第1部:資本の生産過程

第4篇:相対的剰余価値の生産

第13章:機械設備と大工業

第1節
機械設備の発展



マルクスがこの節のはじめに引用しているミル(John Stuart Mill 1806-1873)の叙述は、「機械的諸発明」による労働強化のもとにある労働者の実態を目の当たりにして、その観察から直観的に考察されたものだったのだろう。

ジョン・スチュアト・ミルは、彼の著書『経済学原理』で、次のように言う――

「これまでに行なわれたすべての機械的諸発明が、どの人間かの日々の労苦を軽くしたかどうかは、疑わしい(注86)」〔第4篇、第6章、2.末永茂喜訳、岩波文庫、(4)、109ページ〕

マルクスはこのミルの考察について、つぎのようにのべている。

注(86)ミルは、“他の人びとの労働によって養われていないどの人間かの”というべきだったであろう。というのは、機械設備が上流の怠け者の数を非常に増やしたことは、疑問の余地がないからである。[391]

マルクスは指摘する。資本のもとにおける機械設備とその発達は、不払労働時間の割合を増やし、剰余価値を大きくするための手段となるのだと。

そして、まずマルクスが指摘するのは、機械設備の発展が、労働手段の変革を起点としていることだ。

生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。したがって、まず研究しなければならないことは、なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用具と区別されるのか、である。[391]

考察をすすめる前に、マルクスは「道具」と「機械」についての定義づけが、かなり混乱し、不正確であることを指摘している。まずは考察対象である「道具」と「機械」について、正確に定義づけなければならない。このことは必然的に、マルクスがさきに提起した問題に答えをしめすことにもなる。

数学者や機械学者たちは――そしてこのことは、ときおりイギリスの経済学者たちによって繰り返されているのであるが――道具は簡単な機械であり、機械は複雑な道具である、と説明している。彼らは、ここでは本質的な区別を見ておらず、……経済学的立場からは、この説明はなんの役にも立たない。というのは、それには歴史的要素が欠けているからである。他方、道具と機械の区別を、道具では人間が動力であり、機械では……人間力とは異なった自然力が動力であるということに、求める人がいる。それによると……牛のひく犂は機械であるが、ただ1人の労働者の手で運転されて1分間に96000の目を編む“クラウセン式円形織機”は単なる道具にすぎない、ということになるであろう。それどころか、同じ織機も、手で動かされると道具であり、蒸気で動かされると機械である、ということになるであろう。[392]

この引用のなかでもマルクスが言うように「歴史的要素」を見なくてはならない。

社会史の諸時代は、地球史の諸時代と同じように、抽象的な厳密な境界線によって区別されていないからである。[391]

この点で、マルクスはダーウィン(Charles Robert Darwin 1809-1882)の進化論の観点を評価し、引き合いにだしている。

注(89)……ダーウィンは、自然の技術学の歴史に、すなわち動植物の生活のための生産用具としての動植物の諸器官の形成に関心を向けた。社会的人間の生産的諸器官の、すなわち、特殊な各社会組織の物質的土台の、形成史も、同じような注意に値するのではないか? そして、この形成史のほうが、いっそう容易に提供されうるのではなかろうか? ……人間の歴史が自然の歴史から区別されるのは、前者はわれわれがつくったのであるが、後者はそうではないという点にあるからである。技術学は、人間の自然にたいする能動的態度を、人間の生活の直接的生産過程を、あらわにする。[392]

さて、マルクスはここで、すでに一定の発達をとげている機械設備を、機能のことなるいくつかの部分にわけて分析している。

すべての発達した機械設備は、3つの本質的に異なる部分、すなわち、原動機、伝動機構、最後に道具機または作業機から、成り立っている。原動機は、全機構の原動力として作用する。それは、蒸気機関、熱気機関、電磁機関などのように、それ自身の動力を生み出すか、または、水車が落水から風車が風から受け取るなどのように、それの外部の既成の自然力から動力を受け取るか、である。伝動機構は、はずみ車、駆動軸、歯車、滑車、シャフト、ロープ、ベルト、噛み合い装置、さまざまな種類の中間歯車から構成されていて、運動を調節し、必要なところでは運動の形態を転換させ――たとえば直線運動から円形運動に――運動を道具機に配分し伝達する。機構のこの両部分は、道具機に運動を伝えるためにだけあるのであり、それによって道具機は労働対象をとらえ、目的に応じてそれを変化させる。機械設備のこの部分、すなわち道具機こそが、18世紀産業革命の出発点をなすものである。道具機は、手工業経営またはマニュファクチュア経営が機械経営に移行するたびごとに、いまなお毎日あらためて出発点となっている。[393]

