第1部:資本の生産過程
第5篇:絶対的および相対的剰余価値の生産
第15章:労働力の価格と剰余価値との大きさの変動
それらの要因は、同じ程度かまたは等しくない程度で、同じ方向かまたは反対方向で、変化しうるのであり、それゆえこれらの変化は、部分的または全体的に相殺されることもありうる。とはいえ、すべての可能な場合を、第1節、第2節、および第3節でなされた説明によって分析することは容易である。順次に、それぞれの一要因を可変とし、他の二要因をまず不変とすることによって、それぞれの可能な組み合わせの結果が見いだせる。[550]
それゆえ、ここでは、われわれは、二つの重要な場合について、簡単に注意するだけにとどめる。[550]
ここでマルクスが前提にしているのは、労働力の価値を規定する商品の生産部門において生産力が減少する場合、である。すなわち、労働力の価値が上昇する場合。
生産力減少の前と後とで労働日の大きさが変わらなければ、生産力の減少にともなって必要労働時間が長くなり、それにつれて、剰余労働時間は短くなる。
しかし、ここでマルクスは「労働日の延長」を前提にしており、その典型例がいくつかあげられ分析されている。その考察の結果――
労働の生産力が減少し、同時に労働日が延長される場合には、剰余価値の大きさの比率が低下しても、剰余価値の絶対的大きさは不変のままでありうる。また、剰余価値の絶対的大きさが増加しても、その大きさの比率は不変のままでありうる。また労働日の延長の程度によっては、剰余価値の絶対的大きさも、その大きさの比率も、両方とも増大しうる。[550]
マルクスがあげているイギリスの例――1799年から1815年までの期間、物価高騰が名目賃金の上昇をともなって進行した例は、戦後日本の高度経済成長期に「所得倍増計画」の名のもとに進行した変化を連想させる。どちらの場合も実質賃金は低下した。
労働の生産力の上昇とその強度の増大とは、……両方とも、それぞれの期間内に得られる生産物の総量を増加させる。したがって両方とも、労働日のうち、労働者が自分の生活手段またはその等価を生産するのに要する部分を、短縮させる。[552]
労働日の最小限度は、必要労働時間部分がどこまで短くなるか、によって決まってくる。労働日全体が必要労働時間だけになるとすれば、おのずから剰余労働は消滅する。しかし、
このようなことは資本の支配体制のもとでは不可能である。[552]
さらにマルクスは、次世代社会を展望してつぎのように述べている。
資本主義的生産形態が廃止されれば、労働日を必要労働に限定することが可能となる。[552]
ただし、ここで「必要労働」とされている部分のなかには、「社会的な予備元本および蓄積元本の獲得に必要な労働」がふくまれている。
資本主義的生産様式のもとでの剰余労働部分には、個々の資本における「予備元本および蓄積元本の獲得に必要な労働」がふくまれている。資本主義社会における社会的分業のもとでは、それら個々の「予備元本および蓄積元本の獲得に必要な労働」の総計が、全体として「社会的な予備元本および蓄積元本の獲得に必要な労働」として機能していると、言えなくもないのではないか。
資本主義社会において剰余労働部分にふくまれていた「予備元本および蓄積元本の獲得に必要な労働」部分を、必要労働部分として算入するということは、どのような意味をもつのだろうか。
社会的に考察すると、労働の生産性は、労働の節約によっても増大する。労働の節約は、生産手段の節約だけでなく、あらゆる無用な労働を避けることをも含んでいる。資本主義的生産様式は、個々の事業所内では節約を強制するが、その無政府的な競争制度は、社会的な生産手段と労働力の際限のない浪費を生み出し、それとともに、こんにちでは不可欠であるがそれ自体としては不必要な無数の機能を生み出す。[552]
労働の強度と生産力が与えられているならば、そして労働が社会のすべての労働能力のある成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、また、ある社会層が労働の自然的必要性を自分から他の社会層に転嫁することができなくなればなるほど、社会の労働日のうちで物質的生産のために必要な部分がそれだけ短くなり、したがって、諸個人の自由な精神的および社会的な活動のために獲得される時間部分がそれだけ大きくなる。[552]
現代日本で進行している、長時間・過密労働による過労死・過労自殺の多発と、同じく進行中の失業率の増加傾向。この二つの傾向が同時に進行しているという矛盾に、資本主義社会の深刻さがあらわれていると思う。
「サービス残業」という不払い労働が、社会構造的に強制されているのだが、この労働基準法違反の犯罪を撲滅し、さらに、長時間労働の是正をはかるならば、多様な労働現場への就労枠が保証され、失業人口は劇的に減少するであろう。
マルクスがこの節のさいごの叙述のなかでいっている「労働の普遍性」という言葉。フランス語版では「手の労働の普遍化」とされているとのことだが、この「労働」が、フランス語版の記述よりも、より広い意味で使用されていることはまちがいないだろう。
この「普遍性」とはなんだろう。マルクスは先の章で、労働を「人間の実存条件」とよんだ。働きすぎで、あるいは働く場を保証されないがために、生存条件をおびやかされている現代日本資本主義におけるような労働ではない労働、ということなのだろう。