第1部:資本の生産過程
第4篇:相対的剰余価値の生産
第13章:機械設備と大工業
資本主義的生産様式の発展過程で、とくに大工業時代に、社会がその社会の生産過程にたいする制御の形態として生みだしたのが工場立法だった。
工場立法、すなわち社会が、その生産過程の自然成長的姿態に与えたこの最初の意識的かつ計画的な反作用は、すでに見たように、綿糸や自動紡績機や電信と同じく、大工業の必然的産物である。[504]
この「意識的かつ計画的な」制御は、労働日のみならず、労働者の身体の保護と、初等教育の義務付けに及んでいた。
この制御がなければ、労働者の手足は工場機械にもぎとられ、また、工場の生産過程に順応した知識と技能をもたず、文化的生活を営めない一大階層を生みだしてしまうのが、資本主義的生産様式なのである。
工場立法の最低限の「保健条項」にたいして、出費を惜しむ工場主たちの反発があり、それとの切り結びのなかから、「保健条項」の厳格な適用が一つひとつ勝ちとられてきたのであった。
アイルランドでは最近20年間に亜麻工業が非常に増え、それにつれスカッチング・ミル(亜麻を打ちくだくための工場)も非常に増加した。アイルランドには1864年にこうしたミルが1800あった。秋と冬には周期的に、主として年少者と婦人、すなわち近隣の小作人の息子や娘や妻で、機械設備のことはまったく知らない人々が、畑仕事からつれてこられて、スカッチング・ミルのローラーに亜麻を食わせる。その災害は、数から見ても程度から見ても、機械史上まったく類例を見ない。キルディナン(コーク近郊)のただ一つのスカッチング・ミルだけでも、1852年から1856年にかけて、6件の死亡と60件の不具になるほどの重傷を数えているが、それらはすべて、数シリングしかかからないきわめて簡単な設備で防止できたものであった。[505]
資本主義的生産様式には、もっとも簡単な清潔・保健設備でさえ、国家の強制法によって押しつける必要があるということ、これ以上にこの生産様式をよく特徴づけうるものがほかにあるだろうか?[505]
Scutching mills の装置とは、具体的にどのようなものだったのか。おおまかに知ることができたのは、検索エンジンでたどりついた、The Ulster Folk and Transport Museum という「ビジター・アトラクション」のサイトの説明からだった。ここでの説明も、ほぼ、マルクスの叙述どおりで、マルクスの指摘を裏づけるものとなっている。
マルクスは前の節で、工場法適用が労働条件の整備を強制し、過度労働を抑制することを指摘していた。しかし、この節で取り上げられている「保健条項」をめぐって、マルクスは次のような指摘を行なっている。
同時に工場法のこの部分は、資本主義的生産様式が、その本質上、一定の点を超えるとどのような合理的改良をも排除するものだということを的確に示している。[506]
マルクスの記述によれば、1866年当時イギリスの医師たちは、労働者1人あたり最低約5メートル四方(約152立方メートル)の空間を確保することが健康保全上必要だと見なしていた。この基準を満たす労働条件の整備の強制は
何千人もの小資本家を一挙に直接に収奪するものであろう! この法律的強制は、資本主義的生産様式の根底を、すなわち、労働力の「自由な」購入と消費による資本の大なり小なりの自己増殖を、おびやかすであろう。[506]
先に指摘されていたことだが、工場法が強制する労働条件の整備にはそれ相応の資本を必要とする。この整備に見合った資本力を持たない工場主たちは没落し、生産手段や労働力はより大きな資本をもつ工場主たちに吸収されてゆくことになる。
マルクスが告発しているように、1人あたり5メートル四方の空間は健康保全のためには必要だが、大工業経営のもとではそれだけの空間の確保は不可能だと見なされるにいたるのである。
保健関係当局、産業調査委員会、工場監督官たちは、500立方フィートの必要性とそれを資本に強制することの不可能とを、再三にわたって繰り返している。彼らは、このように実際には、労働〔者〕の肺結核その他の肺疾患が資本の生活条件であると宣言しているのである。[506]
マルクスは、工場法の適用によって初等教育が児童労働者たちに保障されたことについて、次の点を指摘している。