直接労働対象をとらえその形態を変化させる機能部分の変革が、生産様式の変化を生みだす。したがって、機械設備のこの機能部分に着目し、それを歴史的観点で考察してゆかなければならない。

作業工程や生産される製品によっては、作業機そのものはいまだに手工業やマニュファクチュアの作業場で製作され、作業機体に取りつけられるものがある。マルクスが具体的に例示しているのは、力織機の紡錘、靴下編み機の針、のこ機械ののこ身、肉刻み機の包丁など。原動機と伝動機構によって動かされるものではあれ、それらの道具は「以前に労働者が類似の道具で行なったのと同じ作業を行なう一機構である」。

原動力が人間から出てくるか、それ自身また一機械から出てくるかは、事態の本質をなにも変えない。本来的な道具が人間から一つの機構に移されたときから、単なる道具に変わって機械が現われる。[394]

「本来的な道具が人間から一つの機構に移された」事例としてマルクスが例示しているのは、ジェニー紡績機である。それは、この紡績機が、人間が原動力のままであるにもかかわらず、もっとも顕著に「機械化」の特徴をしめしているからである。それは「1労働者が同時に使用できる労働用具数の制限からの解放」である。

人間が同時に使用できる労働用具の総数は、人間の自然的生産用具、すなわち彼自身の肉体的器官の総数によって制限されている。ドイツでは、最初、1人の紡績工に2台の紡車を踏ませようと、したがって、同時に両手両足を使って働かせようとの試みがなされた。これは、あまりにも骨の折れることであった。その後、2つの紡錘をつけた足踏み式紡車が発明されたが、同時に2本の糸を紡ぐことのできる紡績の熟練者は、双頭の人間と同じように、きわめてまれであった。それに反して、ジェニー紡績機は、最初から12‐18錘の紡錘で紡ぎ、靴下編み機は、同時に何千本もの針で編む、等々。同じ道具機が同時に働かせる道具の総数は、最初から、1人の労働者の手工業道具を限られたものにする器官的制限から解放されている。[394]

マルクスはつぎの段落で、手工業における道具について、「原動力としての人間と操縦者である人間とは『感性的に』区別される」[395]と指摘している。「紡ぎ車」では、労働者の「足」が「原動力」となり、紡錘を操作して糸を引き撚る「手」が本来の紡績作業を行なう。

まさに手工業用具のこのあとの部分をこそ、産業革命はまず第一にとらえる[395]

一方で、道具のなかには人力を原動力とするものもあり、これは比較的早期に機械化されてきた。

たとえば、ひき臼の柄を回すとか、ポンプを動かすとか、ふいごの柄を上下に動かすとか、すり鉢で砕くとか、などの場合のように……しかしこれらは、生産様式を変革しない。[395]

17世紀末、マニュファクチュア時代中に発明されて、18世紀の80年代はじめまで存続していたような蒸気機関そのものは、産業革命を呼び起こしはしなかった。むしろその逆に、道具機の創造こそが、蒸気機関の変革を必然にしたのである。人間が、道具で労働対象に働きかける代わりに、原動力として道具機に働きかけるにすぎなくなると、原動力が人間の筋肉をまとうことは偶然となり、風、水、蒸気などがそれに代わりうる。[395-6]

作業機の発達にともなって、それまですでに開発されつつあったさまざまな原動力機構は、より大規模なものがもとめられるようになる。またこれらの原動力を作業機に伝えるための伝動機構の大規模化効率化がもとめられるようになる。ただしこの過程は、原動力機構の開発から伝動機構の開発へ、という一方向的なものではなかったようだ。これらの過程でさまざまな「科学的および技術的」発展があった。

すでに17世紀には、二つの回転石、したがってまた二つのひき臼を一つの水車で動かすことが試みられていた。ところがこんどは、伝動機構の規模が大きくなって、いまや不十分になった水力と衝突するにいたったのであって、これは摩擦の法則のいっそう精密な研究を促した事情の一つである。同様に、柄の押し引きで動かされた製粉機において動力の作用が不斉一であることが、のちに大工業できわめて重要な役割を演じるはずみ車の理論と応用に導いた。このようにしてマニュファクチュア時代は、大工業の最初の科学的および技術的な諸要素を発展させた。[397]

