第1部:資本の生産過程

第7篇:資本の蓄積過程

第24章:いわゆる本源的蓄積

第2節
農村民からの土地の収奪



封建的“くびき”とともに保証されていたもの

ここでは、この土地の収奪が、「徹底的な仕方で遂行され」([744])た、イギリスを例にとって考察されている。

イギリスにおける、「古い封建的諸制度によって与えられていた彼らの生存上のすべての保証」([743])とは、どのようなものだったか。

14世紀の終わりから15世紀にかけての時代――この時代、すでにイギリスでは農奴制が解体されてはいたものの、人口の大多数は自由な自営農民から構成されていた。農業の賃労働者も、事実上は自営農民であって、

彼らは自分たちの賃銀のほかに4エーカーまたはそれ以上の広さの耕地と“小屋”を割り当てられていた……。そのうえ、彼らは本来の農民とともに共同地の用益権を享有していて、そこでは彼らの家畜が放牧されていたし、またそれは同時に彼らの燃料になる薪や泥炭などを供給していた。[745]

土地収奪の第1段階

15世紀末から16世紀初頭にかけての絶対王権の確立期、イギリスでは、封建家臣団の解体が強制的にすすめられた。さらに、絶対王権や議会勢力と対抗する力をもつために、封建領主は、それまで彼らの領地内で自営していた農民を、彼らの土地から暴力的に追い立てるとともに、それまで共益地として機能していた農民の共同使用地を奪い取った。これらの過程で、多数のプロレタリアートが発生した。

このことに直接の刺激を与えたのは、イギリスではとくにフランドルの羊毛マニュファクチュアの繁栄とそれに照応した羊毛価格の騰貴であった。古い封建貴族は大きな封建戦争にすっかりのみ込まれてしまい、新しい貴族は貨幣をあらゆる権力中の権力とする新しい時代の子であった。したがって、耕地の放羊場への転化は新しい貴族の合言葉となった。[746]

この変動によって生じた、“人民の衰微、その結果もたらされた、都市や教会や十分の一税などの衰退という弊害”([747])にたいして、当時の王権政府と議会は、むしろ、

「……農業経営および農家のためにある割合の土地を保存し、これによって、十分な富を持っていて隷属状態におちいっていない臣民を世に送ることができるようになり、また雇い人の手にではなく所有者の手に犂(すき)を保持することができるように……」(『ヘンリー7世の治世。ケニットの「イングランド」、1719年版の原文翻刻』、ロンドン、1870年、308ページ)[747]

するための法律を布告した。しかし、資本主義制度の要求する、「人民大衆の隷属状態、彼ら自身の雇い人への転化、彼らの労働手段の資本への転化」([748])傾向を、とどめることはできなかった。

土地収奪の第2段階

新たな暴力的収奪過程の局面は、16世紀に、宗教改革にともなう教会領盗奪によって開かれた。

カトリック教会は、宗教改革の時代には、イギリスの土地の一大部分の封建的所有者であった。修道院などにたいする抑圧は、その居住者をプロレタリアートのなかに投げ込んだ。教会領そのものは、大部分は国王の強欲な寵臣に贈与されるか、または捨て値で投機的な借地農場経営者や都市ブルジョアに売りとばされたが、彼らは旧来の世襲小作人を大量に追い払い、彼らの経営地をひとまとめにした。教会十分の一税の一部分にたいする、法律によって保証されていた貧困な農村民の所有権は、暗黙のうちに没収された。[749]

この、教会領という「宗教的堡塁」([750])の瓦解によって、封建的土地所有関係に止めがさされた。この過程のなかで、イギリス王権と議会は、法的に“受救貧民”という存在を認めるにいたった(「救貧税」の導入)。

注(197)……農奴制の廃止ではなく、農民の土地所有の廃止こそが農民をプロレタリアートに、すなわち受救貧民にしたのだ……[750]

土地収奪の第3段階

17世紀の終わりごろには、ヨーマン――「14−15世紀には、土地からの年収40シリングの自由土地保有者をさすが、16世紀までには、ジェントルマンより下、単なる労働者より上の中産農民をさした」(訳注[748])――と呼ばれる独立農民や、農村労働者による共同使用地は、まだ存在していたが、18世紀中には完全に姿を消したという。

この過程の「暴力的槓杆」([751])として、マルクスは、「名誉革命」によって政治的支配の地位についた「地主的および資本家的貨殖家たち」による、「国有地の盗奪」と「共同地の横奪」をあげている。

「国有地の盗奪」は、封建的土地制度の廃止にともなってすすめられた。

すなわち、国家にたいする土地の給付義務を振り捨て、農民層その他の人民大衆にたいする課税によって国家に損失を「補償」し、彼らが封建的権利名義を所有していたにすぎない土地の近代的私有権を要求し、そして最後にあの定住法を制定したのである[751]

彼らは、それまでは控え目にしか行なわれなかった国有地の盗奪を巨大な規模で行なうことによって、新しい時代を開始した。これらの地所は贈与され、捨て値で売りとばされ、あるいは直接的横奪によって私有地に併合されさえした。これらのことはすべて法律上の慣習を少しも考慮することなく行なわれた。このように詐欺的に取得された国有地は、教会からの盗奪地……と一緒に、イギリスの少数貴族支配のこんにちの王侯直領地の基礎をなしている。ブルジョア的資本家たちはこの処置を助けたが、それは、とりわけ土地を純然たる取引物品に転化させ、農業大経営の領域を拡大し、農村から彼らへの、鳥のように自由なプロレタリアの供給を増加させるなどのためであった。そればかりでなく、新たな土地貴族は、新たな銀行貴族や、孵化したばかりの大金融業者や、当時は保護関税に依存していた大製造業者たちの自然の盟友であった。[751-2]

また「共同地の横奪」は、これまでの過程とはちがい、法律によってすすめられたところに特徴があった。

この盗奪の議会的形態は「共同地囲い込み法案」という形態であり、言い換えると、地主が人民共有地を私有地として自分自身に贈与する布告であり、人民収奪の布告である。[752]

独立のヨーマンに代わって“任意借地農場経営者”――1年前の予告によって契約を解除される比較的小さい借地農場経営者で“地主”の恣意に依存する隷属的な一群――が現われたが、他面では、国有地の盗奪とならんで、とくに、組織的に行なわれた共同地の盗奪が18世紀に資本借地農場〔「キャピタル・ファーム」〕または商人借地農場〔「マーチャント・ファーム」〕と呼ばれた大借地農場の膨張を助けさせ、また農村民を工業のためのプロレタリアートとして「遊離させる」ことを助けた。[753]

土地の最後の大収奪過程

最後に、農耕民からの土地の最後の大収奪過程は、いわゆる“地所の清掃”(実際は地所からの人間の掃き捨て)である。これまで考察してきたいっさいのイギリス的方法は、この「清掃」において頂点に達した。前篇〔章〕で近代的状態を述べたときに見たように、もはや掃き捨てられるべき独立農民がいなくなったいまでは、“小屋”の「清掃」にまで進んできたので、農業労働者たちは自分の耕す土地そのものの上にはもはや自分の居住に必要な空間を見いだせない。[756]

ここでマルクスが実例としてあげている「大収奪過程」は、スコットランド高地における「氏族的所有の近代的私的所有への転化」過程である。その凄まじい様相は、当時の研究者によって詳細に記録・考察されている。

なお、「封建的所有および氏族的所有の近代的な私的所有への転化」の過程をめぐっては、日本における、「入会権(入会地)」や「財産区」などを考察するさいに、参考になるのではないかと考えている。とりあえず宿題。



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