教育および体育を筋肉労働と結合することの可能性、したがってまた、筋肉労働を教育および体育と結合することの可能性[507]
そしてマルクスは、この「結合」が有益であることを、『工場監督官報告書』から見出している。
「……ただ半日しか学校にいない生徒たちには、つねに新鮮であり、ほとんどいつでも授業を受け入れる力があるし、またその気もある。半労半学の制度は、二つの仕事のそれぞれ一方を他方の休養と気晴らしにするものであり、したがって児童にとっては、二つのうちの一つを絶え間なく続けるよりもはるかに適切である。朝早くから学校に出ている少年は、とくに暑い天候のときには、自分の仕事を終えて元気溌剌として来る少年とは、とうてい競争できない」(299)『工場監督官報告書。1865年10月31日』、118、119ページ。[507]
「最後の1時間」で有名なシーニア博士も、この効果を認めざるをえなかったらしい。そのことをめぐって、マルクスお得意の皮肉たっぷりの指摘がある。
1863年のエディンバラにおける社会科学大会で、シーニアがおこなった講演……ここで彼はとりわけ、上流階級および中流階級の児童の一面的な不生産的で長い授業時間が、教師の労働をいたずらに増加させるということ、「他方、このような授業時間が、児童の時間や健康やエネルギーを、ただむだにするだけでなく、まったく有害に浪費させる」ということを示している。[507]
(300)シーニア、『議事報告』、ロンドン、1863年、66ページ、「社会科学振興国民協会」第7年次大会における講演。一定の高度に達した大工業が、物質的生産様式と社会的生産関係との変革によって人間の頭脳を変革するということは、1863年のN.W.シーニアの講演と1833年の工場法にたいする彼の反対演説とを比較すればはっきりわかる……[508]
さらに、マルクスはこの教育制度に見られる「未来の教育」のあり方の萌芽を指摘している。
工場制度から未来の教育の萌芽が芽ばえたのであり、この未来の教育は、社会的生産を増大させるための一方法としてだけでなく、全面的に発達した人間をつくるための唯一の方法として、一定の年齢以上のすべての児童にたいして、生産的労働を知育および体育と結びつけるであろう。[508]
マルクスのこの指摘は、「児童労働容認」の立場からのものではない。社会における、富めるものと富から「自由な」ものとの分離・対立。それとともに発生した、肉体労働と精神労働との分離・対立を、ふたたび結合させ統一することの重要性が指摘されている箇所だと思う。
この段落以降、マルクスは、社会的規制のもとにおかれていない「大工業の資本主義的形態」における分業が、いかに肉体的精神的退廃をもたらすかということを、マニュファクチュア的分業と比較しながら分析している。
大工業は、一人の人間全体を生涯にわたって一つの細部作業に結びつけるマニュファクチュア的分業を技術的に廃除するが、同時に、大工業の資本主義的形態は、この分業をいっそう奇怪なかたちで再生産する。……マニュファクチュア的分業と大工業の本質との矛盾は、……とりわけ、近代的工場およびマニュファクチュアに就業している児童の大部分が、ほんの幼少のころからもっとも単純な操作にかたく縛りつけられ、長年にわたって搾取されていながら、しかも、のちに彼らがせめて同じマニュファクチュアか工場で使えるようななんらかの労働をも習得できない、という恐るべき事実のなかに現われている。[508-9]
ここでは「書籍印刷業」の少年工たちが例示されている。たしかに「恐るべき」実態である。
つぎにマルクスが分析しているのは社会の生産技術の発展についてである。それはその社会内部の分業のあり方と不可分に結びついている。
「部分労働の地域的人的固定化」を特徴とする手工業的マニュファクチュア的分業は、一生産者が本来持ち合わせている能力の多様性を基盤にして、生産過程の部分部分を特殊化した。そして特殊化された生産過程に応じて、技術的形態が完成され、昇華された。この過程はたいへん長期にわたる漸次的なものであった。
経験的に適応した形態がひとたび得られると、労働用具も骨化するのであって、そのことは、しばしば千年にもわたってある世代の手から他の世代の手へと伝えられていくことが証明している。18世紀までは特殊な生業が“秘伝技”と呼ばれ、その神秘の世界には、経験的かつ職業的に秘伝を伝授された者のみがはいることができたということは、特徴的であった。[510]