このようにして、原動力機構は伝動機構の発達をともなって相乗的に発展してゆく。そしてついに、ワット(James Watt 1736-1819)が開発した複動式蒸気機関によって、大工業時代は本格的な幕開けを迎える。

ワットの第二のいわゆる複動式蒸気機関によってはじめて、原動機――石炭と水を食ってみずからその動力を生み出し、その力能がまったく人間の管理のもとにおかれ、可動的であって移動手段でもあり、都会的であって水車のように田舎的でなく、水車のように生産を地方に分散させるのでなくて都市に集中することを可能にし、その技術学的適用において普遍的であり、その所在地において地方的事情により制約されることが比較的少ない原動機が、発見された。ワットの偉大な天才は、彼が1784年4月にとった特許の明細書のなかに示されており、そこには、彼の蒸気機関が、特殊的諸目的のための発明品としてでなく、大工業の一般的推進者として記述されている。[398]

本来の道具として機能していた作業器具が機械装置としての道具機に転化することで、原動機や伝動機構の機械化と道具機への適応をうながしたが、ひとたび原動機や伝動機構が機械的道具に適応して一つのシステムがつくりあげられると、今度は、どれだけ多くの道具機を同時に動かすことができるか、そして、それに対応して、原動機構と伝動機構をどこまで拡大できるかがもとめられる。

ただし、その同時に動かされるより多くの道具機が、同種のものか、異種の一系列のものかは、「区別されなければならない」、とマルクスは指摘する。

前者、「多数の同種の機械の協業」では、「一製品全体が、同じ作業機によってつくられる」。この製品は、必ずしも、その製作作業過程でマニュファクチュア的分業が発達しているものではない。

このような作業機が、一つの比較的複雑な手工業道具の機械的再生にすぎないものであろうと、種類の異なる、マニュファクチュア的に特殊化された単純な用具の結合体であろうと――いずれにせよ、工場では、すなわち機械経営にもとづく作業場では、いつも単純協業が再現する[399]

注(100)マニュファクチュア的分業の立場からすれば、織ることは、単純な手工業的労働ではなくて、むしろ、複雑な手工業的労働であった。それゆえ、力織機は、きわめて多様なことをする機械である。近代的機械設備が最初に征服するのは、マニュファクチュア的分業がすでに単純化していたような諸作業であるという見解は、一般的には誤りである。紡ぐことおよび織ることは、マニュファクチュア時代のあいだに新しい種に分けられ、それらの道具は改良され変化したが、労働過程そのものは、まったく分割されないで、手工業的なままであった。機械の出発点は、労働ではなくて、労働手段である。[400]

後者、「種類を異にするが相互に補足し合う道具機の一つの連鎖によって遂行される」一系列の労働過程――マルクスはこのシステムを「本来的機械体系」[400]と位置づけている。

本来的機械体系が個々の自立した機械に代わってはじめて現われるのは、労働対象が連関する一系列の相異なる段階過程を通過する場合であるが、それらの各段階過程は、種類を異にするが相互に補足し合う道具機の一つの連鎖によって遂行される。ここでは、マニュファクチュアに固有な分業による協業が再現しているが、しかしいまでは部分作業機の結合としてである。[400]

「分業による協業」という意味ではマニュファクチュアが確立した要素を持ち合わせているものの、その過程の内容は質的に異なっている。それは具体的には「労働手段」の在りようにしめされている。

たとえば羊毛マニュファクチュアでは打毛工、櫛毛工、剪毛工、毛糸紡ぎ工などの独自な諸道具は、いまや、専門化された作業機の諸道具に転化しており、この作業機のそれぞれは、結合された道具機構の体系における特殊的器官をなしている。[400]

この質的なちがいは、マニュファクチュアでは労働者の特殊労働に適合されていた「労働手段」が、機械的体系に転化されていることによる。

分業は労働過程を特殊化し部分労働過程に労働者を適合させるのであるが、その部分労働自体は、マニュファクチュアの段階では、まだ労働者の部分労働に依存し、適応されていたから、そこで使用される道具の特殊化もまた一定の「限界」をもっていた。しかし、この道具が、完全に機械化され、一つの体系となったとき、分業のもつ「労働過程の特殊化」という要素は、人間労働の個別的制限のさいごの壁を突破する。その特殊化は、人間の生理学的意味での特殊化というより、むしろ、「力学、化学などの技術的応用」によってすすめられるようになる。

