の手に集中するという段階に達したところにくわえて、土地もその他のあらゆる生産諸手段も剥ぎ取られた人びと、すなわち「自由な賃労働者」が社会的にある一定数に達して存在するようになったとき、はじめて生産諸手段としての商品と貨幣は、貨幣資本として生産的形態を獲得できるようになる。

貨幣資本の循環……は、社会的規模での賃労働者階級の現存を前提する……。資本主義的生産は……商品および剰余価値を生産するだけではない。それは、賃労働者の階級を、しかも絶えず拡大する規模で再生産し、直接的生産者の圧倒的大多数を賃労働者に転化させる。……〔貨幣資本の循環〕は、その進行の第一の前提が賃労働者階級の恒常的な現存であるから、すでに、……生産資本の循環の形態を想定している。[39-40]



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