近代のテクノロジー、技術学は、この「神秘のヴェール」を引き裂いた。その革命的性格をマルクスは次のように指摘している。
社会的生産過程の多様な、外見上連関のない、骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、そしてめざす有用効果に従って系統的に特殊化された応用に分解された。技術学は、使用される道具がどれほど多様であろうとも、人間の身体のあらゆる生産行為が必然的にそのなかで行なわれる少数の大きな基本的運動諸形態を発見した[510]
大工業における絶え間ない技術革新は、社会内部の分業も絶えず変革した。
それゆえ大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を条件づける。[511]
しかし同時に大工業は、部分労働の特殊化と分立化の基準を、生理学的基準から力学的技術的基準へと推し進め、部分労働を機械経営に付属したより無内容なものにし、労働者をその極度に特殊化された労働に縛りつける。これは第4節工場の当該箇所ですでにマルクスが考察している。
これら、労働者の全面的可動性と、新たな部分特殊労働の分立化という矛盾が
労働者の生活状態の一切の平穏、堅固、および安全をなくしてしまい、労働者の手から労働手段とともに絶えず生活手段をたたき落とそうとしており、そして、労働者の部分機能とともに彼自身を過剰なものにしようとしている。さらに、この矛盾は、労働者階級の絶え間ない犠牲の祭典、諸労働力の際限のない浪費、および社会的無政府性の荒廃状態のなかで、暴れ回る。[511]
マルクスはこの「否定的側面」をめぐって、次のような興味深い分析を行なっている。たしかに「生産の社会的無政府性」から必然的に発生する「自然法則の盲目的に破壊的作用」によって、労働者はあちらの工場からこちらの工場へ、さもなくば短期ないし長期の失業状態へと振り回されるのであるが、
大工業は、労働の転換、それゆえ労働者の可能な限りの多面性を一般的生産法則として承認し、そしてこの法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、自己の破局そのものを通じて、死活の問題とする。[511-2]
これは矛盾である。そして矛盾の対立はそれを統一しようとする内的必然的傾向から、新たな段階の矛盾へと発展せざるをえない。
大工業は、資本の変転する搾取欲求のために予備として保有され自由に使用されうる窮乏した労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働需要のための人間の絶対的な使用可能性をもってくることを――すなわち、一つの社会的な細部機能の単なる担い手にすぎない部分個人の代わりに、さまざまな社会的機能をかわるがわる行なうような活動様式をもった、全体的に発達した個人をもってくることを、死活の問題とする。[512]
マルクスはこの後に事例としてあげる職業教育機関などにかかわって、たいへん典型的な実例を挙げている。
(308)あるフランス人労働者は、彼がサンフランシスコから帰るさいに、次のように書いている――「私は、カリフォルニアでやっていたあらゆる仕事が自分にできようとは、思ってもみませんでした。私は、書籍印刷業のほかにはなんの役にも立たないものと固く信じていました。……自分の仕事をシャツよりも無造作に取り替える冒険者たちのこの世界の真ん中にひとたびはいると、どうでしょう! 私は他の者と同じようにやりました。鉱山労働の仕事はあまりもうからないことがわかったので、それをやめて町に移り、そこで、つぎつぎに植字工、屋根ふき、鉛工などになりました。どんな仕事でもできるというこの経験によって、私は、自分が軟体動物というよりもむしろ人間であるということを感じています」(A.コルボン『職業教育について』、第2版〔パリ、1860年〕、50ページ)。
マルクスのこの評価は、資本主義的生産様式のもとにおける教育制度を丸ごと容認しているものでないことは、次の叙述で明らかである。以下の考察には、資本主義社会をのりこえた社会での教育をめぐるマルクスの展望が示されている。なおかつ、その社会は、「労働者階級による政治権力の獲得」が避けることのできない必然的必要条件であることも。マルクスの指摘する具体的「契機」とは、「総合技術および農学の学校」「職業学校」。――宮沢賢治の「羅須地人協会」の取り組みを連想した。