ただし、この新たな段階の「特殊化」に人間の実際の労働過程が介在していることはまちがいのないことであって、

その理論的構想は、やはり、大規模な積み重ねられた実際的経験によって仕上げられなければならない。[401]

マニュファクチュア時代から大工業時代への過渡期、あるいは転換期に、実際の生産部門でどのような経過で機械体系が取り入れられていったかを、マルクスはつぎのように分析している。

マニュファクチュアそのものは、機械体系がはじめて採用される諸部門では、一般に生産過程の分割の、それゆえまたその組織の、自然発生的な基礎を機械体系に提供する。しかし、すぐに、本質的区別が現われる。[400]

注(101)大工業の時代より以前には、羊毛マニュファクチュアがイギリスの支配的マニュファクチュアであった。それゆえ羊毛マニュファクチュアでは、18世紀の前半期のあいだに、たいていの実験が行なわれた。その機械的加工がそれほどめんどうな準備を必要としない綿花には、羊毛で得られた諸経験が役立った――のちには、その反対に、機械的羊毛工業が機械的綿紡績業および機械的綿織物業の基礎の上に発展するのと同じように。羊毛マニュファクチュアの個々の要素は、たとえば梳毛のようにやっとこの数十年来工場制度に合体された。[401]

同時に動かされるより多くの道具機が、同種のものか、異種の一系列のものかは、「区別されなければならない」として考察してきたマルクスは、ある段階に達した機械化システムでは、その両種とも「自動装置(アウトマート)」を形成すると、指摘する。

機械設備の体系は、織布でのように同種の作業機の単なる協業にもとづくものであろうと、紡績でのように異種の作業機の結合にもとづくものであろうと、それが自動的な原動機によって運転されるようになるやいなや、それ自体として一つの大きな自動装置を形成する。……作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の関与なしに行ない、いまでは人間の調整を必要とするにすぎなくなるやいなや、機械設備の自動的体系が現われる[401-2]

このあとにマルクスが考察している「自動調節機」については、卓見であると思う。ここでは具体的には、紡績機における「自動停止器」であるが、それが「まったく近代的な発明品」であることは、「アウトマート」における調整の役割を、これまた「アウトマート」によって行なうシステムの構築という観点からであろう。

この「調節機能の自動化」については、実際の労働過程や作業現場における数え切れない実践の積み重ねが必要であるし、それとともに発展する技術革新がともなわなければならない。しかし、昨今多発している原子力発電所での事故などについては、もう一つ、政治的な非合理主義(原発においては「安全神話」)が安全管理における技術発展を阻害することを教えている。

もっぱら伝動機械設備を媒介として一つの中央的自動装置からその運動を受け取る諸作業機の編成された体系として、機械経営はそのもっとも発展した姿態をもつ。[402]

機械を製作する労働者は、マニュファクチュア時代の分業労働者たちのなかから生まれたし、機械そのものは、原動機などのかたちでマニュファクチュア時代にすでに製作がはじまっており、機械製作の技術の発展、あるいは機械製作の分業化の促進はすでにマニュファクチュア時代にはじまっていたわけで、

したがって、ここでわれわれは、マニュファクチュアのなかに大工業の直接の技術的基礎を見てとる。そのマニュファクチュアが機械設備を生産した[403]

とはいえ、機械経営が実際に支配的な形態となるまでには、それ相応の試行錯誤がともなっていた。

機械経営は、それに不相応な物質的基礎の上に、自然発生的に現われた。ある発展度に達すると、機械経営は、はじめには既成のものとして見いだされ、次には古い形態のままでさらに仕上げられた基礎そのものを変革し、それ自身の生産方法にふさわしい新しい基盤をつくり出さなければならなかった。……すでに機械的に経営されている産業の拡大と新しい生産諸部門への機械設備の侵入とは、その仕事のなかば芸術家的な本性のために飛躍的にではなく徐々にしか増やされえなかった労働者部類の増加によって、まったく制約されたままであった。[403]

