第1部:資本の生産過程

第7篇:資本の蓄積過程

第24章:いわゆる本源的蓄積

第1節
本源的蓄積の秘密



資本の蓄積は剰余価値を前提とし、剰余価値は資本主義的生産を前提とするが、しかし、資本主義的生産はまた商品生産者たちの手のなかに比較的大量の資本と労働力とが現存する〔蓄積されている――フランス語版〕ことを前提とする。したがって、この全運動は循環論法式にどうどうめぐりをするように見えるのであり、このどうどうめぐりから抜け出るためには、資本主義的蓄積に先行する「本源的」蓄積(アダム・スミスの言う「“先行的蓄積”」)、すなわち資本主義的生産様式の結果ではなくその出発点である蓄積を、想定するよりほかはない。[741]

この“原初の”蓄積をめぐっては、さきにマルクスが、当時の経済学者の「仮定」を引用していた。

最初の資本は10000ポンド・スターリングの前貸しによって形成された。その所有者はどこからこれを得たのか? 彼自身の労働と彼の先祖の労働とによってである! と経済学の代弁者たちはみな一様に答える。[608]【第1部第7篇第22章第1節】

本源的蓄積の過程は、当時の通説では、ア・プリオリな牧歌的なものとして描かれていた。

はるかに遠く過ぎ去ったある時代に、一方には勤勉で、聡明で、とりわけ倹約な選ばれた人々がいて、他方には怠惰で、自分のものすべてを、またそれ以上を浪費し尽くす浮浪者たちがいた。……前者は富を蓄積し、後者は結局自分自身の皮以外には売れるものをなにも持っていないということになった。そしてこの原罪以来、どんなに労働しても相変わらず自分自身よりほかにはなにも売るものをもっていない大衆の貧困と、ずっと以前から労働しなくなっているにもかかわらず、なお引き続いて増大する、少数の人々の富とが始まった。[741-2]

このような、神話のようなおとぎ話のような話が、学術的な装いをこらして、まことしやかに展開されていることにたいする、ゲーテの風刺詩「教理問答」が、マルクスによって引用されている。(フランス語版注(*2)[742])

表題に「秘密」という言葉が使用されているとおり、この節では、これらの通説の背後にある、本源的蓄積過程の真の姿が暴かれている。

資本関係をつくり出す過程は、労働者を自分の労働諸条件の所有から分離する過程、すなわち一方では社会の生活手段および生産手段を資本に転化し、他方では直接生産者を賃労働者に転化する過程以外のなにものでもありえない。したがって、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない。それが「本源的なもの」として現われるのは、それが資本の、そしてまた資本に照応する生産様式の前史をなしているためである。[742]

資本主義的生産様式が存立するには、それ相応の歴史的条件がととのっていなければならない。貨幣や商品が資本として機能するための条件として前提となるのは、

自分が所有している価値額を他人の労働力の購入によって増殖することが必要な、貨幣、生産手段、および生活手段の所有者と、他方には、自分の労働力の売り手であり、それゆえ労働の売り手である自由な労働者という、二種類の非常に違った商品所有者が向かい合い接触[742]

することである。

この「自由な労働者」はどのようにして生みだされたか。

生産者を賃労働者に転化させる歴史的運動は、一面では、農奴的隷属と同職組合的強制からの生産者の解放として現われる。……しかし、他面では、この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建的諸制度によって与えられていた彼らの生存上のすべての保証を奪い取られてしまったのちに、はじめて自分自身の売り手になる。……このような彼らの収奪の歴史は、血と火の文字で人類の年代記に書き込まれている。[743]

そして、この「自由な労働者」である賃労働者の形成こそが、「本源的蓄積の歴史において歴史的に画期的なもの」であった。

本源的蓄積の歴史において歴史的に画期的なもの……、……わけても画期的なのは、人間の大群が突如としてかつ暴力的にその生活維持手段から引き離され、鳥のように自由な〔人間社会の拘束から放たれ、そのため法律の保護も奪われた〕プロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者である農民からの土地収奪が、この全過程の基礎をなしている。[744]



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