工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、初等教育を工場労働と結びつけるにすぎないとすれば、労働者階級による政治権力の不可避的な獲得が、理論的および実践的な技術学的教育のためにも、労働者学校においてその占めるべき席を獲得するであろうことは、疑う余地がない。また、生産の資本主義的形態とそれに照応する経済的な労働者の諸関係とが、そのような変革の酵素とも、また古い分業の止揚というその目的とも真正面から矛盾することは、同じように疑う余地がない。[512]
しかし、なおもマルクスは次のように指摘する。
一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新たな形成との唯一の歴史的な道である。[512]
こういう叙述に、マルクスが青年期から取り組んだヘーゲルの弁証法的思考の学びを感じる。資本主義的生産様式を、歴史的にとらえる観点があったからこその叙述部分ではないだろうか。
単純に当てはめることはできないが、今日のわが国の教育制度の現状を考えるうえで、たいへん示唆的な叙述がある。
(309)経済学史における真に傑出した人物、ジョン・ベラーズは、対立した方向にではあるが社会の両極に肥大症と萎縮症とを生み出すこんにちの教育と分業との必然的廃止を、すでに17世紀末にきわめて明確に把握していた。彼は、とりわけ次のようにみごとに述べている――「怠けながら学ぶことは、怠けることを学ぶよりも、ほんのわずかましであるにすぎない。……肉体労働は、もともと神のおきてである。……労働が肉体の健康にとって必要なのは、食事が肉体の生存にとって必要なのと同じである。なぜなら、安逸によってまぬがれる苦痛は、病気となって現われるだろうからである。……労働は声明のランプに油を注ぎ、思考はランプに点火する。……」(『あらゆる有益な商工業と農業のための産業高等専門学校設立の提案』、ロンドン、1696年、12、14、16、18ページ〔浜林正夫訳、所収『イギリス民衆教育論』、明治図書、28-34ページ〕)。[513]
児童労働の実態の凄まじさについては、これまでマルクスが幾度も数々の資料を駆使して告発してきた。先にマルクスが考察しているように、家内労働は、大工業経営が社会で支配的な生産様式として確立するにつれ、「近代的家内労働」として、工場におけるよりもよりあからさまに、その作業場において資本主義的生産様式の性格を発揮する。工場立法の適用が、いよいよそれら近代的家内労働に適用される段階にいたったとき、その経営基盤となっている家父長的領域が揺るがされることになる。
工場立法が、工場やマニュファクチュアなどにおける労働を規制する限りでは、このことは、さしあたり、資本の搾取権にたいする干渉として現われるにすぎない。それに反して、いわゆる家内労働のあらゆる規制は、ただちに“父権”にたいする、すなわち近代的に解釈すれば親権にたいする直接的干渉として現われる。……事実の力は、ついに、大工業が古い家族制度とそれに照応する家族労働との経済的基礎とともに、その古い家族関係そのものを解体するということを、いやおうなく認めさせた。児童の権利が宣言されなければならなかった。[513]
マルクスは、家族労働そのもののうちに児童労働の強化をもたらす要因をみているのではなかった。これまで幾度かマルクスによって告発されてきた児童労働の実態をもたらしたのは、それまで長い期間を経て培われてきた家内労働のさまざまな条件では間に合わないほどの激変をもたらした、大工業的経営の影響だったのだ。「児童労働調査委員会」という公的機関がつくられざるをえないほど、子どもたちの心身に深刻な影響をもたらした「親権の濫用」は、むしろ家内労働そのものからよりも、家内労働の経済的基盤を打ち壊した「資本主義的搾取様式」によってもたらされたのだ、とマルクスは指摘する。
家内労働の経済的基盤を打ち壊した資本主義的搾取様式は、「古い家族関係そのものを解体」した。