一定の発展段階において、大工業は、技術的にも、その手工業的およびマニュファクチュア的な基礎と衝突するにいたった。原動機や伝動機構や道具機の規模を拡大すること、道具機がその構造をもともと支配している手工業的な型から解放されその機械的課題によってのみ規定された自由な姿態をとるにつれて、上記の機械類の構成部分の複雑さ、多様さ、厳密な規則正しさを増すこと、自動的体系を完成すること、および処理しにくい材料たとえば木材に代わる鉄の使用がますます不可避的になること――これらの自然発生的に生じるすべての課題の解決は、いたるところで人的諸制限に突きあたったが、その諸制限は、マニュファクチュアで結合された労働者人員によっても、ある程度打破されるだけで本質的には打破されない。[403-4]

注(103)……機械学がいっそう発展し、実際的経験が積み重ねられたあとにはじめて、機械の形態は完全に機械学的原理によって規定され、それゆえ、道具の伝来の身体形態からまったく解放され、道具は一人前の機械に成長する。[404]

すでに一定の段階に達している社会的分業においては、

一産業部面における生産方法の変革は、他の産業部面におけるそれの変革を引き起こす。[404]

たとえば、機械紡績業は機械織布業を必要とし、そしてこれらの二つはともに、漂白業、捺染業、染色業における機械的・化学的変革を必要とした。たとえば他方では、綿紡績業における変革は、綿実から綿の繊維を分離するための“綿繰り機”の発明を呼び起こしたが、いま必要となっている大規模木綿生産が、それによってはじめて可能となった。[404]

マルクスは、マニュファクチュアから大工業への転換期に変革されたものとして、さきの章でも「社会的生産過程の一般的条件」と位置づけられていた「運輸・通信手段」の変革についても指摘している。

マニュファクチュア時代から継承された運輸・通信手段も、まもなく熱病的生産速度、膨大な規模、一つの生産部面から他の生産部面への大量の資本と労働者の絶え間ない投入、新しくつくり出された世界市場の連関、をともなう大工業にとっては、やがて耐えがたい束縛に転化した。それゆえ、まったく変革された帆船建造を別とすれば、運輸・通信制度は、川蒸気船、鉄道、大洋汽船、および電信の体系によって、徐々に大工業の生産方法に適合された。[405]

マルクスは、この“転換期”を決定づけた要素として、「機械によって機械を生産する」技術の確立を指摘している。

こうしてはじめて大工業は……自分自身の足で立った。[405]

この「機械によって機械を生産する」上で大量の鉄鋼生産をささえることのできる機械製作の技術革新が必要だった。大工業時代を特徴づける「恐ろしいほど大量の鉄」の消費と生産をささえることのできる一体系は、マルクスの叙述によれば19世紀後半に確立された。

19世紀の最初の数十年間における機械経営の増大とともに、実際に機械設備が道具機の製造をしだいに征服していった。とはいえ、やっと最近数十年間に、大規模な鉄道建設および大洋汽船航海が、原動機の建造に使われた巨大な諸機械を出現させた。[405]

マルクスはここで、自在に出力調整可能な原動機の存在と、鉄鋼加工を精密かつ容易で安価なものにした「工具送り台(スライド・レスト)」の発明と自動化・応用とに注目している。

機械による機械の製造のためのもっとも本質的な生産条件は、どんな出力をも出すことができ、しかも同時に完全に制御しうる原動機であった。それは、すでに蒸気機関において実存していた。しかし同時に、個々の機械部分に必要な厳密に幾何学的な諸形態――線、平面、円、円筒、円錐、球のような――を機械で生産することが必要であった。[405]

機械を製造するために用いられている機械設備は、大規模な形態でもって手工業的用具を再現する、とマルクスは指摘する。大規模な原動機によって動かされる巨大な錐、造船所で合板を切り裂く巨大なカミソリ、鉄鋼板を剪断する巨大なハサミ、6トン以上の重さで2メートル以上の高さから垂直落下する「トールハンマー」。

そして、もっとも重要なのは、これらの機械設備によって製造される巨大な機械システムは、社会化された共同労働によってのみ機能する、ということである。この特徴は、これまでみてきた「単純協業」や「マニュファクチュア」においてよりも、一般化されている「大工業」の特徴である。

労働手段は、機械設備として、人間力に置き換えるに自然諸力をもってし、経験的熟練に置き換えるに自然科学の意識的応用をもってすることを必須にする、一つの物質的実存様式をとるようになる。……いまや、労働過程の協業的性格が、労働手段そのものの本性によって厳命された技術的必然となる。[407]



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