第1部:資本の生産過程
第4篇:相対的剰余価値の生産
第13章:機械設備と大工業
上述したように、機械によっては道具は駆逐されない。道具は、規模においても数においても、人間有機体の矮小な道具から、人間によってつくられた機構の道具に成長する。[408]
この章の第1節のはじめにマルクスが提起した「道具と機械」についての分析結果がここに示されている。
第1部第6章「不変資本と可変資本」で考察されているように、労働手段に投資される資本価値部分は、新たな価値を生み出すわけではなく、その消耗した分の価値を生産物に引き渡すだけである。いかに大規模で、科学技術の応用がこれまでのどの協業形態よりも徹底して応用されても、機械設備もまた労働手段であって、機械設備自体はなんら新たな価値を創造しはしない。しかし、これまでの労働過程のなかで使用されていた労働手段にくらべ、機械設備は、その製作と維持に多大な労働力を必要とする。
労働手段は、労働過程のなかで、その価値の一部を生産物に移転するとはいえ、機能するためには、その総体が、労働過程のなかに入り込んでいなければならない。だから、これまでのどの協業形態よりも、比較にならないほど大規模となった大工業における労働手段の価値は、ある一生産過程で機能する労働手段の価値としては、やはりこれまでとは比較にならないほど大きくなっている。
機械設備が価値をもち、それゆえ価値を生産物に引き渡す限りでは、機械設備は生産物の一つの価値構成部分をなす。機械設備は、生産物を安くするのではなく、自分自身の価値に比例して生産物を高くする。[408]
機械設備が入り込む、ある労働過程の総生産物価値は、これまでとは比較にならないほど大きい。一方で、その総生産物の総量も、格段に大きい。この第4篇での考察対象は「相対的剰余価値の生産」である。価値増殖過程のなかで、機械設備が相対的剰余価値生産に、いったいどのように機能しているのか。
機械設備は労働過程にはいつも全部的にはいり込むが、価値増殖過程にはつねに部分的にのみ入り込む……。機械設備は、それがその消耗によって平均的に失うものよりも多くの価値を決してつけ加えない。したがって、機械の価値と機械から生産物に周期的に引き渡される価値部分とのあいだには、大きな差がある。価値形成要素としての機械と生産物形成要素としての機械とのあいだには、大きな差がある。同じ機械設備が同じ労働過程で繰り返し役立つあいだの期間が大きければ大きいほど、その差もますます大きくなる。[408]
本来的労働手段または生産用具は、どれも、労働過程にはつねに全部的にはいり込み、価値増殖過程にはつねに部分的にのみ、すなわちその日々の平均的摩滅に比例してはいり込むにすぎない。とはいえ、利用と消耗とのあいだのこの差は、機械設備においては道具におけるよりもはるかに大きい。[408-9]
マルクスは、この「利用と消耗とのあいだの差」について、なぜ機械設備の方が道具よりもはるかに大きくなるかということについて、三つの理由をあげている。
大工業においてはじめて、人間は、自分の過去のすでに対象化された労働の生産物を、大規模に自然力と同じく無償で作用させうる。[409]
もう一つマルクスが指摘しているのは「共同使用による消費節約」についてである。協業的労働過程では、生産手段の共同使用による消耗の節約によって、個々の生産物への価値移転がそれだけ小さくなり、共同的使用による生産手段の規模の増大とそれにともなう生産手段価値の増大の度合いにくらべ、生産物の価格を低くおさえる傾向にある。この傾向は機械設備が導入された労働過程ではよりいっそう顕著になる。大工業システムによる労働過程においては、原動機および伝動機構、そして多数の作業機がそれまでの協業的労働過程にくらべ格段に大きな規模で共同的消費を行なうから、生産物の価格の騰貴を低くする傾向はますます高まる。
さて
機械設備の価値と、機械設備の日々の生産物に移転される価値部分とのあいだの差が与えられているならば、この価値部分が生産物を高価にする程度は、まず第一に、生産物の範囲に、いわば生産物の面積に、依存する。……蒸気ハンマーの日々の摩滅、石炭消費などは、蒸気ハンマーが日々に打つ恐ろしく大量の鉄に配分されるから、各1ツェントナーの鉄には、わずかな価値部分しか付着しない――もしこの巨大な用具が小さい釘を打ち込むことになれば、この価値部分は〔相対的には〕きわめて大きいであろう。[409-410]