資本主義制度の内部における古い家族制度の解体が、どれほど恐ろしくかつ厭わしいものに見えようとも、大工業は、家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程において、婦人、年少者、および児童に決定的な役割を割り当てることによって家族と男女両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基礎をつくり出す。……きわめてさまざまな年齢層にある男女両性の諸個人が結合された労働人員を構成していることは、労働者が生産過程のためにあって、生産過程が労働者のためにあるのではないという自然成長的で野蛮な資本主義的形態においては、退廃と奴隷状態との害毒の源泉であるとはいえ、適当な諸関係のもとでは、逆に、人間的発展の源泉に急変するに違いない。[514]
家族形態の在り様というのは、歴史的なものだとマルクスは指摘している。資本主義制度はそれまでの古い家族関係を解体する。それは「親権の濫用」をもたらすと同時に、資本主義制度の向こうに展望されるより高度な社会形態における新たな人間関係の土台をつくる。
マルクスがここで「家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程」と言っているように、未来社会における人間関係、家族関係を考える際に、マルクスは「家族」という単位そのものがなくなることは想定していない。「古い家族制度の解体」は「家族」そのものを解体させるのではなく、新たな家族関係を形成する土台をつくるのだ。
しかし、「自然成長的で野蛮な資本主義的形態においては、退廃と奴隷状態との害毒の源泉である」という傾向は、マルクスの時代から100数十年を経た現代日本資本主義のもとでも同様である。労働時間の拡大と、労働の過密化、その一方での失業者群の再生産と労働者の購買力の低下……。現代日本でも、国策として行なわれている資本主義制度の「野蛮さ」の拡大は、家族を構成する個々人の安穏の場であるはずの家庭を、狭く、ゆがんだものにしている。新しい家族関係、人間関係を形成するためには、「適当な諸関係」をつくり出す意識的主体的な努力がなにより不可欠なのだ。
協業形態の発展は、大工業経営を社会の支配的生産様式としてゆく。手工業、マニュファクチュア、家内労働は、大工業的経営の影響をもれなく受けることになり、そのことが、工場法の適用の拡大を促す。このことはこれまでのマルクスの分析のなかで明らかにされてきた。さらにマルクスは、もう一つの角度から、工場法適用の拡大傾向を促進する要因を分析している。
「自由競争」の原理が満遍なく貫かれている社会のただなかに、社会的規制によって粗野な搾取に制限が加えられる作業場あるいは工場がポツンポツンと現われると、まだ制限が加えられていない作業場あるいは工場で、制限による「損失」を埋め合わせようとする傾向が生じる。この搾取の貪欲さこそ、「大工業の歴史的な発展行程」そのものなのだが、そのことが、社会的規制の適用の拡大を呼び起こす。それはなにより、規制され制限を受けているものにとっての「不公平感」によって、「搾取の平等」にたいする要求が生まれてくるからである。
「自分は、工場法実施のどんな誓願にも署名するつもりである。とにかく自分は、仕事場を閉めてから、他人がもっと長く作業させて自分の注文を横取りしはせぬかと考えると、夜もおちおちしていられない」〔『児童労働調査委員会、第5次報告書』、IXページ、第28号〕[515]
「比較的大きな雇い主の諸工場を規制に服させるのに、小経営は同じ事業部門でも労働時間の法的制限になんら服していないのは、大きな雇い主にたいし、不当であろう。比較的小規模な作業場を除外すれば、労働時間にかんする競争条件が平等でなくなるという不公平に加えて、大工場主たちにとっては、もう一つの不利益が加わるであろう。彼らにたいする青少年労働および婦人労働の供給が、法律の適用をまぬがれている諸作業場に向けられるということである。最後に、このことは、比較的小さな作業場を増加させる刺激となるであろうが、このような作業場は、ほとんど例外なしに国民の健康、快適、教育、および一般的改善にとって、もっとも好ましくないことである」〔『児童労働調査委員会、第5次報告書』、XXVページ、第165-167号〕[515]
「児童労働調査委員会」は、その最終報告において、140万人を超える児童、年少者、婦人――そのほぼ半分が小経営および家内労働によって搾取される――を工場法のもとに置くよう提案している。[516]
工場法「拡大」は、「親権」だけではなく、妻にたいする夫の強制力にたいしても法的強制力のもとにおくことになる。イギリスにおいて、1867年8月15日に「勅裁」を受けた「工場法拡張法」第7条には、次のように記されていたという。
第7条、すなわち、この法律の諸規定に違反して、児童、青少年労働者、および婦人を就業させることにたいする罰則条項は、作業場の所有者――親であるかどうかにかかわらず――にたいしてのみならず、「児童、青少年労働者あるいは婦人の保護者であるか、あるいはその労働から直接の利益を受ける、親またはその他の者」にたいしても、罰金を規定している。[518]
次に展開されるマルクスの叙述――「告発」と言ったほうが近いかもしれないが――には、現代日本の労働基準監督署の職員配置実態を彷彿とさせるものがある。
“作業場規正法”は、そのすべての細目にわたってひどいものであり、その施行を委任された都市および地方の諸官庁の手のなかで死文のままになっていた。議会が、1871年に、その全権をこれらの官庁から取り上げて、工場監督官に委任したので、彼らの監督地域では一挙に10万以上の作業場が増え、煉瓦製造所だけで300も増えたが、工場監督官の職員は、それまででもひどい手不足であったのに、慎重至極にもわずか8人の補助員が増員されただけであった。[518]
資本主義社会の発達期、資本家階級と労働者階級とのせめぎ合いは、率直ではないにしろ議会にも反映した。
1867年のこのイギリスの立法で目立つことは、一面では、資本主義的搾取の行きすぎにたいし、まったくなみはずれの広範な対策を原則的に採用する必要が、支配階級の議会に強要されたことであり、他面では、議会がそのあとでこの対策を現実に実行するにあたって示した中途半端、嫌悪、および“不誠意”である。[519]
このせめぎ合いのなかの「中途半端、嫌悪、および“不誠意”」という、きわめて「謙虚な」言い回しで指摘されている胸糞の悪い実態は、このあと数ページにわたる報告書の紹介によって告発されている。むろん、この19世紀の鉱山労働者の実態は過去のものではない。とりあえず鉱山労働者にかぎってみても、塵肺障害による深刻な健康侵害は、今日、21世紀初頭にいたるまで、資本の側が正面からその社会的責任を認めていないものだし、日本国の裁判制度においても、かろうじて数十年を経て、ようやく社会的責任を司法の上で問うことができたにすぎない。実際の社会的賠償はこれからの課題である。
それでもなお、資本の搾取欲求は社会的強制力によって規制されなければならない、という一定の合意は広がっていかざるを得ない。
とにかく、1872年の法律は、どんなに欠陥だらけであっても、鉱山で働く児童の労働時間を規制し、採鉱業者および鉱山所有者に、ある程度まで、いわゆる災害にたいする責任を負わせる最初の法律である。……私がここで注意を促さなければならないことは、こうした諸原則を一般的に適用しようとする抗しがたい傾向が存続していることである。[525]
労働者階級の肉体的および精神的な保護手段として工場立法の一般化が不可避的になると、他方では、それは、すでに示唆したように、矮小な規模の分散した労働過程から大きな社会的規模での結合された労働過程への転化を、したがって資本の集中と工場体制の専制とを、一般化し、かつ促進する。工場立法の一般化は、資本の支配をなお部分的に背後におおい隠しているすべての古い諸形態および過渡的諸形態を破壊して、資本の直接的なむき出しの支配をもってこれに代える。したがってそれは、資本の支配にたいする直接的な闘争をも一般化する。工場立法の一般化は、個々の作業場においては、斉一性、規則正しさ、秩序、および節約を強要するが、他方では、労働日の制限と規制が技術に押しつける強大な刺激によって、全体としての資本主義的生産の無政府性と破局、労働の強度、そして機械と労働者との競争を増大させる。工場立法の一般化は、小経営および家内労働の領域とともに、「過剰人口」の最後の避難所を、そしてそれとともに全社会機構の従来の安全弁を破壊する。工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。[525-6]