作業機の作用範囲、したがってそれの道具の総数、または――力が問題となるところでは――その道具の大きさが与えられていれば、生産物の総量は、作業機が働く速度に、したがって、たとえば紡錘が回転する速度またはハンマーが1分間に与える打撃の総数に、依存するであろう。[410-411]
このように、機械設備の生産性の高さは、生産物に「引き渡す価値」の少なさの度合いによっている。
このとき、生産物に引き渡される価値は、機械設備自身の価値の大きさにも依存している。すなわち、機械設備に含まれている労働が少ないほど、生産物に引き渡される価値も少なくなる。また、
機械設備による機械設備の生産は、その大きさと効果に比較して機械設備の価値を減少させる。[411]
以上の考察から、マルクスは次のように指摘している。
手工業的またはマニュファクチュア的に生産される商品の価格と、機械の生産物としての同じ商品の価格との比較分析から、一般的には、機械の生産物の場合、労働手段に帰着する価値構成部分は相対的には増加するが絶対的には減少する、という結論が生じる。すなわち、この価値構成部分の絶対的大きさは減少するが、たとえば1ポンドの糸という生産物の総価値に比べてのこの価値構成部分の大きさは増加する。[411]
したがって、この「結論」は、機械の生産性について、次の結論も導く。
機械の生産性は、機械が人間労働力に取って代わる程度によってはかられる。[412]
マルクスは、19世紀中葉に発表された報告や研究などにもとづき、この「機械が人間労働力に取って代わる程度」の、いくつかの具体例を示している。
1857年当時のある紡績工場では、1日の労働時間を10時間として休日をのぞく1週間、つまり6日間、2.5人の労働者が稼動させる機械設備によって、約366ポンド、すなわち約166キログラムの糸が紡がれる。したがって、約166キログラムの糸は150労働時間(60労働時間×2.5人)を吸収する。
これと同量の糸を、手工業的工場において手紡ぎ工が生産する場合には、1人の手紡ぎ工が1週間(6労働日)に、上記の紡績工場の自動ミュール紡錘1錘あたりがやはり60労働時間に紡ぐ糸量と同量の糸量、すなわち13オンス、約368グラムを紡ぐとして、約166キログラムの糸は、27000労働時間を吸収する。
手工サラサ捺染の旧式方法が、機械捺染によって駆逐されたところでは、1人の男子または少年がつきそう1台の機械は、1時間に、以前には200人の男子がやったのと同量のサラサの四色捺染を行なう。イーライ・ホイットニーが、1793年に“綿繰り機”を発明する以前には、1ポンドの綿花を綿実から分離するのに1平均労働日かかった。彼の発明によって、毎日100ポンドの綿花が1人の黒人女子工員によって得られるようになり、そして綿繰り機の性能はそれ以後なおいちじるしく高められた。……インドでは、綿実から綿繊維を分離するためにチュルカという半機械的用具が使われているが、それで男子1人と女子1人が1日に28ポンドの繊維を分離する。フォーブズ博士〔イギリスの発明家〕によって数年前に発明された〔改良〕チュルカで男子1人と少年1人が1日に250ポンド生産する。牛、蒸気、または水が原動力として使用されるところでは、少数の少年と少女とが、フィーダー〔餌係りの意〕(機械のために材料を供給する人)として必要なだけである。この機械16台が牛によって動かされると、1日に、以前の750人の平均的な1日分の仕事を行なう。[413]
続いてマルクスが考察するのは、人間労働力にかかる費用と、取って代わった機械設備の費用とをめぐってである。マルクスはこの章の第1節のなかで、次のような例を引いていた。
(96)ジョン・C・モートンは、1859年12月、技能協会で、『農業で利用される諸力』についての論文を読み上げた。……モートン氏は、蒸気力、馬力、人間力を、蒸気機関で常用される度量単位、すなわち3万3000ポンドを1分間に1フィート持ち上げる力に換算して、1蒸気馬力の費用を、1時間あたり、蒸気機関では3ペンス、馬では5ペンス半と計算している。……蒸気機関がする仕事を行なうためには、66人の労働者が1時間あたり合計15シリングの費用で使われなければならないが、馬がする仕事を行なうためには、32人が1時間あたり合計8シリングの費用で使われなければならないであろう。[398]
ここでは、蒸気機関による機械犂が1時間あたり3ペンス(1/4シリング)の費用でする仕事量と、66人の労働者が1時間あたり総額15シリングの費用でする仕事量とは同じである。ここで言われている費用とは、それぞれの仕事量の貨幣表現ではないことに、マルクスは注意をうながしている。
必要労働にたいする剰余労働の比率が100%であったとすれば、この66人の労働者は1時間あたり30シリングの価値を生産したことになる……。したがって、ある機械に、それによって駆逐される150人の労働者の年賃銀と同じだけ、たとえば3000ポンド・スターリングの費用がかかると仮定しても、この3000ポンド・スターリングは、決して、150人の労働者によって提供され、労働対象につけ加えられた労働の貨幣表現ではなくて、これら労働者の年労働のうち、自分自身にとって労賃となって表われる部分の貨幣表現でしかない。これに反して、3000ポンド・スターリングの機械の貨幣価値は、その機械の生産中に支出された全労働を……表現している。[413-4]
ここで挙げられている例で言えば、3000ポンド・スターリングの機械設備に駆逐される、年賃銀総額3000ポンド・スターリングの150人の労働者が1年間に生産する総生産物価値のうち、彼らが労働対象に新たにつけ加える価値の貨幣表現は、剰余価値率が100%である場合、6000ポンド・スターリングとなる。つまり、3000ポンド・スターリングの貨幣価値で表わされる機械設備によって駆逐されたのは、6000ポンド・スターリングの貨幣価値で表わされる価値を生み出す人間労働力である。
したがって、機械にその機械によって置き換えられた労働力と同じだけの費用がかかるとしても、機械そのものに対象化された労働は、つねに機械によって置き換えられた生きた労働よりもはるかに小さいのである。[414]
このことは、リカードウが直観的にすでに指摘していたことであった。彼がその本質を必ずしも理解していなかったにしても。
(116)「これらもの言わぬ働き手」(機械)「は、つねに、それが取って代わる労働よりもはるかに少ない労働の生産物であり、それらが同じ貨幣価値をもっている場合でも、そうなのである」(リカードウ『経済学および課税の原理』、40ページ)。[414]
(109)リカードウは、労働過程と価値増殖過程とのあいだの一般的区別を展開していない……機械が生産物に引き渡す価値構成部分をときたま忘れてしまい、機械を自然諸力とまったく混同している。[409]
ここで指摘されている、「機械そのものに対象化された労働は、つねに機械によって置き換えられた生きた労働よりもはるかに小さい」という点は、「生産物を安くするための手段」として機械設備の使用が効果を発揮するということを表わしているが、資本家にとっては、さらなる効果がもたらされる。
資本は、充用された労働を支払うのではなく、充用された労働力の価値を支払うのであるから、資本にとっては、機械の使用は、機械の価値と機械によって置き換えられる労働力の価値との差によって限界づけられる。[414]
そしてこの差が
資本家自身にとっての商品の生産費を規定し、競争の強制法則によって彼を左右する[414]
しかし、この強制法則が、必ずしも、機械設備が人間労働力に取って代わるという具合に働かない場合がある、ということもマルクスは指摘している。すなわち、「置き換えられる価値の差」が小さければ、あるいは、人間労働力を置き換えない方が、資本家自身の投資する貨幣価値の節約をもたらす場合には、機械設備の使用は不要なものになるからである。
機械そのものは、古くから発展した諸国では、いくつかの事業部門へのその充用により、他の諸部門において労働過剰(リカードウは、redundancy of labour と言う)をつくり出し、そのために、そこでは、労働力の価値以下への労賃の下落が機械設備の使用をさまたげ、また、もともと使用労働の減少からではなく支払労働の減少からその利得が生じる資本の立場から、機械設備の使用を不要にし、しばしば不可能にするのである。[415]
したがって、機械設備への「置き換え」が、ある産業部門では促進されるが、他のある産業部門では延期されるか、逆に「過剰人口」の置き換えによって凌がれる、という傾向のちがいが表われる。
イギリスの羊毛マニュファクチュアのいくつかの部門では、最近数年のあいだに児童労働が非常に減らされ、あちらこちらでほとんど駆逐された。なぜか? 工場法は、一方は6時間、他方は4時間働くか、またはそれぞれが5時間ずつ働くかの2組の児童の順番を強制した。ところが、親たちは、この半時間工を、以前の全時間工よりも安く売ろうとはしなかった。それゆえ、機械設備による半時間工の置き換えが行なわれた。[415]
鉱山における婦人と児童(10歳未満の)の労働が禁止される以前には、はだかの婦人や少女をしばしば男子と一緒にして炭鉱その他の鉱山で利用する方法を、資本は自分の道徳書、またとくに自分の元帳とよく一致していると考えていたので、やっとそれらの禁止後に、機械設備に手を出した。[415]
ヤンキーたちは石割のための機械を発明した。イギリス人たちはそれを採用していない。なぜなら、この労働を行なっている「貧乏人」(wretch は、農業労働者を表わすイギリス経済学の述語である)は、その労働のほんのわずかの部分しか支払いを受けていないので、機械設備は資本にとって生産を高くつくものにするだろうからである。イギリスでは、ときどき、馬の代わりに、いまでもなお婦人が運河船の曳航などに使用されるが、それは、馬や機会の生産に必要な労働は数字的に定まった量であるが、それに反して、過剰人口の婦人の扶養に必要な労働はどのようにも計算できるからである。それゆえ、機械の国であるイギリスほど、つまらないことに人間力を恥知らずに乱費するところはないのである。[415-6]
マルクスはこの節のなかで、資本主義的生産様式における「市場経済の法則」がもたらす「機械設備の価格と、それによって置き換えられる労働力の価格との差」のさまざまなあり様に言及するとともに、「競争の強制法則」から「自由な」生産様式を基礎とした社会の生産過程における機械設備のもたらす可能性についてもふれている。
必要労働と剰余労働とへの労働日の分割は、国が異なれば異なり、同じ国でも時期が異なれば、また、同じ時期でも産業部門が異なれば異なる……、またさらに、労働者の現実の賃銀は、ときには彼の労働力の価値以下に下がり、ときには労働力の価値以上に上がるのであるから、機械設備の価格と、それによって置き換えられる労働力の価格との差は、たとえ機械の生産に必要な労働分量と、機械によって置き換えられる労働の総分量との差が同じであっても、はなはだしく変化することがありうる。[414]
(116a)第二版への注。それゆえ、共産主義社会では、機械設備は、ブルジョア社会とはまったく異なった活動範囲をもつであろう。
ここで言われている「まったく異なった活動範囲」は、どのような「活動形態」でどのような範囲におよぶものと展望されているのか――いままで読みすすめてきたなかでとりあえず言えることは、市場経済の「競争の強制法則」から自由となる社会では、「機械設備の価格と、それによって置き換えられる労働力の価格との差」は、市場経済の「調整機能」によって、直接、生産性の高さのみに反映されるとともに、その生産力の増大がその社会全体の要請に応じて応用されることが可能となるから、原書ページ[417]でマルクスが皮肉ったように「機械の国であるイギリスほど、つまらないことに人間力を恥知らずに乱費するところはない」というような現象が一掃される。すなわち、生産性の高さが直接、労働時間のより一層の短縮というかたちで人間労働の節約に反映する。
ここでマルクスが皮肉った、機械設備の発展がもたらしたイギリス資本主義における「人間力の乱費」という矛盾は、現代日本の社会状況にもむけられているようだ。19世紀後半の時点から比べてはるかに大工業の発展度合いの大きい日本において、大工業の発展は、「人間力の節約」を、労働時間の短縮というかたちではなく、大リストラと雇用形態の「自由化」というかたちで反映している。そのことが、日本社会全体の購買力の低下を引き起こしており、商品供給との不均衡を増大させ、日本経済全体を危機的な長期不況の悪循環のなかに陥らせている。
われわれは現在、資本主義的生産様式が支配的な社会に生活しており、マルクスの研究の主題も、当面、この生産様式の考察である。この節の最後にも、機械設備による労働過程の変革が労働者に及ぼす影響について、若干ふれられているが、次の節ではより具体的な分析に入る。